申如録

日常生活で考えたことなど

夢の中でまた夢を見た話

こんな夢を見た。

 私は5冊セットの本が欲しいと思い、そのうち4冊を書店で購入し、残りの1冊(なぜか第2巻)をお金の節約のために万引きした。しかし、本を手に入れたのも束の間、万引きはすぐにお店側にバレてしまい、さらに万引きの罪名を社会に暴露されてしまう。私は職を失い、友を失い、社会的に抹殺されてしまった。
 大変落ち込んでいたところで、目が覚めた。
 なんて嫌な夢だ……でも5冊セットのうち第2巻を万引きしたのは確かだし、きっとそのことに対する罪悪感や後悔の念があったせいでこんな夢を見てしまったのだろう。ああ、とても気分が悪い。心臓がバクバクしている。こんなことしなければよかった。でも、かといって社会的に死にたくはないから今さら告白して謝罪とかはできないけれど……
 ここで目が覚めた。

 一瞬、何が何だかわからなかった。私は確かに万引きをしたはずで、だから万引きした夢を見て……あれ? じゃあ今現に見えているこの世界は何なんだ?
 夢の中でまた夢を見た、という事実に気づいたのは少し考えた後でだった。

夢が夢になるには

 自明のことかもしれないが、夢は醒めたあとではじめて夢とわかる。醒めることによってはじめてそれが夢となる。だから、醒めるまではそれが夢だとは決してわからない。(なお、私の言う「醒める」とは、それが夢であると認識できる地点に立つことを指している。たまに夢の中で「あっこれ夢だな~」と気づいて意識的に動ける「明晰夢」があるが、それが夢であることがわかる時点ですでに夢からは一歩外に出ているため、ここでは明晰夢をすでに夢から醒めている状態と見なしておく。)
 少なくとも私は知識として、またこれまでの経験からこのことを自明の理だと思っていた。しかし、夢の中で夢を見て現実と夢の区別がつかなくなり、改めて現実と夢の違いを考え直す機会を得たことによって、これは確信へと変わった。

 結論から先に言ってしまえば、われわれの生きるこの世界を含め、一個の完結した世界は、それ自身が何者かの夢であることを証明できないし否定もできない。それが証明または否定できたならば、その世界はもはや完結しておらず何か別の世界に開かれており(ちょうど夢の世界が現実の世界に対して開かれているように)、そしてその「何か別の世界」のほうが今度は現実となる。この夢と現実の転換のプロセス、言い換えれば世界の転換のプロセスについては、私の夢を例に詳しく考えてみよう。

夢の中の夢の構造

 夢の中で夢を見るということは、結果として夢から醒めた「現実」が2つあるわけだから、現実が二重写しになる。私が夢から醒めたとき「何が何だかわからなかった」のは、この二重写しのためである。このことについて、実際に生きている現実を「現実」、現実の自分が見ている夢を「夢1」、夢の中の自分が見ている夢を「夢2」として、時系列順に見ていこう。

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  1. まずは「夢2」しかなかったとき、言い換えれば、まだ一度も夢から醒めていないとき。このとき、「夢2」は現実だった。私の事例でいうと、私の万引きがバレて社会的に抹殺されている状態は、このときにおいてはまだ現実だったことになる。繰り返しになるが、まだ何からも醒めていないわけだから、最終的にはそれが夢のまた夢にすぎないとしても、そのときにおいては現実であるほかないのだ。
  2. 次は「夢2」から醒めたとき。それまでは万引きがバレたのが現実だったわけだが、私が万引きを後悔している現実(=後の「夢1」)が(突如!)現れたことにより、万引きがバレたのが現実から夢1へとスライドしたわけである。
  3. そして最後に「夢1」からも醒めたとき。それまでは万引きを後悔しているのが現実だったわけだが、私が万引きしていない「現実」が(突如!)現れたことにより、万引きを後悔しているのが現実から「夢1」に、万引きがバレた夢1が「夢2」にそれぞれスライドした。

