申如録

日常生活で考えたことなど

杜牧「江南春」訳・解説

 【本文】

千 里 鶯 啼 緑 映 紅
水 村 山 郭 酒 旗 風
南 朝 四 百 八 十 寺
多 少 楼 台 煙 雨 中

千里 鶯(うぐいす)啼き 緑 紅(くれない)に映ず
水村(すいそん) 山郭(さんかく) 酒旗(しゅき)の風
南朝 四百八十寺(しひゃくはっしんじ)
多少の楼台 煙雨(えんう)の中

千里のかなたまで鶯は鳴き木々の緑は花々の紅に照り映えて
水辺の村にも山の町にも酒を売る店の旗が風にはためいている
南朝のころにあった数多くの寺は
どれほどがこの煙のような雨の中に残っているのだろう

【解題】

 この詩は「清明」や「贈別」などと並ぶ杜牧の代表作の一つである。
 また、これは私が大学に入学したてのころ、中国語の授業で最初に覚え(させられ)た思い出の詩でもあり、漢詩を中国語で読むという経験はこの詩を暗唱することから始まった。だから漢詩の読解についてもこの詩から始めることにした。

 読み進める前に一つ言っておきたいのは、漢詩にはインスタグラムのような側面があるということである。漢詩は心に残った風景を投影する場であり、読み手には詠まれている風景を眼前に映し出そうとする努力が必要になる。

 第一句は比較的わかりやすいだろう。江南は水が豊かな地方であり、春になると木々は緑に生い茂り花々は紅に咲き誇る。そうした森の中からは木々に遊ぶ鶯たちの鳴き声が聞こえてくる。春の生き生きとした美しい情景を音と色の二つの側面から描いている。

 第二句、第三句は名詞ばかり並んでいて少し読みにくいかもしれないが、このような名詞ばかりの句は漢詩にはよく出てくるので慣れておくと便利である。コツは先ほども言ったように眼前にその風景を思い浮かべてみることだ。
 もしこうした句を文字のレベルだけでとらえてしまうと、例えば第二句は「水辺の村、山の町、酒を売る店の旗、風」となり何を言っているのかよくわからないが、一幅の絵画のようにとらえてみると日本語訳のような風景が浮かんでこないだろうか。
 ちなみに第三句の「十」は韻の関係で「しん」と読むらしく(松浦・植木ほか)、これに関しては私も「へーそうなんだ」という感じ。

 第四句を読み解くにあたっての鍵は「多少」だ。この単語をどの意味にとるかで解釈ががらりと変わってくる。これについて少し考えてみよう。
 「多少」の今日的な意味としてまず思い浮かぶのは「多くの」「多少の」だろう。これをこの詩に当てはめてみると、第三句と第四句の解釈は「南朝のころに建てられた数多くの寺は、その多くが煙のような雨の中にある」となり、風景描写としてシンプルで読みやすい。この解釈を採用している翻訳もいくつかある(石川、市野澤)。

 しかし私は「多少」を疑問詞としての「どれほどの」の意味としたい。これは現代中国語でメジャーな用法であって日本語話者にはあまり馴染みがないかもしれないが、実は「どれほどの」の方が本義で「多くの」は派生義にすぎない(松浦・植木)。そこで、「多少」をその本義である「どれほどの」の意味でとらえ直してみると、第三句と第四句は日本語訳のとおりとなり、風景描写に時間的な奥行きが出てくる。

 「多少」を疑問詞としてとらえたのは私の他に川合康三、松浦友久、植木久行がいるが、彼らは単にどれほどの寺があるのか気になっているとするだけで時間的な奥行きは与えていない(少なくとも強調してはいない)。
 だが私には「どれほどの寺があるのだろう」というよりは「かつて仏教が栄えた南朝時代に作られた数多くの寺のうち、いったいどれほどが残っているのだろう」というふうに読めてしまったし、実際この解釈にした方が味わい深いと思うので、あえて時間的な奥行きを与えてみた。

 時間的な奥行きというと「栄枯盛衰」「無常」の感が出ていかにもしみじみとした詩だと思われるかもしれないが、この詩についてはそうではないと思う。「江南春」は全体を通じて淡々とした調子の作品であり、前半部の色鮮やかさや後半部の時間的な奥行きは前面に押し出されてはいない。

 この詩はまさに春の風景をぼーっと眺めているときの意識のあり方、目にはちゃんと景色が映っているし頭では何かを考えてはいるのだがどちらもあまりはっきりしない感じ、そうした状態を映し出しているように私には読める。

 【参考文献】

石川忠久編『漢詩鑑賞事典』講談社、二〇〇九年。
市野澤寅雄『漢詩大系十四 杜牧』集英社、一九六五年。
川合康三『中国名詩選 下』岩波書店、二〇一五年。
松浦友久・植木久行編訳『杜牧詩選』岩波書店、二〇〇四年。

【余談】

本当は漢文なので縦書きにしたいが、どうやらこのブログにその機能はないらしいので涙を呑んで横書きを受け入れている。