申如録

日常生活で考えたことなど

神はどこにいるのか

 私は特定の宗教を信仰しているわけではないが、神はいると思う。

 私のいう〈神〉は、おそらくみんなが漠然と(あるいははっきりと)考えるような「神」とはちょっと違う。私にとっての〈神〉は、たとえば目の前にりんごがあるのと同じように物体として存在するのではなく、かといって抽象的な概念として存在するのでもない。完全とか全知全能とか、一般的な神にまつわるタームはそもそも〈神〉には関係がない。

 〈神〉とは、私の存在や私の世界の裏側にべったりと貼りつき、しかもそれを内側から成り立たせるような「大きさ」である。それは私や世界の根拠なので、私はただ「お任せする」しかない。

 〈神〉については、『老子』第25章の次のような表現が参考になる。むしろ私がここで〈神〉と呼んでいるものと『老子』第25章で「道」や「大」と呼ばれているものは同じだと思う。

有物混成、先天地生。寂兮寥兮、獨立不改、周行而不殆。可以為天下母。吾不知其名、字之曰道。強為之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。
何やらひとまとまりになったものがあり、それは天地が生じるよりも先に生じている。音も無く形も無く、それ自体として存在して変化せず、あらゆるところに行きわたってとどまることがない。この世界の母だと言えよう。私はその名前を知らないので、仮に「道」と名付けておく。強いて名付けるなら「大」とも呼べる。「大」とは「逝(過ぎ行くもの)」であり、「逝」とは「遠(遠ざかるもの)」であり、「遠」とは「反(返ってくるもの)」である。

 私のいう〈神〉も強いて名付けたものにすぎない。

 〈神〉への気づきは、知的側面においては存在への驚きから始まり、身体的側面においては存在への畏れから始まる。存在への驚きとは、存在しないこともありえたのになぜかあるという驚きであり、存在への畏れとは、存在が私の手に負えないと自覚したとき自ずと湧きあがる畏れである。

 前者の「存在しないこともありえた」は極めて重い。
 これは「世界がこの世界であることは数限りない可能世界のひとつがたまたま実現したものだ」とかそういう確率や事象内容の話ではなく、この世界が端的に存在しないことが十分にありえた(むしろ存在しているほうがおかしいのではないか)という恐怖にも似た直観である。
 世界の存在の端的さとは、すなわち世界が底なしに無根拠だということであり、この無根拠さを自覚するとき、あたかも自分が真っ暗な穴の上に浮かんでいるかのようなグロテスクな感覚に陥る。その感覚からひるがえって、世界が存在することの奇妙さに心打たれ、驚くのである。

 後者の「存在の手に負えなさ」もまた極めて重い。
 私がいなければ世界は存在しないという意味において、世界とはすなわち私の世界である。だから、世界は私のものだと(この意味では)言える。
 しかし、それにもかかわらず、存在は常に私を超えてくる。私や世界の内容は変えられるとしても、存在という土俵自体はどうしたって変えられないのだ。このようにして、存在は私の手に負えないものとして現れてくる。
 存在の手に負えなさは、世界の大きさの経験である。ここでの「大きさ」とは物理的な大きさのことではないから、「途方もなさ」と言いかえてもよかろう。自分をはるかに上回る存在の大きさ、途方もなさを、無力感とともに畏れるのである。

 上記の「知的側面=驚き」と「身体的側面=畏れ」はまったくの別物ではなく、むしろ互いに通じ合っている。知的側面としてあげた驚きもそれ自体は身体の反応だし、身体的側面としてあげた畏れも知性がなければそれが畏れだとはわからない。両者の根底にあるのは、現存在としての私である。驚きも畏れも、それを私が感じることによってのみ意味を持つ。

 そして〈神〉は、現存在としての私の根底にあるものである。無根拠な大きさ――それはもはや形も内容もなく、とらえどころもない。しかし、それでもやはり〈神〉は私に対してあり、また私においてある。
 もし私においてあるのでなければ、神と私とは文字どおり何の関わりもない。私はそのような神に用はないし、神だって私に用はないだろう。

 〈神〉はいるか。いる。その問いそのものがすでに〈神〉だ。
 しかし、〈神〉はいない。〈神〉はほかならぬ私においてあるのであり、他人と共有できるような形では(したがって言語表現に乗るような形では)存在しないし、できない。

 もうあまり考えるのはよそう。頭だけで考えてもしかたない。
 大きいものを前にしたとき、放心する。自然と頭が下がる。それでよい。まずはそのような場所に行ってみることだ。それ以上のものをあらかじめ想定する必要などない。

 祈りは何に向けたものか。神か。違う。〈神〉だ。
 それゆえ、祈りは何にも向いていない。いや、〈神〉に向いてはいる。しかし、〈神〉とは存在の根拠であるがゆえに全方向であり、かつ無方向である。どこを向いてもいいが、どこを向いてもしかたがない。だから素直に祈ればよろしい。祈ることは、届くことだ。

 もう「お任せする」しかないではないか。

 そうはいっても、私は〈神〉の存在を信じきれないときがある。存在の無根拠さに驚き、存在の大きさを畏れるには、まだ集中力が要る。

 私はきっと罪深いのだろう。