申如録

日常生活で考えたことなど

瓶の話

 駅の待合室に、かばんに瓶を忍ばせた男がいた。男がかばんをごそごそと探るたびにキン、と高い音が鳴り、私の意識はかばんに吸い寄せられた。

 中村文則の『遮光』という小説にも似たような男が出てくる。その男は黒いビニールで包んだ瓶を人目を避けるようにして常に手元に置いている。
 瓶の中身は当然外から見ることができないから、その男以外は瓶の中にそもそも物が入っているかどうかすらわからない。私はこの瓶が初めて『遮光』に登場してきたとき、哲学的な感度がはたらいて非常に興奮したのを覚えている。

 われわれの存在は、この黒い瓶のようなものではないか。われわれはいつもこの瓶を持ち歩いているのではないか。

 この瓶を私がどう解釈したかについては、さしあたり「心」という概念が理解の助けになるだろう。黒い瓶の中身を外からのぞき込むことができないのと同様、人は誰しも他人の心をのぞき込むことはできない。黒い瓶を心の比喩だとするなら、確かにわれわれは瓶すなわち心を常に持ち歩いていると言える。

 しかし、私はそこからもう一歩先に進み、黒い瓶を「私」の存在の象徴としてとらえたい。
 ここでいう「私」とはそもそも名詞でとらえることが不可能であるような、世界の唯一の開けとしてのはたらきのことであって、個々人が自分自身を指して言う「私」とは似て非なるものなので注意してほしい。世界の開けとしての「私」は、個々人にとっての「私」に還元されることをどこまでも拒否する。だから瓶は必ず黒色をしていて外から見られることを拒否するのでなければならない。それが外から見られてしまったなら、それはもはや世界の開けではないからだ。
 瓶の中身が私以外から見えないというのは、世界の開けとしての「私」が個々人にとっての「私」に還元されないことの象徴である。私以外の人間にとって私とは、個々人が持つ瓶のうちの一つにすぎないと同時に、個々人からは決してうかがい知ることのできない解決不可能な謎であるはずだ。

 「私」を瓶に即して考えるにあたっては、瓶の向きにも留意しなければならない。
 私以外の人たちが持っている瓶は、瓶の外側が外側で、内側が内側の、何の変哲もない瓶である。黒いビニールで包まれている以上、瓶の中身を知ることは決してできないが、少なくとも瓶の外側が外側であり、瓶の内側が内側であることはわかる。
 しかし、私の持っている瓶だけはそうではない。私の瓶は裏返っていて、瓶の外側が瓶の内側なのだ。私の瓶には外側などなく、どこまでいってもひたすら瓶の内側である。すべての出来事はこの瓶の中で起こる出来事にすぎないのだ。
 ところが、私の瓶の裏返りについては誰も認識することができないし、私も私以外の人たちの瓶の裏返りを認識することができない。これは私以外の人たちの瓶が私の裏返った瓶の内側の出来事だから当然の事態ではあるのだが、それでも私以外の人たちの瓶を見ると、その内側には私の決して届かない世界があるのだと思ってしまう。世界はまことに不思議な構造をしている。

 駅の待合室にいた男が持っていたのはジャックダニエルの瓶だった。中の液体が一瞬だけ陽の光に照らされて、淡い茶色の光が目に反射した。