申如録

日常生活で考えたことなど

性欲の話

 人間の三大欲求と呼ばれるものには食欲・性欲・睡眠欲があるが、なぜ性欲だけは隠されなければならないのだろう。電車の中でおにぎりを食べても爆睡しても問題ないのに、なぜセックスをしたらただちに捕まってしまうのだろう。

 このことについて知り合いに尋ねてみたところ、「食欲と睡眠欲は個人で完結するから問題ないが、性欲は他人も巻き込んでしまうから許されない」との回答があった。
 しかしこれは明らかに的外れである。もしこの回答が正しければ、電車の中で自慰をする分には何も問題ないことになってしまうだろう(知り合いの名誉のために一応言っておくが、彼は自慰であれば電車内でしてもよいと主張したかったわけではない)。

 いきなり答えを言ってしまえば、この「なぜ」に対する答えはそもそもない。どのような回答が用意されたとしても、それに対してさらに「なぜ」と問うたり、反証を提示したりすることはどこまでも可能だからだ。
 したがって、われわれが性欲を公にしてはならないことについては、明確な根拠づけというものが原理的にありえない。われわれは性欲を公にすることを確固たる根拠なしに「とりあえず」控えているのである(たとえその程度が厳格であっても、それは「とりあえず厳格に」控えているだけでしかない)。
 だから、なぜ性欲を公にしてはいけないのかと尋ねられたら、そんなことをしてはいけないからだとトートロジーをもって答えるしかない。性欲があることはなぜかすでに「致し方ないこと」とされており、それゆえ不特定多数の目からは隠されなければならないのだ。

 この「なぜ」に対する解決策があるとすれば、それは次のようなものだろう。すなわち、性欲を公にしてはいけないというルールに身も心も徹頭徹尾ひたし、この「なぜ」という問いそのものをきれいさっぱり忘れ去ってしまうことだ。
 実際、この忘却はいたるところで起こっている。というより、この忘却なしに社会はありえない。禁止の理由を問うことを忘れ去ったとき、人は社会的になることができる。
 性欲を公にすることはもちろん禁物だが、性欲の許されなさについて問うたり性欲を擁護したりすることすら基本的に歓迎されないのは、かつて忘却があったことをその行為が思い出させるからである。理由はよくわからなくともみんなが「とりあえず」それをしないようにすることで世界は円滑に回っているのであり、にもかかわらずその問いの存在を思い起こさせようとするのは藪蛇以外の何物でもない。

 とはいえ、われわれはその忘却に抗って、食欲や睡眠欲が公の場でも許されるのなら性欲だって許されてもよいのではないか、とか、お互いの同意さえあれば公の場でセックスしても問題ないのではないか、と問うてみることは可能である。性欲が食欲や睡眠欲と同様に単なる一事実にすぎないことを根拠に、性欲だけを特別扱いしてはならないと主張することは、むしろ筋が通っているようにさえ見える。

 ところがそのような試みにはあまり意味がない。筋が通った議論をしたからといってそれが納得に結びつくとは限らないからだ。

 われわれの多くは、頭ではそうした議論の合理性を認めたとしても、身体(気分)はその議論についていくことができない。たとえ性欲の許されなさの無根拠性を理解したとしても、公衆の面前でセックスすることは身体が拒否し続けてしまう。
 したがって、性欲を公にさせるために筋が通った議論をしても、身体が納得しない限りは「そうは言っても……なんだかなあ…」以上の反応は見込めない。頭だけでなく身体をも納得させるには筋が通った議論だけでは必ずしも十分ではなく、われわれの存在全体からすれば合理的な議論は合理的ではない場合がありうるのだ。

 もちろん、頭と身体は没交渉なものではないから、頭が身体を説得したり身体が頭を説得したりすることは可能である。しかし、身体の納得はそう簡単に得られるものではない。とりわけこうした善悪にかかわることではそうである。
 性欲について言うなら、性欲を公にしてはならないという根拠なきルールに基づいて世界が現にうまく回っている以上、身体にとってはそれに反するようなことを(たとえそれが合理的であっても)あえてする意味がわからないのだ。そしてその意味のわからなさは、嫌悪感や反射的な拒否反応として現れてくる。
 性欲が公になるためには、現行のルールが日常生活(基準は身体!)にそぐわなくなり、ルールの内容に対して一定規模の集団が耐えられなくなるのを待つしかない。だが、そこまでになるにはおそらく長い時間がかかるだろう。

