申如録

日常生活で考えたことなど

『臨済録』曲解 二

前回から話が続いているので、その1を読んでいない方はこちらから

上堂 ―お堂での説法― その2

【原文】

有座主問、三乘十二分教、豈不是明佛性。師云、荒草不曾鋤。主云、佛豈賺人也。師云、佛在什麼處。主無語。師云、對常侍前、擬瞞老僧。速退速退、妨他別人諸問。復云、此日法筵、爲一大事故、更有問話者麼、速致問來。你纔開口、早勿交渉也。何以如此。不見釋尊云、法離文字、不屬因不在縁故。爲你信不及、所以今日葛藤。恐滯常侍與諸官員昧他佛性。不如且退。喝一喝云、少信根人、終無了日。久立珍重。

【日本語訳】

学僧「悟りを得るための方法論や諸々の経典は、仏性(=人々が持っている悟りのための素質)を明らかにするものではありませんか」
臨済「荒地に鋤は入らん」
学僧「仏が人をたぶらかすわけはないでしょう」
臨済「それじゃ仏はどこにいるんだ?」
学僧「……」
臨済「王さんの前でわしをだまそうとしおって。さっさと下がれ、他の者の質問の邪魔だ」

臨済「今日の集まりは禅の要点を示すためだが、他に質問のある者はおらんのか、さっさと問うてみるがよい。ただし、お前たちが口を開くやいなや、それはもう的外れになってしまうぞ。どうして言葉が的外れになるのかについては釈尊も言っているではないか、『真理は言語から離れている、なぜなら真理には原因があるわけでもなければ成立条件があるわけでもないからだ』と。それなのにお前たちときたら釈尊の言葉に徹し切れていないから、今日は仏性についての話がこんがらがってしまった。王さんやお役人さんたちがご自身の仏性を曇らせてしまわないか気がかりだ。問答はここらで止めにしたほうがよかろう」とここで一喝。
臨済「信念が足りないようじゃいつまでたってもわからんぞ。今日は長い間ご苦労だった」

【コメント】

 次は学僧が臨済の相手になった。
 学僧が最初にいろいろ言っているのは、要は仏性という悟りの根本が既存の方法論や経典によってすでに明らかにされていますよね、ということである。これは先に登場した坊さんが「仏教の本質とは何ですか」と問い、臨済がそれに対して一喝したことを踏まえているだろう。学僧としては、一喝なんてよくわからんことをしなくても、仏教の本質はテキストにちゃんと書いてあるんだから読めばいいじゃないですか、というわけだ。
 これに対して臨済は、荒地に鋤は入らないぞと答える。つまり、そんな考えをしているようでは(=荒地に)仏性すら何の役にも立たない(=鋤は入らん)、あるいは、お前の考えるような仏性には(=荒地に)手の施しようがない(=鋤は入らん)、と臨済は言っている。いずれにせよ、臨済は学僧の見解を軽くあしらって顧みない。
 学僧は臨済のこの答えに甚だ不満である。彼にしてみれば悟るための方法論や経典は仏に等しく、それを否定することは仏を否定することに他ならないからだ。かくて学僧は抗議の声を上げる。臨済よ、お前は悟るための方法論や経典ではダメだと言うが、それでは仏が嘘をついていることになるではないか。間違っているのはお前ではないのか。
 この抗議に対しても臨済はあっさりとやり返す。それじゃお前の言う仏はいったいどこにいるんだ、俺が間違っているのならその正しい仏とやらを連れてこい。
 臨済のこの鋭い返しに学僧は何も答えられない。学僧には自らの正しさを保証するものがテキスト以外にないからだ。臨済にテキストの正当性の無根拠さを暴かれてしまった以上、学僧はただ押し黙るより仕方がない。彼は仏性という言葉とその意味は知っていても、それが指し示す当のものは知らなかったのだ。これは例えば、ある人が「うれしい」という言葉を知っており、それが「心がうきうきして楽しいこと」を意味すると知っていても、「うれしい」を実際に体験したことがなければその「うれしい」は活きていないのと同じである。その人は「うれしい」を知っているのかもしれないが、わかってはいない。
 臨済はそのようないわば死物と化した仏性を退け、学僧を手厳しく追っ払った。なまじっか学問をかじってわかった気になっている奴なぞ、痛い目に遭わせてつまらないプライドをへし折ってやるに限る。学僧はお偉方や同僚の前でメンツ丸つぶれに違いないが、この衝撃で自身の理解する仏性が死物であることに気づけたか、どうか。

 それはさておき、次に臨済釈尊の言葉を引用しつつ仏性と言語が無関係であることを説く。釈尊曰く、『真理は言語から離れている、なぜなら真理には原因があるわけでもなければ成立条件があるわけでもないからだ』と。要するに釈尊(及びそれを引用した臨済)は、真理(=仏性)には成立のための過程や経緯がなく、そこに説明はつけられないと言っているのだ。真理とはただむきだしの真理なのである。
 臨済は坊さんや学僧たちが釈尊の言葉に徹し切れていないことを叱責すると、さっさと問答を終えてしまった。なんともあっけない幕切れである。

