申如録

日常生活で考えたことなど

思考のノイズを除去し、世界の解像度を上げる


 ぼーっとするくらいなら感覚を研ぎ澄ませたほうが人生おもしろいのでは、という話です。

 私は小さいころから脳内でひとりごとを言うのがクセで、気づいたら映像つきのひとりごとが脳内で勝手に始まっている。これはてっきり自分だけかと思っていたらけっこう共感されるので、こういうクセがある人はわりと多いんじゃないかと思う。

 ひとりごとは勝手に始まるから仕方ないといえば仕方ないのだが、内容から察するに生産性はあまりない。いや、ひとりごとに生産性を持たせる方法はおそらくいくつかあって、たとえば私は大学生のときにひとりごとを中国語に切り替えたら中国語が飛躍的に身につき、またひとりごとの内容を興味のある分野(当時は哲学)にしたらけっこうおもしろい会話ができた。とはいえ、ひとりごとに熱中していたら次第にひとりごとが止まらなくなって不眠気味になったので、ひとりごとに生産性を持たせることはおすすめしない。

 ひとりごとをしてしまうときは2種類ある。ひまなときと、ひまじゃないときである。ひまじゃないときはひまじゃないのだから、おとなしくやるべきことに集中すべきだろう。ここではひまなときのひとりごとについて少し述べておく。

 ひまなときにひとりごとが始まっていることに気づいたら、感覚に意識を集中させてみるとよい。そうすると普段とは違うものが見えたり聞こえたりしてけっこう楽しい。おいおいそれだけかと拍子抜けするかもしれないが、これが私の言う「生産性」である。生産性なんて概念しょせんそんなもんだ。

 普段とは違うものが見えたり聞こえたりする、というとなんだか頭がおかしくなったようだが、そうではない。たとえば目を凝らしてカーテンを見てみると「へえこんな生地だったんだ」と気づいたりする。個人的に最もわかりやすいのが聴覚で、耳を澄まして「いつもは聞き逃している小さな音を聞き取ろう」と思うだけで何か新しい音が聞こえてくる(家の中だと難しいかも)。たったこんなレベルのことだが、たったこんなレベルのことですら意識しないとできないのがわれわれである。

 世の中にはわれわれが薄っすら思っていたことを言語化してくれる人たちがいる。詩人や哲学者はまさにそうで、Twitterのおもしろい人たちもおそらくそうだ。彼らのおもしろさ(の一部)は、世界に対する解像度の高さから来ている。

 一日のうち数回だけでもいい、感覚に意識を集中させて世界の解像度を上げてみる。きっとこの繰り返しをしていくうちに、人生は少しいい感じになる。