申如録

日常生活で考えたことなど

『臨済録』曲解 四

上堂 ―お堂での説法― その4

【原文】

上堂。云、赤肉團上有一無位眞人。常從汝等諸人面門出入。未證據者看看。時有僧出問、如何是無位眞人。師下禪牀把住云、道道。其僧擬議。師托開云、無位眞人是什麼乾屎厥。便歸方丈。

【日本語訳】

臨済がお堂にやってきた。
臨済「身体には無位の真人がいて、いつもお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだそれがわかっていない者はよく見極めよ」
すると坊さんが出てきて
坊さん「無位の真人とはどのようなものですか」
臨済は椅子から降りると坊さんをとっつかまえて
臨済「言え!言え!」
坊さんが何か言おうとすると臨済は坊さんを突き放して
臨済「無位の真人なんてクソったれだ!」
臨済は部屋に帰った。

【コメント】

 スピード感があるのは結構だが、臨済はもっと言葉で丁寧に説明したほうがよろしい。「無位の真人」なんて聞きなれない単語を出しておきながら、いざ質問されるといきなり「言え!言え!」と詰め寄るのはいくらなんでも短気すぎないか(普段から何度も説明しているのにちっともわかってもらえなくてイラついていたのかもしれないが)。
 まあこの問答にどんな背景があったにせよ、ここでの臨済が説明不足であることに変わりはないから、今回のキーワードである「無位の真人」について、臨済に逆らって言葉を使って考えてみましょう。

【無位の真人】

 「無位の真人」とは何か。辞書には「無位:位のないこと、またその人」「真人:本当の人、悟った人」とあるが、「位のない本当の人」では何のことかよくわからない。

 そこで、まず真人について突っ込んで考えてみる。

 真人という言葉は道教(中国の民間宗教)でよく使われる言葉であり、『荘子』大宗師編に理想的な人間としての詳細な説明がある。臨済が『荘子』を読んでいたかはわからないが、真人を理解する手助けになるので一部引用してみよう。

何謂真人……登高不慄、入水不濡、入火不熱……不知説生、不知惡死……

真人とは何か……高いところに登っても怖くなく、水に入っても濡れず、火に入っても熱くない……生を喜ぶことを知らず、死を嫌がることも知らない……

 普通に読めば単なるスーパーマンである。実際、『荘子』において真人は超越的な人間として描かれている。

 しかし、そんなふうに読んでもちっとも感動しない。そんなスーパーマンはどこにもいないし、なろうと思ってもとうてい不可能である以上、われわれとは無関係な存在と言わざるを得ないからだ。
 練習すれば高いところには慣れるかもしれないが、水に入っても濡れないとか、火に入っても熱くないとか、そういうのはもはや練習とかそういう次元ではない。端的に不可能である。

 では、こう読んでみてはどうか。われわれはすでにそのような真人である、と。

 そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、実際そうなのだ。この馬鹿げた(しかし適切な)解釈を行うためのキーワードは「私」である。少し詳しく説明しよう。

 前提として、「私」には2つの意味がある。「みんなにとっての私」と「私だけの私」だ。「私」という言葉は一般的には前者の意味でしか使われないが、実は重要なのは後者である。ここをよくよくわかってほしい。逆に、ここがわからないと真人もわからない。

 例えば、「私が生まれる前も世界はあり、死んだ後も世界は続く」というのは当たり前のことに思える。いや、実際当たり前である。

 しかし、これはあくまで「みんなにとっての私」の話にすぎない。「私だけの私」の立場に立つならば、これは真っ赤な嘘でしかない。
 だって、私は私が生まれる前のことなんて端的に知らないし、死んだ後のことなんてもっと端的に知らないのだから。

 ……これもまた当たり前のことだと思うかもしれないが、簡単にそう思わないでほしい。これを当たり前だと思っていいのは世界で私ひとり(筆者)だけなんですよ、わかりますか? あなたがこれを当たり前だと思ったなら、それは端的に間違いです。

 およそ何かがあるならばそれは私においてあるのであり、私を離れては何もないのと変わらない。私とはすなわち世界そのものである。存在そのものである。そんな私はただひとり(この私!)しかいない。
 私は、真人をそのような私としてとらえている。

 ちなみに、ここでは「生まれる前と死んだ後」という時間を例に説明してみたが、これは自分と他人を例にとっても同じである。
 例えば、これも当たり前のことだが、盲人を除いてみんな目が見えると思っている。誰かが「私は目が見える」と発言し、実際に目が見えているように振る舞えば、その人は目が見えているとされる。至極当然である。
 しかし、これは間違っているともいえる。だって、本当に目が見えているのは私だけなのだから。何かが見えたなら、それを見たのはいつだって私なのだ。他人はまさに他人であることによって目が見えない。

【無位】

 このように考えてみると、「無位」は文字どおりの「位がない」の意味ではないことがわかるのではないか。「私」にとって位なんてものは1ミリも関係ない、いや位どころかあらゆる客観的な規定が当てはまらないからだ(あらゆる客観的な規定が当てはまるのは「みんなにとっての私」である)。

 だから、ここでの「無位」とは「言語で表現できるような特徴を持たないこと」の意味である。

 以上のことをまとめると、「無位の真人」とは「言語では表現できない私だけの私」のことであり、要するに悟りのことである(「上堂その2」参照)。これをより仏教っぽく表現するなら「仏性」で差し支えなかろうと思う。
 臨済が「真人」に加え「無位」という否定を含む語をわざわざ使っているのは、言語による一般化を相当に警戒しているものと見なければなるまい。

