申如録

日常生活で考えたことなど

好きの話

 私は好きという言葉で執着を意味してきたように思う。私が何かを好きだと思うたびに、それは実は執着だったと思う。
 だから好きなものには必ず手をつけてきたし、手をつけないことなどありえなかった。むしろ、好きだと言っておきながら好きなものにあまり触れようとしない人たちのことが理解できなかった。本が好きなのに本を読まないのはおかしい。絵が好きなのに絵を見たり描いたりしないのはおかしい。それは好きだと思い込んでいるだけで本当は好きではないに違いない。そしてそのことに気づかないほど鈍感なのだ。私は(憤りを込めて)本気でそう思っていた。

 しかし今ではそうではないと思うようになってきた。私と彼らでは好きという言葉の意味が違ったのだ、と。

 手元の辞書をめくってみると、「好き」の項には「心がひかれること」とある。他方、「執着」の項には「強く心がひかれ、それにとらわれること」とある。これだ。私と彼らの違いはここにあった。彼らは心がひかれるだけでそれにとらわれないが、私はどうしてもとらわれてしまう。好きの意味がずれていたのは彼らではなく私のほうだった。
 そんなわけで、私は彼らのように次から次へと対象を切り替えられず、ひとつのものにこだわってそこから離れられなくなる。私が好きな曲をひたすらリピートするのも執着のせいだし、好きなカレーを週5回食べるのも執着のせいだし、好きな本を本が分解するまで読むのも執着のせいだ。ここ数年はもうなくなったが、10代のころは好きな人ができると延々と連絡を取り合わなければ心が落ち着かなかった。私にとって恋とは喜びというよりも心の余裕を失うことだった。

 だが、好きという言葉の意味の違いに気づいてから、好きだからといって好きなものにしょっちゅう触れなくてもよいことがわかった。私がそうでないというだけで、世の中には「好き」と「触れる」が直結しないような地平があるのだ。なんとなく、私の中で「好き」が少し楽になった。

 ただ、そうはいってもやはり好きなものに執着できないのはつまらない。たとえ周りが見えなくなっても、その他のことがおろそかになっても、好きなものに触れていたい。好きなものにしょっちゅう触れないというのは、私にはやっぱりありえない。これはもうどうしようもないのかもしれない。
 だからせめて、私は心に余裕をもって好きなものに執着していきたい。執着自体がやめられないのなら、それが執着であるという認識をもって執着するしかない、と思っている。