申如録

日常生活で考えたことなど

ちゅう太の話

 これは、とある時代の、とおい国のおはなしです。

 その国のはずれ、都からは山をいくつも越えたところに、〈あかい村〉という村がありました。あかい村は農業でくらしをたてている小さな村で、人々はその日その日をのんびりと、ほがらかに過ごしていました。

 あかい村にはちゅう太という若者がいました。ちゅう太はかぞえ年で二十二、けっして力もちではありませんでしたが、もの知りでやさしかったので、みんなから頼りにされていました。ちゅう太は毎日たくさんはたらき、たくさん食べてたくさん寝ました。ちゅう太はこんな日がいつまでも続けばいいと、ぼんやり思っていました。
 

 そんなちゅう太には、ある悩みがありました。それは、悲しんだり怒ったりするとき、ちゅう太にはそれがほんとうの気持ちではないような、まるで演技でもしているかのように思われてしまうことです。

 たとえば、村のおばあさんが死んだとき、おばあさんに小さいころからかわいがってもらったちゅう太は、胸の奥がひっくひっくいって息をするのが苦しくなるほど泣きました。それでもちゅう太は、涙と鼻水で顔中びちゃびちゃにしながらも、「おれは今ほんとうにかなしいのだろうか? おれはかなしいふりをしているだけなのではないか?」と思ってしまったのです。おばあさんが死んだと知ったときは悲しくて涙があふれ出たのに、いざ泣きはじめてみると悲しいのかどうかわからなくなってしまったのです。

 ちゅう太は悲しんだり怒ったりするときいつもこうでしたが、だれにもこのことを話しませんでした。なのでまわりの人たちは誰も気づかず、村のおばあさんが死んだときも、泣きじゃくるちゅう太のことをやさしいやつだと思っていました。ちゅう太は自分がひょっとしたら「はくじょう」なのではないかと思い、ひとり思い悩んでいました。
 

 それでもちゅう太には、ほんとうのことだと思えることがひとつだけありました。ちゅう太はときどき、この世界に生きているものすべてが、いや、空や大地や石などの生きものでないものも含めたすべてが、どうしてもしあわせになってほしいと焼けつくように願うのです。そしてそれが実現するためには、ちゅう太はただひとり、しあわせになる世界の身代わりとなって死ななければならない。ちゅう太はときどき、そんなことを思うのでした。

 この考えはいつも突然やってきます。畑しごとを終えて歩いているとき、すきな歌を口ずさんでいるとき、景色をぼんやりながめているとき。もはや単なる考えではなく衝動とでも呼ぶべきそれは、生じるたびにちゅう太のこころを焼きつくします。

 おれは世界のしあわせのために死ななければいけないのだ。おれが世界の苦しみをすべてひっかぶって、ついには火のなかに身を投じるのだ。

 ちゅう太はこの考えにひたっているあいだ、夢中になってなにも疑わずにすむので、とてもしあわせでいることができました。
 

 ある日ちゅう太が村を出て、用事をすませるためにひとけのない森のなかを歩いていると、いきなり意識がぼんやりして、どこからか声が聞こえてきました。

「おまえ、覚悟はあるか」

ちゅう太はなにがなにやらわかりません。意識はさらにぼんやりして、もはや周囲のことはなにも気にならなくなっています。すると、

「おまえ、それをほんとうにやってのける覚悟はあるか」

ちゅう太はやはりなんのことかわかりませんでしたが、意識をはっきりさせて我に返ったとき、ちゅう太は塔のてっぺんに立っていました。

 塔はえんとつのような形をしていて、ぽっかりあいた中心部の底にはあかあかと光るマグマがたまっていました。マグマからはもうもうと湯気がたちのぼり、その熱さは塔のてっぺんにいるちゅう太にも伝わってきます。ちゅう太がぼうぜんと下をのぞきこんでいると、先ほどの声がまた話しかけてきました。

「そこからマグマに向かって飛び降りる覚悟はあるか。もしそれができたら、この世界のすべてをしあわせで満たしてやろう」

 ちゅう太はハッとしました。これはおれが普段から考えていることじゃないか。これが現実となる日がついに来たのだ。

 マグマをひと目見たときから、覚悟について訊かれる前にすでに、不思議とその覚悟はできていました。おれがここに飛び込むんだ。飛び込んで、この世の苦しみを全部ひっかぶるんだ。それがやるべきことなんだ。

 それに、道ばたのたき火ならいざ知らず、こんな大がかりなものをこしらえられてしまったので、ちゅう太はますますその気になっています。おれがやるんだ、おれが死んでみんながしあわせになるんだ。

 ふとあたりを見まわすと、塔の壁にはおおぜいの人たちの顔が浮かんでいます。ちゅう太は、この人たちがしあわせになるのだなと思う一方で、人々のヒーローを見るようなまなざしを受けて、ちょっぴり得意げになりました。でもすぐに「この人たちの顔はほんとうはまぼろしで、おれはただまぼろしに見つめられているだけなのかもしれない」という考えが浮かび、こちらをうれしそうに見つめてくる顔をながめてもなんとも思わなくなりました。ちゅう太は、だれのためでもなく、ただそれだけのために死んでゆくのでした。

 ちゅう太は、声に向かって語りかけました。

「おれはここでマグマに飛び込みます。だから、みんなを、ぜんぶを、ちゃんとしあわせにしてください」

 声はなにも答えませんでしたが、ちゅう太は相手にしっかり届いたと確信しました。

 ちゅう太はやや深く息を吸いこむと、視線を空に向けました。これまで自分を育ててくれた両親、いつも一緒だった友人、ずっと好きだった女の子の顔が思い出されます。おれがいきなりいなくなって、みんな驚くだろうな。お父さんとお母さんはきっとたくさん泣くだろうな。ちゅう太はしみじみと自分がいなくなったあとのことを想像しました。

 ちゅう太は目線を下におろし、もうもうと湯気をはきだすマグマを見つめました。あかあかとしたその光はまぶしいほどに明るく、どろどろと流れていきます。

 ちゅう太はそのうち、自然と体を前にたおしました。体は重さにしたがって地面に水平になり、やがて頭から真っ逆さまにマグマへと突っ込んでいきます。ちゅう太はまっすぐ頭から落ちるのはすこし怖かったので、手を上にあげました。顔をあげると、マグマがどんどんせまってくるのがわかります。熱さもどんどん強くなってきます。すごいな、まだ熱くなるのか、こりゃすぐ死ねるな。マグマにぶつかる寸前、ちゅう太は静かに意識を失いました。
 

 ちゅう太が気づくと、そこはもとの森のなかでした。なんの変哲もない光景が広がっています。先ほどの塔も、マグマも、もうどこにもありません。ちゅう太は驚きながらも微笑み、再び道を歩きはじめました。