申如録

日常生活で考えたことなど

中島敦「山月記」考

 表題の『中島敦山月記」』という文字を見て懐かしく思った方も多いのではないでしょうか。われわれが高校生だったころ、その8割以上が現代文の授業で読まされたであろう、李徴が虎になってしまうあの話です。
(「山月記」は青空文庫で読めますから、気になった方はこちらから読んでみてください。年を重ねてから読み返してみるとけっこう心に刺さってきます。)

 李徴が虎になってしまう理由については、私の知り合いの国語科教員によると「さだめ」「自尊心と羞恥心」「詩への執着」などがスタンダードな解釈であるとのことでした。
 しかし、改めて「山月記」を読み返してみたところ、「さだめ」「自尊心と羞恥心」については納得できたのですが、「詩への執着」に関してはむしろそれが足りなかったから虎になってしまったのではないかと思いました。
 というわけで、ここでは李徴が虎になってしまった理由について、私なりに考えたことを述べてみたいと思います。私は文学には詳しくないので「こんな読み方もあるんだな」くらいに思ってもらえれば幸いです。

  李徴が虎になった理由を考えるにあたって私がまず注目したいのは、彼が「己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいる」ことに気づけなかった、と述べていることです。この「専一」というのは彼のように何事かを(彼の場合は詩業を)打ち立てたいと願う人間にとっては真に大切なことだと思います。
 そしてここでポイントとなるのは、その「専一」を本当に徹底するのであれば、詩業以外のことは打ち捨てなければならないのではないか、ということです。「専一」とは読んで字の如くそれだけをやるということ、言い換えればそれ以外は放っておくことを意味するからです。
 このように考えると、彼の「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のことを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ」という発言は、まさに「専一」になれないこと、すなわち詩業以外のもの(ここでは妻子)を捨て切れなかったことの現れだ、とも考えられるでしょう。(ちなみに、先の「詩への執着」が李徴を虎にしたのだとする解釈はおそらく彼のこうした発言を根拠にしていますが、李徴は詩への執着があったから(李徴が妻子よりも詩を気にかけていたから)虎になったのだという解釈は私は正しくないと思います。妻子より詩を気にかけると虎になるのであれば、彼より「専一」に詩業に打ち込んだ人たちも次々と虎にならなければ辻褄が合わないからです。しかし、本文中には彼以外の人間が虎になったとの記述はありません。)
 「専一」になるために捨てるべきものの中にはもちろん自尊心や羞恥心も含まれます(むしろ捨てる優先順位は極めて高いと思います)。しかしながら、それ以外のもの(妻子等)も自尊心や羞恥心などと同様に捨てられなければならないはずです。繰り返しますが、それこそが「専一」の意味するところだからです。だから、「詩への執着」という点に触れるなら、それがあったことが李徴の誤りだったのではなく、それが足りなかったことが李徴の誤りだったのです。

 そう考えると、虎になるということは「捨てること」の徹底だとも考えられます。完全に虎になってしまえば、自尊心も、羞恥心も、妻子も、また詩業もない。虎は全身全霊で虎なのであって、そこには李徴の抱えるような中途半端さ、またそこから生じる迷いや苦しみはありません。だから李徴は「己の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、己はしあわせになれる」と言ったのでしょう。さすがに李徴はそのことに気づいていました。
 ですが、李徴は虎になり「しあわせ」になることを「この上なく恐ろしく」感じてしまいます。彼は最後まで、そして最後は「人間であること」を捨てられなかったのです。
 たいへん長くなりましたが、要は彼の中に鬱積した様々なものが限界点を超えて弾け飛び、メーターが逆に振り切って「捨てること」が暴走した状態、これが虎なのだと思います。そしてその鬱積には、彼の「専一」になれない中途半端な態度、果断のなさがあるのでしょう。

 さて、彼のその中途半端な態度はどこから来るのかといえば、もちろん真っ先に浮かぶのは「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」だと思います。現に李徴もそのように考えており、自身が虎になってしまった理由について次のように述べています。

己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。

自尊心と羞恥心にとらわれている限り、専一に努力することが必要でありかつ合理的であることが頭ではわかっていても、どうしても身体が動かないはずです。したがって、彼の自尊心と羞恥心が彼の中途半端な態度を形作っていることはまず間違いないと思います。

 ただ、そうした自尊心やら羞恥心やらが妨げになるようなこと(詩業)は、初めから李徴には向いていなかったし必要でもなかったとも考えられるのではないでしょうか。その人にとって本当に向いていることや必要なことであれば、むしろ打ち込んでいないことに我慢ができず、自尊心や羞恥心なぞ一向に構わず専一に打ち込めるはずですから。
 だとしたら、彼はそもそも詩業にしか出会えなかった時点で虎になる「さだめ」だったのだと考えることもできます。彼は詩業に向いてはいましたが専一になれるほどのものではなかったし、詩業以上に向いていることにはついに出会えませんでした。彼は「理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」と述べていますが、彼が虎になることは彼に押付けられるべき「さだめ」だったのかもしれません。