申如録

日常生活で考えたことなど

冬の便り

前略 ご無沙汰しております。

 20代の後半にさしかかり、ようやく物事に動じなくなってきました。いや正確に言えば動じはするのですが、すぐに自身の感覚に立ち戻ることで動じてしまった心をいくらか平静にすることができるようになりました。わたしはもともと落ち込みやすい質で、むしろ定期的に落ち込むことを求めてすらいたのですが、今はたとえショッキングなことがあっても「そうはいっても見える景色はなんにも変わらないじゃないか」「聞こえる音はなんにも変わらないじゃないか」「わたしのやるべきことはそのままじゃないか」とすぐに持ち直すことができます。こう見てみると、過去がわたしを支えてくれるのですね。記憶というものがあってよかったと思います。

 先日、わたしは以下の内容をTwitterに書き込みました。

 しかし、実はこの内容は正確ではありません。確かにコンロの火を消した記憶がないと思い至ったときは非常に心苦しく、仕事先の人にもそのことを話しました。でも一息ついてみたら「家が燃えたってかまやしない、家が燃えるだけであとはなにも変わらないんだから」と思いそのまま仕事を続けようとしたところ、仕事先の人たちに帰るよう説得されてやっと帰途に就いたのです(結果はわたしの杞憂でした)。
 まあこの場合はとりあえず早いうちに帰っておいた方が火事防止につながるという点で合理的なので、わたしの「家が燃えたってかまやしない」は間違いなのかもしれませんが、とにかくわたしは物事と自分とを切り離して生きることができるようになってきました。ひょっとしたらこれが執着から自由になるということなのでしょうか、わたしにはまだわかりません。

 思い返せば惨めな思いをたくさんしてきました。家族、友人、恋愛、仕事……楽しかった思い出もたくさんありますが、惨めな思いは強烈な印象を残すものです。
 ふと、たつのすけ(わたしの名前です)は生まれるべきではなかったのだと思うことがあります。たつのすけはその生まれからしてちょっと複雑だったので、それはある意味で当然のことかもしれません。また、別に出生にまつわることで感傷的にならずとも、たつのすけのことを生まれなくてもよかった存在だと考えることは普通に可能です。しかし、たとえたつのすけが生まれるべきではなかったとしても、わたしは現にこうして生まれたわけだし、生まれてきた以上こうでしかあり得なかった。この「たつのすけ」と「わたし」の差異がわかりますか。たつのすけは生まれるべきではなかったかもしれませんが、わたしはそうではないのです。生まれるべきだとかそうでないとか、あるいは生まれなかったかもしれないとか、そういうことはわたしには全然関係がない。わたしに「べき」や「たられば」は届かない。

 しかし、悲しいかな、「わたし」に関する事実は言葉には乗らないのです。わたしが今語ろうとしているこの事実は、あなたがあなたの事実によって直接にわからなくてはいけません。あなたも、一人の人間としてはいろいろなことがおありでしょうが、あなたはいつだってそのままなのです。このように「わたし」が存在と言葉の間で引き裂かれていることが、苦しみの究極の根源じゃないかと思います。

 ここでちょっと立ち止まって考えてみてください。「わたし」に関する事実が言葉に乗らないのなら、わたしはいったい何を長々としゃべっているのでしょう? 言葉に乗せられないようなことがらを、わたしがどうして文章で伝えられるでしょう? でも、全員とは言いませんが、ここでの話がわかった方もいるはずです。言葉に乗らないことがらについての話が、なぜかわかってしまっている。
 これは、わたしがわたしに関することを言葉にしたとき、もともとはたつのすけのわたしについての話だったのが、いつの間にかわたし一般の話にすでに変換されることによって起こります。これこそが言葉の機能です。言葉には(それが文法などを無視したものでないかぎり)いつの間にか一般的に通じる意味が付いてしまうのです。だから、言葉に乗ることだけがほんとうのことだ、と考えることは妥当です。一面ではそれは真実ですらあります。だって、言葉に乗らないことなんて誰にも伝わらないのですから。言葉に乗らないことなんて、言葉の側からしたら無いのと同じです。