 こうしたルールの根拠のなさにおそらく違和感を抱き、また作品の着想を得たのは藤子・F・不二雄である。
 彼は短編「気楽に殺ろうよ」の中で、われわれの世界と瓜二つにもかかわらず性欲と殺人が許容され、逆に食欲が許されない世界を描いている。この世界ではいわゆる「エロ」や「人殺し」が公然と行われる一方で、食事はまるで悪事をはたらいているかのようにまったくの秘密裏に行われる。
 主人公はわれわれと同じ世界からその世界に移行してしまった人間である。当然彼はその世界の「常識(倫理)」についていけず、医師によるカウンセリングを何度も受けるが、そこで自身の感じるおかしさを説明できず、また医師から受ける説明に納得もできず、もどかしい思いを何度もする。カウンセリングを担当した医師は主人公に向かって次のように説明する。

 【性欲について】
食欲、性欲……ともに最も根源的な欲望ですな。どちらが欠けても地球人は滅亡する。ところで、このふたつのうちどっちが恥ずかしがらねばならんとすれば、はたしてどちらですかな。食欲とは何か!? 個体を維持するためのものである! 個人的、閉鎖的、独善的欲望といえますな。性欲とは!? 種族の存続を目的とする欲望である。公共的、社会的、発展的性格を有しておるわけです。

 【殺人について】
地球の容量から考えれば、現在の社会は成長期を過ぎたとみなければなりません。これ以上ふくれあがることは許されない。あとは、個々の細胞の代謝だけです。出生率は年々増加するのに自然死は減る一方! と、なれば無理のない形で間引きを考える必要も……

 どちらも一応は筋の通った主張である。医師の土俵に立つ限り、特に性欲についての主張には反論の余地があまり残されていないように思われる。
 この筋の通った主張を受け、主人公は医師に反論できなくなってしまうが、かといって納得することもできない。主人公に残された道は、もともとの「常識(倫理)」を墨守するか、新たな世界の「常識(倫理)」に飛び込むかのどちらかである。いずれにせよそこには根拠つきの納得などなく、ひたすら実践があるだけだ。
 藤子・F・不二雄の「気楽に殺ろうよ」は、

  • どのような倫理にも合理性を持たせることが可能なこと(したがって倫理にとって合理的な説明ができることには特段の価値がないこと)
  • 倫理は実践するほかないこと

この2つを明らかにしてみせた、とても優れた作品である。

 この記事では主に性欲にフォーカスを当ててきたが、以上の性欲についての議論は「悪い」とされていること全般に当てはまる。「悪い」の最たる殺人であっても、そのしてはいけなさを合理的に説明することは不可能に近い。現に刑法の殺人罪に関する条文を見てみても、そこには殺人を犯した場合の処置が書かれているだけで、殺人してはいけない理由はどこにも書かれていないのだ。

 第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

  何が「悪い」かということについて、われわれは最終的には根拠抜きで従うしかない。倫理はわれわれの生活に不可欠である一方、このように有無を言わせない暴力的な側面も孕んでいるのである。
 ただし、倫理には根拠抜きで従わなければならないとはいえ、その暴力性は忘却されてはならない。もしそれが忘れ去られてしまえば、「正しさ」はいずれ人に牙をむくことになるだろう。
 そうならないためにも、倫理が成立するために必要な「問いの忘却」に抗う人間は一定数必要だ。たとえ「倫理的」な人間から忌み嫌われようと、問いを立てることができる限りは問いを立てることをやめてはならない。

  最後に、「気楽に殺ろうよ」の1コマを引用する。われわれの倫理が根拠抜きの実践の上に成立していることを忘れないための忘備録として。

「では、うかがおう! なぜ生命は尊重しなくちゃならんのです?」
「わかりきったことだ!!」
「それじゃ答えにならない。論理的に説明してください! さあ! さあ、さあ、さあ!」
「それは……」

 ここでは問いに答えられなくてよいのだ。だが、問いに答えられないことは忘れてはならない。