申如録

日常生活で考えたことなど

誕生日の話

 2020年9月22日、私は26回目の誕生日を迎えた。まだまだ若いとはいえいわゆるアラサーに突入し、身体の疲れは10代のころと比べて明らかに取れにくくなっている。とはいえ着実に成長できているのも確かで、今年は自分から何かを作っていく年にしたいと思っている。

 誕生日はおめでたい。このことについて異論をはさむつもりはない。
 しかし、誕生日を生まれた日、すなわち私でいえば1994年9月22日だとするなら、「私の誕生日とはあくまで1994年9月22日なのであって、それ以降の9月22日は誕生日ではない」と主張することも一応は可能なわけだ。というか、「誕生日」という漢字だけをみれば、それは文字通り「誕生した日」なのだから、むしろこの主張のほうが正当なのではないかとすら思えてくる。
 われわれが普段何気なく使っている誕生日という言葉とその用法は、すでに過ぎ去った本当の唯一の「誕生日」を固定化するためにわれわれが後からこしらえたものなのかもしれない。

 思えばこれは誕生日に限った話ではなく、記念日すべてに当てはまる。
 われわれは8月15日と聞けば終戦記念日、3月11日と聞けば東日本大震災の日を思い出すが、第二次世界大戦が終わったのは1945年8月15日(実は歴史学では異論の多い日付である)だし、東日本大震災が起こったのは2011年3月11日だ。それ以降の8月15日や3月11日は単に月日が同じだというだけであって、終戦東日本大震災が起こった日ではない。

 このように、過ぎ去った日のもう二度とやってこなさに抗って、それを固定化しカレンダー上に過去の痕跡を残しておくための試みが「記念日」である。

 繰り返しになるが、9月22日になったからといって私がまた誕生するわけではないし、8月15日になったからといって終戦するわけではない(そもそも今は戦争をしていない)。その日を記念するのはひとえに記念しておきたいからであって、過ぎ去った日が原理的にもう二度とやってこない以上、それは恣意的なものであることを免れない。
 こういうわけで、私は記念日を必然的な根拠のない一種の「こじつけ」だと見なしている。記念日がそうした「こじつけ」だからこそ、記念日は増減したり移動したりできる。記念日に必然性があったらそうはいかないだろう。

 この点、記念日と季節は明らかに異なる。
 季節は五感で直接感じることができる。じめじめして蒸し暑ければ夏だし、乾いた冷たい空気が凛と張りつめていれば冬だとわかる。
 他方、記念日は五感で感じることができない。カレンダーも何も参考にせずに「今日は誕生日だな」とは絶対にわからない。記念日は、記念されるべき内容とは基本的に無縁の、何の変哲もない一日である。

 私はこれまで記念日の無根拠性を強調してきたが、だからといって記念日が無価値だとは考えていない。むしろ記念日には根拠がないからこそ価値があり、誕生日には根拠がないからこそおめでたいと言いたい。
 五感をフルに使っても何も感じられない、そんな何の変哲もない1日が、記念日だというだけで特別な1日に変わる。昨日となんら代わり映えしない1日が、誕生日だというだけで、クリスマスだというだけで、うれしい1日へと変貌する。
 私はこれが誤りだとはまったく思わない。
 ただの1日が特別なものになるのなら、たとえ根拠がなくとも記念日には大いに価値がある。だから、記念日には思いっきり喜ぶとよい。思いっきり泣くとよい。思いっきり思い出にひたるとよい。
 根拠がないからこそ、そこには自分から思いっきり何かをできる余地がある。

 ただし、記念日には根拠がないのだから、その日に喜んだり泣いたりするよう強制することは原理的にできない。記念日にどうするかはあくまで自発的なものなのである。
 だから、記念日になにかアクションを起こすにあたっては、記念日が当事者にとって「束縛」にならないように、みんなで記念することが当然だと思わないようにしたり、記念される側がそれを期待しないようにすることが大切になるだろう。

 誕生日はおめでたい! 根拠がないのにこの1日は喜んでいいのだ!

【追記】
 先日の誕生日では多くの方(Twitterのふぁぼ含めて10人ほど)からお祝いのお言葉や贈り物をいただき、本当にありがとうございました。私も無理なく健康に生きていきますから、みなさんも無理なく健康に生きてください。

【追記その2】
 どうでもいいことですが、1回目の誕生日(=誕生した日)に「0歳」とカウントされるのはなんだか変な感じがします。1回目の誕生日を迎えたのにゼロなの?みたいな。いやまあ、ちょっと考えれば別に変じゃないってわかるんですけどね。