申如録

日常生活で考えたことなど

不細工の話

 駅で不細工を見た。太った顔は全体的に荒れて赤く腫れ上がり、目は片方がいびつに平べったくなっていた。要するにかなりの不細工で、生まれてこの方恋人などいたこともないことが容易に想像できるような容姿だった。
 その男は、8月のうだるような暑さの中、スーツに身を包んで一生懸命階段を駆け上がっていた。私はすれ違いざまに彼の顔を一瞬見たのだった。
 私は憐れみを覚えた。かわいそうだと思った。一生懸命階段を駆け上がる姿からは、彼が不細工という重荷を背負わされるほどの悪人にはどうしても見えなかった。

 そもそも彼の顔はどうして不細工なのだろう。言い方を変えれば、なぜ不細工なのがよりによって彼でなければいけなかったのだろう。なぜ彼が、彼以外の多くの人が背負わないような重荷を背負わなければいけなかったのだろう。
 これらの問いに対する答えは、おそらくない。彼の顔がそのようであることと、彼のそのような顔が一般的に不細工だと見なされることは、ただの事実として今ここにある。彼が不細工であるという事実は、残酷なまでにむき出しだった。

 思えば、そういうのは彼だけに限ったことではない。多くの人がそれぞれの不幸を抱えて生きていて、生きづらさや辛さを感じながら日々を過ごしている。
 でも、それはいったいどうしてなのだろう? なぜ不幸な人は不幸なのだろう? その人はただ生きているというだけなのに、なぜ不幸なのだろう?
 答えなどないとわかっていても、私はこう問わずにはいられない。そして、できることなら、私がその苦しみを一身にひっかぶって、燃え盛る火炎の中に身を投じたい。もう誰も二度と辛い涙を流さないで済むようにしたい。こんな馬鹿げた考えにとらわれてしまうことが、しばしばある。

 私がこの考えにとらわれたときは、このような発言をすることがある。