申如録

日常生活で考えたことなど

杜牧「贈別」

 ブログを更新しなさすぎるのも気が引けるので、先日仕事で書いた文章の一部を引用します。
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 先日、杜牧の詩を久々に読んでおりましたら、私の非常に好きな作品である「贈別」に久しぶりに出会いました。曰く「多情却似総無情 惟覺樽前笑不成 蠟燭有心還惜別 替人垂涙到天明」と。いつ読んでも大変優れた作品だと思います。

多情は却って総て無情なるに似たり
ただ樽の前に笑いの成らざるを覚ゆ
蝋燭は心有りて還た別れを惜しみ
人に替わりて涙を垂れ、天の明るむに到る

 この詩は特に第一句と第二句、すなわち首聯と頷聯が優れています。その中でも首聯の「多情却似総無情」は漢詩でも最高峰の一句と言ってよいでしょう。多情は却って総て無情なるに似たり――まことにすばらしい一句です。

 首聯の何がすばらしいかというと、内面の多情がかえって表面に無情をもたらすという洞察を一句にまとめ、さらに次の頷聯で表面の無情(つまり内面の多情)を「惟だ樽前に笑いの成らざるを覺ゆ」と受けたところにあります。内面の感情があまりに多く、しかもあまりに渦巻いていると、表現の仕方がかえってわからなくなり、一見すると何事もなかったかのようになってしまう。大好きなのになぜか好きだと言えない、悲しいのになぜか明るく振る舞おうとする、助けてほしいのに普段通りにしようと虚勢を張る――このような経験がある方もいるのではないでしょうか。少なくとも私には多々ありましたし、おそらく杜牧もあったのでしょう。何せタイトルが「別れに贈る」なのですから。

 どうにか気を紛らわそうとして酒を飲む杜牧は、しかし、気持ちが晴れることはありません。樽の前にいてもまったく笑顔になれないのです。一見すると何事もないようで、酒を飲めば陽気になれそうなものですが、その多情のせいで酒があっても笑うことができない。この対比こそが「贈別」の醍醐味です。黙々と酒を飲む彼の内心は、黙々とせざるを得ないほどに混沌としているのです。この対比がわからなければ、あるいはこの混沌さを我が身に比して切実に思えないのであれば、この詩の良さは決してわからないでしょう。

 頸聯と尾聯も悪くはありませんが、特段優れているわけではないと思います。蝋燭が自分の代わりに涙を流すというのは、ありふれた比喩のように思われるからです。しかし、蝋燭を見つめる杜牧には、涙を流したくても流せない自らのあり方が切々と胸に迫っていたことも想像に難くありません。蝋燭が涙を流すという描写自体は月並みでも、それを眺める杜牧の心の有り様は決して月並みではないことをわれわれは十分に認識しておくべきです。そしてこの月並みでなさは、他ならぬ首聯によってもたらされたものなのです。

 多情却似総無情――この一句が詩全体の隅々にまで響き渡っているのを、どうか読み取ってください。