申如録

日常生活で考えたことなど

生き甲斐について

 この前、後輩に「生き甲斐は何ですか」と訊かれた。生き甲斐。手元の『広辞苑 第五版』には「生きるはりあい。生きていてよかったと思えるようなこと」とある。私はうまく答えることができず、お茶を濁した。

 私は良い物、良い人、良い場所に触れるのが好きだ。むしろ私はそのようなことしかしたくない。その意味では、私には「生き甲斐」とやらがあるのかもしれない。
 本を読むこと、美術を見ること、語学を学ぶこと、文章を書くこと、音楽を聴くこと、歌うこと、旅行すること、優れた人や馴染みの人と会うこと、美味しいものを食べること、美味しいお酒を飲むこと、たばこを吸うこと。やるべきことが多すぎて1日24時間ではとても足りない。私だけ1日72時間あればいい。

 私にはこのように好きなことがたくさんあるが、こうした好きなことを「生き甲斐」と表現するのはなぜか違和感がある。本を読むのは好きだが、本を読むのが生き甲斐だとは思わない。この差はいったい何なのだろう?
 思えば「趣味」についてもそうだ。本を読むのは好きでも、本を読むのが趣味だとは言いたくない。もっと言えば、本を読むのは好きでも本を読むのが好きなことだとも(趣味よりはましだが)言いたくない。何なら本を読むのが好きだとも言いたくない。そうですね、本はよく読むかもしれませんね……くらいしか言いたくない。黙って本を読ませろ!

 ここには、自分の好きなことやすべきことを「生き甲斐」や「趣味」といった名詞(言葉)で表現することへの反発がある。自分の好きなことやすべきことを「生き甲斐」や「趣味」といった名詞で表現すると、伝えるべきことを無理やりその名詞に押し込めているような気がする。それゆえ、「生き甲斐」や「趣味」といった名詞では私の言いたかったことは伝わらない、そんな感覚がある。
 最近はましになってきているのかもしれないが、それでも名詞に何かを押し込めようとする風潮は色濃く残っている(というかいちいち名詞に変換しないとそれが何なのか理解できない人種が一定数いる)。私はそうした風潮が窮屈で仕方ないので、早くなくなればいいと思っている。
 われわれは言葉以上のことを理解できないにもかかわらず、言葉では絶対に表現できない何かが常にそこにある。言葉はあくまでも表現したいことを外側からとらえたものにすぎない。本当に表現したいことは、個々人が言葉の網目をかいくぐり、内側からとらえ直していくしかない。だから例えば、私にとって本を読むことが何を意味するかがわかるためには、個々人が「生き甲斐」「趣味」「好きなこと」といった名詞をかいくぐって考える必要がある。いや、そこではもう「考える」など抜きで直接「わかる」くらいの力の抜け具合が求められるのだろう。あーわかるわかる、みたいな。