 でも、わたしはそんなことは認めたくありません。言葉に乗らない世界が、言葉の側から見れば「無」の世界が、確かにあるとはっきり断言しておきたい。だってそうしないと、わたしたちが沈黙している間、わたしたちには何もないことになってしまいます。口下手の人には思想がないことになってしまいます。でも黙ってたって口下手だって、わたしたちには確かにこれがあるではありせんか。例を挙げるなら、例えばわたしたちが深い感動を覚えるとき、言葉であれこれ表現するのではなくただぼーっと余韻に浸りたくなるような瞬間がないでしょうか? そういうものには、どうしたって言葉じゃ追いつきやしません。
 そう、追いつかないのです。言葉は事実の前でまごついているのです。言葉は遅いのです。仮にわたしがあなたに恋しているとして、思い切って告白したところでわたしがほんとうに伝えたかった「わたしがあなたに恋している感覚」は原理的に届きようがなく、告白を聞いたあなたがそれを直接にわかるしかない。そしてこれが大切なことなのですが、あなたが直接わかったそれは、わたしがほんとうに伝えたかったものとは違うのです。それも、いいですか、この「違う」というのは、あのりんごとこのぶどうは違うというような、2つ以上のものを並列して比較するような「違う」とはそれこそわけが違います。あなたが直接わかったそれにも、わたしがほんとうに伝えたかったことにも、比較が可能な地平がそもそもないからです。そうした地平がないということが、一方がわたしであり他方が他人であるということです。だから、わたしがわたしであなたがあなたである以上、わたしのほんとうに伝えたかったことはあなたには伝えることができません(それができてしまったらあなたはわたしになってしまいます)。
 わたしたちは普段から縦横無尽に言葉を駆使して相手が難なく直接わかるように(それゆえ伝えたいことの原理的な伝わらなさを覆い隠すように)取り繕っていますが、やはり言葉は一面ではまったくの無力です。だって言葉は伝えたいことを何も届けてはくれず、結局は相手が直接にわかってくれるのをあてにするほかないのですから。そして伝えたいこととわかってもらったことには絶対的な断絶があるのですから。

 わたしはそれが悔しい。うれしいときに「うれしい」と言ったら、わたしのうれしさが全部伝わってほしい。でもうれしいときに「うれしい」と言ったって、それはうれしさのほんの表面しか持っていってくれません。わたしはうれしさの奥底まで持っていってくれることを望んでいるにもかかわらず、です。
 でもそれならうれしいときに「うれしい」という言葉を適切に使えるのはどうしてでしょうね? それどころか、言葉に乗らないとわかっていながらも言葉にせずにはいられないのはどうしてでしょうね? 「うれしい」いう言葉には乗らないあの感覚と、「うれしい」という言葉の間にはどのような連関があるのでしょうね?
 これは言葉だけではなく日常生活における言葉の使い方を見なくてはいけない問題でしょう。少なくとも、机に向かっているだけでは答えは見えてこない。言葉をより深く知るためには、わたしたちは言葉からいったん離れて、わたしたちの生活全体を見る必要があるのだと思います。わたしという存在と言語はマトリョーシカのように互い違いに食い込み合っている。そんな直感があります。

 さて、話が少し逸れてしまいましたが、言葉についてあれこれ考えてみたら以上のように相矛盾することが帰結してしまいました。一方では言葉の完全性を認めておきながら、他方では言葉の無力さを認める。そんなむちゃくちゃなことがあり得るのか、と思われるかもしれませんが、現にあり得ているのです。これはとても不思議なことだと思います。そして、存在と言葉のもたらすこの矛盾こそが、この不思議こそが、わたしたち自身が生きるということであり、同時にわたしたちを苦しめるものでもあるのです。これは言葉を扱う者としての宿命だと思っています。わたしはこの宿命が苦しい。でも、その中には代えがたい喜びもある。自由もある。どうせ生まれてしまったからには酸いも甘いもかみ分けてこの不思議を味わいつくしておきたい、そういう気持ちを強く持っています。

 このような矛盾の中でわたしたちにできることは、言葉の完全性も不完全性もすべてひっくるめて受け入れて、言葉を使う際には適切さを心がけ、言葉のせいで要らぬ妄念が生じてしまったなら言葉の外に出て落ち着く、これに尽きるんじゃないかと思います。言葉の中で四苦八苦するのも、言葉をまったく放棄してしまうのも、わたしにはどうもピンと来ません。言葉を使いながらも丸裸になって、自分にできることや自分がやるべきことにその都度立ち返っていくこと。そこから先はもう縁としか言いようがない、そう認識できる境地にまで自らを持っていくことは、ぜひとも必要なことだと思います。
 そして、わたしがわたしでわかるしかなく、あなたがあなたでわかるしかないというその底に、何かわたしたちをつなぐものがあるような気がしています。

 長々と失礼しました。まだ冬は長いですから、暖かくしてお過ごしください。

草々

2021年1月17日

たつのすけ

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