申如録

日常生活で考えたことなど

目と目が合う話

 中学生のころ、同じ学年に「私と目があった人は全員私のことが好き」という規則を持っている女子生徒がいた。その規則のおかしさもさることながら、彼女が残念ながらかわいくなかった(むしろ容姿が劣っていた)こともあって周りからは白い目で見られていたが、今思い返してみると彼女がそうしたおかしな規則を採用したこと自体はなんらおかしなことではなかったと思う。

 常識的にはただ目が合っただけで「相手が私を好いている」とは考えないし、彼女のそうした規則はおかしいとしか言いようがない(何度も目が合ったりしていれば話は別だが、彼女は文字通り「ただ目が合っただけで」相手が自分を好いていると考えるのだ)。目が合った人全員を「自分のことが好きな人」と見なす規則は、われわれの(少なくとも私の)「常識」ではないからだ。
 しかし、われわれの常識からみれば彼女の規則は確かにおかしなものに映るが、彼女がそのような規則を彼女の「常識」として採用すること自体はなんらおかしなことではないのではないか。彼女の規則がおかしく映るのはそれをわれわれが「常識」と呼ぶ世界観の内部においてとらえるからであり、その「常識」から距離を置いてしまえば別におかしくないのではないだろうか。

 このように話すと「常識から離れたらどんな行為だっておかしくないのは当たり前だろう」というお叱りを受けそうだが、私がしたいのはそんな単純な話ではない。
 私がしたかったのは、例えば「本棚に本を並べて」と言われて本を並べていた人がさも当然のごとく10冊並べるごとに本を180度回転させていたとき(最初の10冊は普通に、次の10冊は逆さまに……以下同様)、その人は「間違って」いたのかどうか、ということだ。
 私の考えでは、その人は間違っているとも言えるし、間違っていないとも言える。本棚に本を並べるとき、本を10冊ごとに180度回転させる規則を持っていない人(=それが常識である人)からすればその人の規則は間違いだし、本を10冊ごとに180度回転させる規則を持っている人(=それが常識である人)からすればその人の規則は間違っていない。今のところは、180度回転させずにそのまま並べる人が多いというだけのことである。
 同様に、人と人が目を合わせたとき、ある者は恋に落ち、ある者は喧嘩を始め、ある者はそのまま何事もなかったかのように目を逸らすだろう。だが、そこには「このようにしなければならない」といったルールはなく、それゆえ一見みんなが共通の規則に則ってそこからすべてが始まっているように見えても、本当は個々人がリアクションの規則を自分自身で習得し日々実践しているはずなのだ。われわれは共同生活のなかで知らず知らずのうちにたくさんのリアクションの規則を身につけているが、どのような規則を身につけるかということ自体は実は無限の可能性を孕んでいて、しかも採用した規則同士は原理的には対等なのだ。

 ところが、社会では諸規則における共通の基準のようなものがあり、たいていの人はそれに則って生きている。たいていの人が則って生きているところのそれ(一般に「常識」と呼ばれる)は常に「正しさ」を帯び、それに適合できない人は「間違っている」と見なされる。
 私はこうした構図が現にあることが奇跡だと思う。だって、何を常識として採用するかということ自体には基準がなく、個々人がそれぞれの常識を持っていてよいはずなのに、多くは共通してしまっているからだ。
 だから私は、この世界には事件が少なすぎると思う。これはもっと事件が起きればよいと願っているとかそういう話ではなくて、例えば1回電車に乗るごとに誰かをぶん殴るとか食べ物を口に運ぶたびに歌を歌うとか、私の規則とは全然違う規則を採用している人がもっといてもおかしくないはずなのに、どうしてそのようになっていない(おかげで驚くほど平穏に日々を過ごすことができる)のか、という困惑である。

 私としては規則ができるだけ共通であるほうが平穏に日々を過ごせてありがたいのだが(70億人が思い思いの規則を採用していたら社会が成り立たないだろう)、時折その共通とそれに伴う「正しさ」が窮屈に感じられてしまうことがある。正直に言えば、規則の共通とそれに伴う「正しさ」がたまたまのものであるという認識を持っている人があまりにも少なく、あたかもそれをアプリオリなものであるかのようにとらえ平然と「正しさ」で人を裁くような人があまりにも多いように感じられる。
 私は幸いにも共通の規則に合わせる能力を持ってはいるが、それでも私自身の規則はこれからも大切にしていきたいし、他の人もそうであってほしいなと思う。私は、私や他の人たちと異なった規則を採用している人がいてもそれが間違いだとは断定せず、私たちと異なった規則を採用していることに心の中で共感し(それはいったい何への共感なのだろう?)、黙って距離を置くように心がけている。