申如録

日常生活で考えたことなど

眠られない夜のたわごと

 私は軽率な人間だ。

 思っていることはすぐ顔に出るし、言わなくてもいいことまで言ってしまったりする。良く言えば素直だが悪く言えば無粋であり、周りに迷惑をかけてしまうこともあるからやめたいのだが、いまだに気を抜くとこの癖が出てしまう。

 思えば、そもそも私は身体の基本的な使い方を学んだ記憶はなく、気づいたらいつの間にか使えていた。「右手を挙げろ」と言われれば右手を挙げられるが、「ではどうやって右手をそのように挙げたのか」と言われてもうまく説明できない。神経だの筋肉だのは私が現に右手を挙げるときにはあずかり知らぬこと、挙がった右手という結果だけがある。

 思っていることを表情や声に出してしまうのもそんな感じでいつの間にかやってしまっているわけで、私からしたらそういう身体の自動操縦で助かっている面もあるのだけど、すべてがありがたいわけではない。

 

 街中で手に持っているKindleをいきなり地面に叩きつけ、割れた画面をできる限り激しく靴の踵で踏みつけたら、周りの人は私のことを怒り狂った人だと思うだろう。だが、どうしてそんな風に思われなければいけないのか。私はちっとも怒ってなんかいないかもしれないではないか。
 日中、読んでいた本にハンダゴテが出てきて、私は熱されたハンダゴテを自分の人差し指の爪に押し付ける想像をしてしまいとても恐ろしくなった。でも表情や仕草には出していなかったはずだから、周りの人は私のことをただ本を読んでいる人だと見なしただろう。だが、どうしてそんな風に思われなければいけないのか。私は実際とても怖がっていたのだ。

 どうしてこのような齟齬が生じるのか。それはきっと、私というものがこの世界に存在しないからだろう。少なくとも私以外の全人類は私の存在を認めないだろう。それは個体としての私ではなく、それが世界のすべてでありそこから世界が開けているような私である。そうした私は、私にしかありえない。
 私は気づいたら生きていたわけだが、私が生まれてきたのは両親の責任ではない。私は両親のセックスで生みだされたわけでは、断じて、ない。

 私は、私以外の私が世界に存在するとは思えない(どのようにして思えばよいのだろう?)。意志疎通できるものが世界のすべてであり、かつ私は意思疎通の対象ではない。だから私を含めた全人類が持ちうる私と私だけが持っている私とでは意味が全然違うのであって、前者については当たり前のように存在しているが、後者については存在すると言っても無意味だから存在しない。私だけが、生身で、端的に、知っている。でも、何も知らない。

 先の段落では「私以外の私が世界に存在するとは思えない」と言ったが、果たしてそうか? むしろ、私が個体としての私(=全人類が持ちうる私)とは無関係である以上、私は私であると同時に彼でもあるのではないか? 今朝目覚めたときの私は、昨日の私と同じだろうか? ――判別のしようはないが、この徹底的に隔絶した私の底には何か他の存在とのつながりがあるような気がする。

 祈りという行為はこの私の世界に存在しなさと何か他の存在とのつながりの感覚を前提としている。だから、祈りは届かない。祈りはその意味で私そのもの、無、世界に存在しないもの。祈りが世界に影響を及ぼしているように思われるなら、それはもはや祈りではなく行為の次元に移っている。私の例でいえば、私だけが持っている私の次元から私を含めた全人類が持ちうる私の次元に移ってしまっている。

 祈りは私的である。だが、その無の底には何かがある。

 

 世界がバランスで満ちているのは、そもそも世界が無だからだろう。無は均衡を取りたがる。

 

 私は生きていたくない、今すぐ死んでしまって、私の死を悲しむ人たちの姿が見たい。あるいは不治の病に冒されて、死ぬまでの間を見守られたい。このように考えることがある。
 私がこういうことを考えるのは私が死ぬことで悲しむ人がいると知っているからだし、特別扱いされると気持ちいいからだ。これは卑怯なことだろうか。

 

 しんどいときは心がまるごと鉄板に包まれたようになって、何を見ても何を聴いてもその鉄板に弾かれてしまって、私の生きた部分はその鉄板の下で血と死を求める。この鉄板があるかぎり私と他者との差は埋まりようもなく、またそれがある意味では自然な気がするのだけど、でもこの状態では生きていたいという気もあまりしなくて、この鉄板がいつの間にかなくなるような飛躍は時間や睡眠でしか得られないし、それは飛躍したあとで初めて実感できるものだから、世界は不思議だなと思う。

 

見るがいい、この『瞬間』を! この瞬間の門から、ひとつの長い永遠の道がうしろの方へはるばるとつづいている。われわれの背後にはひとつの永遠がある。

およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか? およそ起こりうるすべてのことは、すでに一度起こり、行なわれ、この道を走ったことがあるのではなかろうか?

そして一切の事物は固く連結されているので、そのためこの瞬間はこれからくるはずのすべてのものをひきつれているのではなかろうか?

あなたがたはかつて一つのよろこびに対して『然り』と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても『然り』と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛し合っているのだ、――

(上記はすべて氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った 下』(岩波文庫、1970年)より引用)

  ニーチェは永遠とかすべてとか一切とか万物とか言っているが、それはつまるところ今この『瞬間』しかない。この『瞬間』はもしかしたらもう150回目なのかもしれないし、これからまた150回繰り返すのかもしれない。でもそんなことはわからないし、この『瞬間』をどうにかするしかない。

 このニーチェの考えは先に私が祈りについて言及したときと同じ視点に立っているだろう。

 Wikipediaで「永劫回帰」の項を見てみたら、これに対する批判として「蓄積している知識や歴史が、近代化という不可逆な方向性を持っているのは社会科学的な事実であり、永劫回帰の思想は人類史的なスタンスから見れば誤りである。歴史は繰り返しているようで、弁証法的に発展しているのである。」というのがあった。おめでたくも的外れ。
 永劫回帰は私の存在の無さからくる一種の体験を記述したものであり、知識ではない。ものごとの内容、記録、記憶とも関係がない。だから、何回でもそれは繰り返しうる。例え無限に等しい回数を繰り返したとしても、その繰り返しには原理的に誰も気づけないのだから。

 

 頭が痛い。

 

 友人から23時ごろ電話が来て、これはきっと飲みに行こうって誘いだけど、時間も遅いし調子も良くないし居留守を使うことにした。その後「寝たんか」っていうメッセージが1通、ううん寝てないごめん。でも今日は何もうまくいかない。寝るしかないのはわかっているけれど、明かりを消すのが億劫で、パソコンを開いて文章を打ち込んでいたら朝の4時になってしまった。