申如録

日常生活で考えたことなど

眠られない夜のたわごと 3


 首里城を燃やした人がいるとするならば、首里城を愛していた人であってほしい。燃え盛る首里城はその人の心に深い感銘を残しただろうか。彼にとってその光景はさぞ美しかっただろうか。

 木の葉を川に浮かべるとゆらゆらと遠ざかっていく、それによって川が流れていることがわかる。時間も同じようにして流れているといえるだろうか?
 流れているといえるためには、流れているものとは別に観測者が必要だ。流れているものとは別に流れないものが。川に浮かんだ木の葉はわれわれに見られることによって流れているとわかる。
 私たちは木の葉そのものであり、別に観測者は存在しない。したがって時間が流れているとはいえない。川に対岸の景色は存在し動かないが、時間に対岸の景色は存在しない。対岸の景色もまた木の葉だからである。

 日没後、田舎の電車に乗っていたら、電車が通る一瞬だけ線路が照らされた。その光景はまるで本みたいだと思った。開かれないページは夜の線路のように暗く、私が開く瞬間だけ光が当たる。私がその光である。
 仮に線路が年表だとすると、私の人生はその上の一瞬の光芒にすぎないのだろうか。そうともいえるがそうではないともいえる。年表はむしろ私の人生の中にあるからだ。

 山上徹也容疑者の母親は統一教会の熱心な信者らしく、話を聞く限りではわき目もふらず宗教に熱中していたようだ。宗教へのわき目もふらぬ熱中といえば、空也上人が思い浮かぶ。「捨ててこそ」。時代や環境が違えば山上徹也容疑者の母親も上人になれたかもしれない。

 自分にできることなど何一つない。既存のことの延長は自分がやらなくても他の誰かがやるし、新しいことはできる気がしない。世界に自分がいる場所がない。疲れた。酒やセックスに依存する人の気持ちがわかる。酒は疲れをぼやけさせてくれるし、セックスは快楽という結果がすぐ見える。虚しい。
 こんな考えを抱くこともありましたが、不健康なのでやめました。