 私がこの「現実」に戻ったとき、あたかも自分が万引きをしていたかのように思ってしまったのは、これまで述べてきたような「夢→現実」のスライドを1度の睡眠につき1回しか経験してこなかった(つまり②までの経験しかなかった)ことによる。あの「寝ぼけ」は、夢がまだ現実であったころの名残なのだ。

スライドの方向について

 余談だが、夢と現実のスライドの仕方が一方向的であるのはまことに興味深い。夢から醒めるときは必ず「あれは夢だった、これが現実だ」という形を取らざるを得ず、新たに登場するのは常に「現実」でなければならない。しかし、新たに登場するのが「夢」であるような、そんなスライドの仕方はないのだろうか? 
 ――おそらくそれはあるまい。たとえ2つの世界がその内部では同じように現実性を持っていたとしても、われわれの日常言語は時間的に先のものを「夢」と言い、時間的に後のものを「現実」と言うようにできているからだ。明晰夢の場合を除き、夢が常に過去形で語られ、現在形では語られないのがその証拠だろう。したがって、われわれがこの日常言語に依拠し続けるかぎり、時間的に後のものを「夢」とする意味づけはそもそも意味を持たず、時間的に後だからという理由でそれは「現実」とされてしまうのだ。たとえこのスライドの仕方があり得たとしても、それはもはやわれわれからは理解できない。「あれは現実だった、これが夢だ!」という言葉を理解しうる言葉を、われわれは持っていないからである。

 現実と偶然性

 私は今のところこの現実を「現実」と呼んでいる。「この現実」とは、現在新型コロナウイルス感染症が流行しているこの現実のことだ。それはきっと読者の方々も同じことだと思う。
 しかし、果たしてこの現実というものは、ほんとうの「現実」なのだろうか? われわれが「現実」と呼んでいるこの世界は、実はまだ醒められていないだけで、これも一つの夢なのではないか? 先の図に当てはめていえば、われわれが生きている現実は①または②の「現実」なのではないか?
 結論から言うと、私はこの現実が実は夢だ、などとは考えていない。何しろまだ醒めていないのだから、「実は」とか「ほんとうは」とかなしに、この現実は端的に現実である。これは一つの覆しようのない結論だと思う。

 確かに、この現実は端的な現実であり、今のところこれが夢である可能性はない。しかし、端的な現実であるはずのこの世界に思いをはせると、世界が現にこれであることの偶然性がかえって私にはひしひしと感じられてしまう。なんというか、現にこれでしかありえないはずのこの世界が、綱渡りの上に成立しているような、そんな感覚にとらわれるのだ。
 現実世界の端的さと偶然性、この両者は一見矛盾する概念に思われるだろう。現実世界が端的なのは、現実世界には外側がないからであり、それゆえそもそも考慮すべき存在可能性はこの一つしかないからだ。それでも私は、これ以外の世界もありえたのではないか? と疑問に思ってしまう。
 この世界に関する私の疑問は、「私」に対しても当てはまる。私はときどき、私がたつのすけという個体と同一でないような、彼でもありえたし、あれでもありえたような、いやどの個体とも違う大きな広がりであるような、そんな感覚にとらわれる。また、足元に何かぽっかりと大きな穴が開いているような気がして、これ以外の私もありえたのではないか? と考えて怖くなり、そのたびに「今日もたつのすけでいられた」と安心する。(とはいえ、私が特定の個人であることと特定の個人の記憶は不可分に結びついているから、ある日突然私が他人になったとしても、当の私を含めそのことには誰も気づかないのだけれど。)

 現にこれでしかありえないはずの現実世界や現実の私に対して、その成立があたかも偶然であるような、無数の諸可能性のうちからたまたま選び出されたにすぎないような感覚を抱くのは、私の思考が十分に合理的でないからかもしれない。だが、この感覚は、理性とはまた違い、身体の底とでも呼ぶべきところから発せられる生々しい感触であり、容易には解消しそうにない。現実の持つ端的さと偶然性の内的連関に関する問題を解消することは、私の今後の課題である。今は、両者が矛盾のままで無矛盾であるようなものだとぼんやり考えている。

