申如録

日常生活で考えたことなど

月の炎

 天高く上って白くなった満月を長い間見ていると、月の輪郭から青い炎が出てくる。

  私の好きな女(ひと)は月から来たのだという。突拍子もない話ではあるが、本人が言うならまあそうなのだろう。
 腰まである艶やかな黒髪、情熱的でいてその奥にある種の諦観を秘めた瞳、深紅の口紅がよく似合う唇、張りのあるたわわな胸、程よく力みが取れしかもしっかりと伸びた背筋、文字通り「く」の字にくびれた腰、健康的ですらりとした脚、よく手入れされ光沢を放つ足の爪。着ている服はいつも濃い色をしたシンプルな形状のもので、香水をときどきつけている。
 花にたとえるなら、彼岸花に似ている。

  彼女と私は美術館で出会った。彼女をひと目見てその非凡なオーラに気づいた私は、美術館から出てくるところを見計らって声をかけた。私たちは互いに美術や本が好きで、しかも好きなジャンルも似ていたため、すぐに打ち解けることができた。
 出会いから一週間後、私たちは恋仲となった。

 私たちは強く求め合った。激しく愛し合った。穏やかに語り合った。出会ってからの日々は瞬く間に過ぎていった。
 彼女の瞳は常に私をまっすぐとらえていた。それでいて、私を見てはいなかった。その瞳は、私と一緒に過ごす時間が幸せだけでなく別れをも育むことを知っていた。
 私はそのことに気づいていた。彼女の瞳には深い愛情と悲しみがあった。それでも彼女と一緒にいる時間がとても貴重で愛おしくて、悲しみの方には気づかないふりをしていた。

 ある日彼女は、自分は月からやって来たのだと告白した。前世で罪を犯した彼女は、肉体とともにこの地上に産み落とされたのだという。肉体は枷となり、彼女が月へと帰ることを阻むのだという。そして、地上の何に心惹かれても、月のことが魂を捕らえて離さないのだという。
 不思議なことに、私はこの突拍子もない話を至極もっともだと思った。確かに突拍子もない話ではあるが、本人が言うならまあそうなのだろう。同時に、もうお別れなのだと思った。
 その日は中秋の名月だった。切ないほど澄み切った空の下、切ないほど美しい月明りの下で、私たちは最後の抱擁を交わした。家に帰ってLINEを開くと、連絡先はすでになかった。 

 彼岸花の球根には毒があるのだという。その毒はひどい場合には中枢神経を麻痺させ、人を死に至らしめることもあるのだという。
 死に至るまでには、いったいどれほどの毒を摂取すればよかったのだろう。私の頭は今でもぼんやりと痺れたままでいる。 

 天高く上って白くなった満月を長い間見ていると、月の輪郭から青い炎が出てくる。月の炎は、月明りとともに闇夜を照らす、満月の端でゆらゆら揺れる、止めどなく燃え上がる。炎の色は、空の鏡、夜の氷、波の青。