申如録

日常生活で考えたことなど

令和キッズが恐ろしい


 物心つく前からスマホタブレットを使いこなす令和キッズはまさに新人類だと思う。何歳にもなっていない子どもがスマホタブレットを使いこなしているのを見ると「こいつらすげーな」と思う(よね?)。われわれはスマホなどの使い方を知識として学んだが、令和キッズはスマホなどの使い方を前提として物事を進めていくのである。私はまったく勝てる気がしない。

 では具体的に令和キッズの何がすごいのか。彼らがスマホなどの最新機器に習熟していることは確かに驚異的ではあるが、それ自体は根本的なことではない。私が問題にしたいのは彼らの「スピード感」と「すみ分け感」だ。

令和キッズのスピード感

 令和キッズは物心つく前からスマホなどを使いこなし、YouTube, Instagram, TikTok, TwitterなどのSNSに日々触れている。彼らが実際にSNSを扱う様子を見ていると目につくのは、どのコンテンツを見るかほとんど迷っていないことだ。「このYouTubeの動画、見てみようか迷うな……」と思う前に、まずは見てみる。気に入ればそのまま見るし、気に入らなければさっさと次にいく。彼らは取捨選択のスピードが速いうえに、その速さがコンテンツを享受する際のスタンダードになっている。

 YouTubeに関していえば、彼らはコンテンツ(動画)の取捨選択をするだけでなく、コンテンツの内部でも取捨選択を繰り返している。彼らは動画の再生速度を調整し、あるいは興味のある箇所までスキップすることに躊躇がない。彼らのスピード感は、コンテンツを選ぶ場面に加えてコンテンツを享受する場面においても発揮されているのだ。

 自身に必要なコンテンツをすみやかに選び、さらにコンテンツの中から必要な箇所をすみやかに選ぶ姿勢が骨の髄まで染みついている令和キッズは、彼らにとっての要/不要を素早く見抜くことに長けているだろう。

令和キッズのすみ分け感

 令和キッズが要/不要を見抜くスピードに長けているといっても(長けているがゆえに)、自身に必要なコンテンツばかり見ている彼らは、おそらく興味関心においてひとりひとりかなり偏っている。

 しかし、ひとえに偏りといっても、それが認識できていることと認識できていないことでは天と地ほども違う。私は、令和キッズは自身が偏っていることを(程度の差はあれ)認識できているのではないかと思う。

 小学校教諭をしている私の知人曰く、「いまの小学生はSNSを通じて各々で興味関心を深堀りしているせいで共通の話題が少ないから、学校では当たり障りのない会話しかできない。自分の好きなことを共有するコミュニティは学校とは別にある」とのことだった。

 このような「同級生どうしでの話の通じなさ」は、自身の偏りを肌感覚で意識させずにはおかないのではないか。また、自分の好きなことを共有するコミュニティが学校の外にある状況は、学校というコミュニティと好きなことを共有するコミュニティとではすみわけが必要であることを肌感覚で意識させずにはおかないのではないか。

 かつての昭和・平成アダルトにはテレビ番組やヒット曲などの共通の話題があった。令和キッズにもあるにはあるだろうが、共通の話題はわれわれほど多くはあるまい。さる小学校教諭の実感は、そうしたことを反映していると思われる。

 すみわけ感をもつ令和キッズの何がすごいかといえば、自身の世界観を相対化できる可能性が比較的高い(と思われる)ところだ。世界観の相対化は、もちろん平成アダルトでも多くの人ができるが、できない人もまた多い(令和キッズにもまあいるだろう)。世界観の絶対視は、その内容を共有する党派の誕生につながるが、党派は別の党派との衝突が避けられず、かつ、結果としてその衝突は無益な敵対に終始することが多い。自身の世界観を相対化できれば、たとえ党派間での衝突があったとしても無益な敵対に終始するのではなく、敵対にとらわれない態度で問題解決に向かって進める可能性が高まるのではないだろうか。

 幼少期から自分の興味関心とは異なる同級生と触れ合う(かつ興味関心の中身については触れ合わない)ことで、彼らは自分が偏っており、それゆえ自身の価値観を絶対化できないことに肌感覚で気づいているのではないだろうか。だとしたら、すばらしい。

昭和・平成アダルト

 スピード感やすみわけ感が肌感覚レベルで身についているであろう令和キッズに対して、あるいは彼らがつくる世の中に対して、昭和・平成アダルトは何で対抗・貢献できるか。私は「ゆっくり感」と「遠回り感」、すなわち安易に「要/不要」に行かない力だと思う。要/不要へのスピード感とそれに基づくすみわけ感に対しては、要/不要に至るまでの過程を精確に言語化してより深い探求に努め、議論をねばり強く続けていく力が必要なのではないか。