【面門】

 次の疑問は「面門」である。臨済は「無位の真人」が「面門」から出たり入ったりしていると言っているが、果たしてそれはどういうことか。
 「面門」には「顔」と「口」の2つの意味があり、それぞれで解釈が成り立つので順番に説明したい。まずは「顔」から。

 普通に考えて、私(=無位の真人)が顔から出たり入ったりするわけがない。というかそもそも顔から出入りするものなどない。臨済は何が言いたいのか。

 画面からすこし離れて、実際に人の顔を見てみてほしい。自分の顔ではいけないし、誰かの顔であっても画面や写真越しではいけない。できれば身近な人の顔を面と向かって見てほしい。そうすると相手の顔に何かを感じないか。
 顔なんて単なるタンパク質にすぎないのに、そこには明らかにタンパク質を超えたものがないか。相手の顔にはそれがまさに「相手」であることを主張するような、他人が持ちえないはずの「私としての私」がそこにあるかのように思わせるものがないか。それだ。それを見なければならない。

 臨済はそのようなものも「無位の真人」と呼んでいる、と考えることができる。

 だとすると、坊さんから出された「無位の真人とはどのようなものですか」という問いに対して、臨済がただ「言え!言え!」と激しく詰め寄ったのもうなずける。だってその問い自体を「無位の真人」が問うているのだから。
 自身がすでに答えであることを知らずにぬけぬけと問いを発するとは何たる間抜け! だから「ほらもっぺん言ってみろ! 今そこにお前の知りたい奴がいたぞ!」というわけだ。臨済は、臨済にとって「相手」として立ち現れてくるものそのものを、そのもの自身にわからせようとしたのである。

 次に「口」について。「口」での解釈には2種類ある。『荘子』的解釈と「私だけの私」的解釈である。まずは『荘子』的解釈から。
 「真人」の描写として、『荘子』大宗師編に次のような文がある。

真人之息以踵、衆人之息以喉。

真人はかかとで呼吸し、普通の人は喉で呼吸する。

 ここでのかかとおよび喉は「かかと(喉)まで吸いこむ/かかと(喉)から吐き出す」の意味であり、実際にかかとや喉で呼吸するわけではない。息はどのみち鼻や口から「出たり入ったりする」。
 これはいわゆる典故であり、臨済は『荘子』における「真人」をほのめかす形で「無位の真人が面門から出たり入ったりしている」などともったいぶった言い方をした。「お前たちは『荘子』の記述を思い出せ」というわけだ。

 これだけでも「面門=口」の解釈としては悪くないが、解釈をさらに精確にするために、「私だけの私」的解釈によって再度考えてみたい。

 少なくとも臨済的な立場に立つかぎり、われわれは悟りを一般化を拒否するものとしてとらえなければならないが(私が「上堂その2」で「仏性があるとすればそれはあくまで私一人にある」と述べたことを思い出されたい)、「面門=口」を「私だけの私」的にとらえることはまさに悟りの一般化の拒否に役立つからである。

 通常、われわれの口から出たり入ったりするものといえば、息や言葉があるだろう。われわれが生きていくにはこの2つの出入りは欠かせない。
 さて、息をするのは誰か。言葉を話すのは誰か。それをただ「われわれ」と表現してしまっては元の木阿弥である。ここでは他ならぬ「私」と表現しなければならない(だから、厳密には私が先に述べた「われわれはすでにそのような真人である」は間違いである)。

 私が生きるためには私が息をしなければならず、私が生きるためには私が言葉を話さなければならない。逆に言えば、息をしたなら私が息をしたのであり、言葉を話したなら私が話したのである。何度も言うが、その「私」をとらえよ。

 このように見ても、「顔」のときと同様に、臨済の「言え!言え!」を解釈することができる。すでに息をしている、すでに問いを話しているもの自体に向かって、それ自身が答えであることをわからせるためのやむを得ないやり方である、と。

 また、少しスピリチュアルな方向に考えをめぐらせて、当時の中国に「プシュケー」に相当する概念や言葉があったならそのような含みも持たせていたのではないかと思う。
 ちなみに、日本語訳で「面門」を顔と訳したのは、顔と口をいっぺんに表現できる単語を知らなかったのと、口は顔の一部だから顔と訳しておけば両方カバーできると思ったためである。

【おわりに―臨済の不足】

 臨済にとって、あえて言葉で説明しないことは「無位の真人」を直に理解させるための適切な方法なのかもしれない。いや、「無位の真人」にはそのような側面が確実にある。
 しかしながら、それでもこのやり方が粗雑であることに変わりはない。たとえ「無位の真人」が言葉では伝えられないものであっても、いや言葉では伝えられないものだからこそ、緻密に言葉で描写していかなければならないのではないか。言葉は真理を隠し人を惑わすものであると同時に、真理を示し人を導くものでもある。

 最後に、「無位の真人」に関する臨済の発言について、私は1か所違和感を感じた。
 臨済は「身体に無位の真人がいる」というが、ほんとうは「無位の真人から身体がはじまる」のではないか。「無位の真人」が「言語では表現できない私だけの私」だとしたら、身体は無位の真人の一部にすぎないからである。