申如録

日常生活で考えたことなど

反出生主義について考える

転載にあたって

 この記事は某大学の刊行物への寄稿を一部改変したものです。その刊行物の読者はたいして多くないでしょうし(失礼)、刊行物自体がそもそも営利目的ではありませんから、せっかくなら寄稿をこのブログにも載せてしまえ、というわけです。
 タイトルにもあるとおり、この記事は反出生主義に関するものです。反出生主義について知るのが初めての方だけでなく、すでにある程度は知っている方にも読んでもらえるような内容にしてあります。反出生主義のことを少しでも多くの人に知ってもらうことに加え、既存の議論に対して一石を投じることがこの記事のねらいです。

 中国語に「抛磚引玉」という四字熟語があります。瓦を投げて玉(ぎょく)を引き寄せる、つまり未熟な議論によって優れた議論を誘発することを指します。
 この記事がまさに瓦としての役割を果たし、玉を生み出すきっかけになったなら、筆者としてこれ以上うれしいことはありません。

反出生主義について考える

子どもを生む人はさ、みんなほんとに自分のことしか考えないの。生まれてくる子どものことを考えないの。子どものことを考えて、子どもを生んだ親なんて、この世界にひとりもいないんだよ。ねえ、すごいことだと思わない? ――川上未映子『夏物語』

I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね ――吉野弘「I was born」

はじめに―反出生主義とは何か

 反出生主義とは、人間が生まれてくることや人間を生み出すことを疑問視し、否定する思想である。人の出生に関しては反出生主義や「ガチャ」が最近ホットな話題だから、名称を耳にしたことがある人も少なくないだろう。ここではその反出生主義を手がかりに、子どもを生むこと/生まれることについて考えてみたい。(注:私は反出生主義者ではありません、念のため。)

反出生主義について考えてもよいのか

 反出生主義のような思想に対しては、その内容を知る前から反感を示す人がいる。世の中には根拠を問うこと自体が不道徳な逸脱行為として非難されるものがあり、この反出生主義もその一つだからだ。
 例えば「人を殺してはいけない」に対して「なぜ?」と問うことは、たとえそれが純粋な疑問であったとしても、ただそれを問うたという事実をもって逸脱行為=不道徳だと非難されることがある。「子どもが欲しい」に対して「なぜ?」と問うことも同様で、子どもを生むことが当たり前だと考える人たちにとって、その疑問は逸脱行為として道徳的に非難すべきものなのだ。

 だが私は、反出生主義に興味のある人はもちろん、反感を覚える人にも反出生主義について知り、考えてほしいと思っている。私の理解では、反出生主義は生む側(親)よりも生み出される側(子ども)の立場に立って出生について考える。そんな反出生主義の視点を借りて、子どもを生むということが生み出される子どもにとっていったいどういうことなのかを考えることは、子どもに対する一つの愛にもなるのではないか。
 また、この文章の読者に学生―特に出生について疑問を持っている―がいるなら、その疑問を他の何かでごまかしたりがんばって忘れたりしなくてもいいのだと伝えたい。大学には、そのような(不道徳な)問いにとことん浸り、とことん考え抜くことを許してくれる自由な空気があるのだから。

反出生主義とはそもそも誰について考えることなのか

 反出生主義について考えるときにまず明らかにすべきなのは、そもそも生み出される存在が何なのかということだ。反出生主義に関する議論では人間一般(子ども一般)の出生について論じることが多いが、私は結局のところ私としてしか生きたことがないのだから、私という存在から離れていきなり人間一般について考えたり、それをまだ生まれてすらいない子どもに当てはめたりしても議論は実感に欠けるだろう。
 そこで、反出生主義について考える際は、まずは私が今ここに生きていることがどういうことなのかを考えておく必要がある。詳しくは後で述べるが、反出生主義とは今ここに生きている私について考えた結果、副次的に浮かび上がる問題意識なのだ。

私とは内容的規定を持たない存在=世界である

 私が今ここに生きていることは、文字どおり奇跡としか言いようがない。それは両親がたまたま出会いたまたま恋に落ちて私が生まれたからとかそういう確率の話ではなく、そこからだけ世界が開けているような私が現に今ここにただ一つ存在しているという事実そのものが比類ないということだ。

 私が存在しないことは世界が存在しないことに等しいという意味において、私とはすなわち世界そのものである。世界は私が生まれる前もあったし死んだ後もあるだろうが、その世界は私には微塵も関係ない。世界が現にあることは、私が現にあることと切っても切れない関係にある。
 また、私とはいかなる内容的規定にかかわらず存在するただ一つのものでもある。例えば、私がたつのすけAとたつのすけBに分裂したつのすけBが私だったなら、たつのすけAとたつのすけBは内容的には同一であっても、たつのすけBは端的に私でありたつのすけAは端的に他人だろう。
 要するに、私とはなぜか知らないが現に今ここにただ一つ存在する世界そのものであり、そんなものは古今東西どこを見てもこれ一つしかないという極めて特異な存在なのだ。

 子どもを生むことは、だから、単なる一個人を生むのではない。それは新たな私を生むということ、言い換えれば世界を生むことにほかならない。反出生主義を考えるにあたっては、私という存在のこの途方もない巨大さをとらえそこなってしまうと、その問題提起の重みが実感できなくなってしまう。

反出生主義は何を問題にするのか

 反出生主義に関する議論では、生まれてくる子どもが不幸になる可能性を問題にすることが多い。確かに子どもを生むことは子どもが不幸になる可能性を孕んだ「ガチャ」であることは否めないから、子どもの幸/不幸は一つの論点になりうる。

 しかし問題の核心は子どもの幸/不幸などではなく、前節で述べたように、子どもを生むことによって生み出される存在(私)が単なる一個人ではなく一つの世界だということにある。つまり、そのような一つの世界としての私を他人が生み出してしまえるところに問題の核心があるのだ。
 出生という出来事において「ガチャ」を引くのは他人(親)なのに、その結果は当の本人(子ども)が引き受けなければならない。この原因と結果の主体のねじれは、引き受けるべき結果(私=世界)の途方もない巨大さと相まって、出生に対する疑問や否定へと結びついていくのである。

 出生は確かに比類ない一つの奇跡ではある。だが同時に、それはある種の越権行為でもあるだろう。

おわりに―反出生主義の限界と可能性

 反出生主義に反論することはたやすい。「子どもがいなければ社会保障制度を維持できない」と真正面から主張することも可能だし、「善悪の議論はそもそも行為の動機に直結しない」と主張して議論の土台自体を掘り崩すことも可能である。また、先の「私=世界」の観点に立って、生み出される私という存在が内容的規定を持たないのなら、出生はそもそも親の責任ではない」と主張することも可能である。
 それでは反出生主義について考えることはまったく無意味なのだろうか。そうではない。先に述べたとおり、反出生主義とは私という存在について考えた結果、副次的に浮かび上がる問題意識である。反出生主義の根底に世界としての私が在り、その私こそが最も比類ないものである以上、反出生主義の問題意識は決してその意義を失わないのだ。