【真理って何だ】

 釈尊は『真理には原因も成立条件もない』と言う。だが、真理とはそもそも何だ。原因とも成立条件とも関係がないものなどこの世に存在するのか。実際に身の回りを見渡してみても、あらゆるものは原因とも成立条件とも密接に関係しているように思われる。
 偶然や超常現象はどうだろうか。確かに、偶然であれば原因や成立条件抜きで「ただそれがある」がひとまず成り立つだろうし、超常現象は原因や成立条件では説明がつかない。しかし、ここで「原因」と訳した「因」、「成立条件」と訳した「縁」は、論理あるいは必然を包括するだけでなく、偶然や超常現象をも包括している。道で知人にばったり会うことは偶然の出来事であり、目の前の皿がいきなり宙を舞えば明らかに超常現象であるが、知人にばったり会うのも何かの縁、超常現象が起こるのも何かの縁である。とすると、世界に起こるあらゆる出来事は「因」と「縁」の網の目の中にある、と言えそうである。
 問題は振り出しに戻ってしまった。釈尊は、真理(仏性)は原因や成立条件によって成り立つものでもなければ、かといって偶然によって生じるものでもないと言う。だが、そんな説明のつけようもないものなど果たして存在するのか。釈尊が「法(真理)」と呼び、臨済が「仏性」と呼んだものとはいったい何なのか。仮にそんなものがあったとして、われわれはそれを理解できるのか。

 この問いに対する私の見解はこうである。――そんなものは、存在する。むしろ世界にはそんなものだけが真に存在する。

 それならいったい何が真理か、何が仏性かといえば、私はこれだと思う。これが今現に自分だけに見えているということ、これが今現に見えている自分だけが在るということ、にもかかわらずこれはいつも自分を超えてくるということ。世界のすべてはこの事実から始まっているのであり、それゆえこれは因や縁によって成り立つものではない(逆に因と縁がこれに基づいているのである)。このかけがえのない(と同時にごく当たり前の)1つの事実が、私には真理と呼び仏性と呼ぶに値する。
 確かに釈尊臨済の言うとおり、因でも縁でもないもの(=真理、仏性、これ)を言語で正確に表現することはできない。いや、厳密に言うなら、言語で表現した瞬間にそれは客観的世界の単なる一存在として意味づけられ、因または縁の性質を帯びてしまう。それができないものこそが真理であり仏性でありこれであったはずなのに、である。このことを私の表現に即していえば、これとは私だけのかけがえのない事実であったはずなのに、それを言葉で表現することによって、これは誰もが必然的に持つ客観的事実として(例えば各人の脳に起因する主観的な認識作用として)一般化されるのだ。

 この点からすると、法はまだしも仏性という言葉は誤解を招く表現である。仏性は「誰もが持つ悟りのための素質」という意味だが、仏性とは因でも縁でもないのだから、仏性は「誰もが持つ」悟りのための素質ではありえない。仏性があるとすればそれはあくまで私一人にあるはずである。
 だがそれにもかかわらず、仏性とは「誰もが持つ」悟りのための素質なのだ。われわれ(!)が言語で表現する以上、仏性はそれ以上の意味を原理的に持ちえないし、またそれを判断するわれわれ(!)はそれを誤りであると言う立場に原理的に立てない。仏性が私一人にあることは、私にそうとらえられる限りにおいて真実だが、私とは私以外のすべての人間が自分を指して使える言葉なので、各人は自分自身を指して「仏性が私一人にあることは、私にそうとらえられる限りにおいて真実だ」と言うことができる。だから、仏性が「誰もが持つ悟りのための素質」であることは、徹底的に間違いであると同時に徹底的に正しい。ここがわからないと臨済の喝をひたすら食らうばかりである。

 釈尊臨済の言うとおり、言語は真理に届かない。とはいえ、仏性の例のとおり、真理は常に言語化され続ける。また、真理の生成の場面においても、真理には言語が必要だという側面がある。もし言語がなければそれが「真理」だとはわからないからである。法を法としてとらえ、仏性を仏性としてとらえ、これこれとしてとらえるためには、いったん言語を通過しなければならない。真理と言語とが不即不離の関係のうちに真理(真理そのものと「真理」という言葉)を形成し、われわれは前者を後者にいわば格下げして共通化し、後者から前者に立ち返り続けるのである。
 この観点に立つかぎり、釈尊臨済に反して、「真理は言語と関係がある、なぜなら真理には原因があり成立条件もあるからだ」と主張することができる。いやむしろそう主張することが必須だと言わざるを得ない。釈尊臨済が言語を使用している以上、釈尊臨済の言いたいことは実は言えないのだと指摘することはどこまでも可能でありかつ有効だからである。
 真理が上述のようなものだとすれば、悟りには常に悟り続けなければならない側面があることになる。真理には言えなさと言えてしまうさの2つの側面があり、またわれわれがこの2つの側面によって真理が真理だとわかる以上、どちらかにとどまり続けることは必然的にできない。言えなさから言えてしまうさに転落し、言えてしまうさから言えなさに立ち返る運動の継続、及びその運動の頻度や質を高めていくことが、悟りには確実に必要になる。その意味で、修行は決して終わらない。