 胡蝶の夢

 話が袋小路に行ってしまった感があるので、ここで一つ、夢にまつわる有名な漢文を紹介しておこう(一応中国思想が専門なので)。『荘子』斉物論のいわゆる「胡蝶の夢」である。

 昔者荘周夢為胡蝶(かつて荘周は夢で蝶々になった)
 栩栩然胡蝶也(ひらひらとした蝶々であった)
 自喩適志与(悠々自適だったからだろうか)
 不知周也(自分が荘周であることに気づかなかった)
 俄然覚(はっと目が覚めてみると)
 則遽遽然周也(はっきりと荘周であった)
 不知周之夢為胡蝶与(荘周が夢で蝶々になったのか)
 胡蝶之夢為周与(蝶々が夢で荘周になったのかわからない)
 周与胡蝶則必有分矣(荘周と蝶々には必ず区別がある)
 此之謂物化(これを物化(物の変化)と呼ぶ)

 (掲載にあたっては、池田知久・金谷治・興膳宏・福永光司諸氏の訳を参考にした)
 (ちなみに、先に私が述べた「夢は醒めたあとではじめて夢とわかる」ということが、同じ『荘子』斉物論に「夢飲酒者、旦而哭泣。夢哭泣者、旦而田獵。方其夢也、不知其夢也。夢之中又占其夢焉。覚而後知其夢也。(夢で酒を飲んでいた人が、翌朝になると号泣している。夢で号泣していた人が、翌朝になると狩りに出かけている。夢を見ているときは、それが夢だとはわからない。夢の中で夢占いをしていることだってある。醒めたあとでそれが夢だったことがわかるのだ。)」という形で書いてある。私の夢に対する気づきは『荘子』とは独立だが、二千年以上も前にこのことに気づいている人がいたというのはなんだか励みになる。)

 私は夢のことについて考えるとき、一通り考えたあとで、必ずこの漢文を読むことにしている。この箇所を読みながら考えていると、夢と現実がゆるやかに溶け合っていくような感じがしてとても気持ちがいい。さすがは古典というべきだろう。

 さて、内容については読んでわかるとおり、荘子は自身が荘子であるときと蝶々であるときを比べ、どちらが夢でどちらが現実なのかわからないと言っている。しかし、これについては先に私が述べたように、醒めたならばそちらが現実なのだから、この場合は荘子のほうが現実だと判断するほかない。この端的な現実こそが現実なのであり、現実に「ほんとうの」や「実は」は存在しない、そういう世界にわれわれは生きている。このことは先ほどから繰り返し述べているとおりである。
 ただ、それと同時に、荘子も私と同じようにこの現実の偶然性に戸惑っていたのではないか、とも思われる。荘子がこの現実を蝶々の夢であるかもしれないと考えたのは、おそらくこの現実の偶然性というか、私の言葉で言えば「綱渡りの上に成立しているような」感覚があったからではないだろうか。この現実だけがほんとうの現実だと信じ切っているのであれば、そもそもこのような文章は書けないからである。

おわりに

 思うに、現実の持つ端的さと偶然性の内的連関に関する問題は、頭だけを使ったのでは解消できない。解消のためには、知性、感性、その他あらゆるものを駆使しつつ、無駄な力みを抜き、身体に底流し外界と相呼応する大きな波に身をゆだねなければならないだろう。そして、大きな波に身をゆだねきったならば、おそらく問題はすでに融解しているはずだ。私が問題の「解決」と言わずに「解消」という表現を用いたのは、この種の問いは回答を与えることでは解決にはならず、問いそのものが解消される地点まで己を掘り下げていくしかないからである。ここでは問いの解消がそのまま解決になるのだ。その境地に立ってはじめて、これまでの問いを根底から掘り返すような新たな洞察が生まれてくる。