申如録

日常生活で考えたことなど

座標と無

 私は学生のころ鈴木大拙(以下「大拙」)がとても好きで、彼の全集を読んでみては何やらわかったようなわからぬような気持ちになっていた。つい最近、岩波文庫から彼の『神秘主義 キリスト教と仏教』なる著作が出て、それは初の日本語訳であるとのことなので、久しぶりに大拙を読んでみることにした。
 この記事を書いている今はちょうど全体の半分を過ぎたくらいで、まだ読み終わってはいない。内容云々はさておき、私としては大拙らしい内容に触れられたことが懐かしく、また学生のころよりもわかったような気持ちがだいぶ増していてうれしく思う。
 以前は大拙(あるいは同時代の西田など)の常套句ともいえる「絶対」「無限」「永遠」「無」等に出会うたびにわかったようなわからぬような気持ちになっていたのだが、今はこれらの言葉が指し示すものを多少なりとも掴んでいる感触がある。
 思うに、「絶対」「無限」「永遠」「無」とは私の認識を離れて遠くにあるものではない。むしろそれはあまりにも明々白々な、たとえば空が青くて雲が流れることそのものである、私が今ここにいることそのものである。この記事を書いている今であれば、自転車が通り過ぎる音、Microsoft surfaceのきれいな画面、風呂上がりでさっぱりした肌、口に広がるパルムの風味。そうしたことがそのまま「絶対」「無限」「永遠」「無」である。ここで大切なのは、「そのもの」「そのまま」をちゃんと守ること、換言すれば力をしっかり抜き余計な作為を与えないことだ。自転車が通り過ぎる音を「自転車が通り過ぎる音」と表現すれば、自転車が通り過ぎる音は実は死んでしまっている。この勘所を押さえておかなくてはならない。

 大拙の言わんとしていたことが多少わかってきた今だからこそ「絶対」「無限」「永遠」「無」についていろいろ言えるのだが、このことを人に伝えるにあたってはこうした表現ではやはりよろしくない。なぜって、この表現ではあまりにも説明不足でとらえどころがなく、端的にわかりにくいからだ。日常ではあまり意識しないことを日常ではあまり使わない言葉で表現しておいてさあそれを理解しろって言ったって、うーんいまいちわかりませんと言われるのがオチでしょう。もちろん大拙とてこれらの表現だけを使っているわけではなく、手を変え品を変え様々な方便を使ってくれてはいるけれども。
 「絶対」「無限」「永遠」「無」とは言語であって言語でなく、むしろ言語の拒否を示すためにやむを得ず使っている言語なのであって、それを直に伝えるにはたとえば相手の目の前にずいとゲンコツでも差し出して「これがわからんか」とでも言ってやるのがよいことは私にもわかる。大拙がそうした中でなんとかして言葉で広くそれを伝えようと苦心して、慈悲の心あるいは老婆心からそうした言葉を何度もしつこいくらい繰り返していたこともわかる。また、それはあまりにも明々白々であるがゆえにかえって言語表現には乗り得ないこともわかる。
 しかし、指し示すべきものが言語表現に乗らないほど明々白々であるからといって、表現までスッパリ直截にしてしまってはどうもとらえどころがなさすぎるではないか。……まったくこの老漢め、わかりにくい言葉で若者をたぶらかしやがって、そんな表現を使わずともそれはここにあるじゃないか。呵呵。

 こんなことを考えていたら、ふと「座標」という言葉が浮かんできた。座標。平面または空間で数直線が直交する点としておなじみのあの点である。私はこの「座標」という言葉が浮かんだ刹那、大拙のいう「絶対」「無限」「永遠」「無」はもしかすると「時間と空間における座標のなさ」として新たに表現できるのではないか、と思った。
 時間的・空間的に座標を持たないものなどあるのか。答えは、ある。少なくとも私のこれはそうだ。われわれの存在のもっとも当たり前のところ、そこに座標のなさはあるはずだ。そしてこの「これ」は、大拙のいう「絶対」「無限」「永遠」「無」と同じものであるはずだ。少なくとも私が大拙を読む限りではそのように読めた。もしそうでなければ、私はこの「絶対」「無限」「永遠」「無」がいったい何なのかさっぱり理解できない。
 座標を持つものは、世界のすべてである。世界のすべてには時間的・空間的な座標がある。いかに抽象的で普遍的だと思われているものであっても、それがこの世界の出来事である限り、それ自体は「いついつの時にどこどこの場所で」のものであることを免れない。したがって、時間的・空間的な座標がないならば、それはこの世界内の出来事ではない。たとえば神は時間的・空間的な座標を持っていないが、それは神がこの世界内の出来事ではないからである。
 私のいう「これ」は、この意味において、すなわち時間的・空間的な座標を持っていないという意味において、いわば神に類している。誤解されないように一応言っておくが、これは神のようにえらいとかすごいとかそういう意味ではもちろんない。私のいう「これ」、および大拙のいう「絶対」「無限」「永遠」「無」は、時間的・空間的な座標を持っていないというただその一点において、他のいかなる出来事に比しても別格だということである。したがって、厳密にいえば「これ」の比類なさは神をも凌駕する。そもそも他のすべてを凌駕すること、他のすべてが同じ土俵にすら立てないことこそが「これ」なのだから。

 私のいう「これ」とは、そこから世界が開けているような、いや世界の開けそのものである。これを時間的にいえば「今」になるし、空間的にいえば「これ」になるし、人称的にいえば「私」になる。(空間的な表現として「ここ」を使いたくなるかもしれないが、そうはいかない。確かに「今」「私」と「ここ」は近いものを指すという共通の用法を持ってはいる。しかし、遠くに見える富士山も私のいう「これ」に含まれるのであって、遠くの富士山の見えを「今のもの」「私のもの」とするのは自然だが、遠くの富士山の見えを「ここ」という言葉で表現するのはどうも不自然である。したがって、空間的な表現については「ここ」ではなく「これ」を使うことにした。)
 ここで注意しておきたいのは、その「世界の開け」には時間的・空間的な座標は必要ないということである。それが「今」であることは「今」が2020年6月16日であることとは関係がないし、それが「(空間としての)これ」であることは「これ」が東京都足立区であることとは関係がない。「今」はあらゆる時点にあるだろうし、「(空間としての)これ」はあらゆる地点にあるだろう、人称についても「私」はあらゆる人点?にあるだろう。世界の開け、すなわち「これ」はその存在だけが問題なのであって、その内容がどうであるかは無関係なのだ。時間的・空間的な座標は世界のすべてに適用されるのだが、しかし実は「これ」という世界の開けの中でのみ適用される概念にすぎない、ともいえるわけである。
 ここまで読み進めてくると、あたかも「これ」がわれわれの世界そのもののように思われるかもしれない。ある意味でそれは正しい。それを正しいと見なす地点に立つことこそがわれわれを客観的世界に位置づけることであり、その客観的世界を離れてわれわれは生きることができないからだ。
 しかし、この世界の開けである「これ」は、それがない世界などおよそ考えられないにもかかわらず、その存在を他者に対して証明することは決してできないということは理解しておかなくてはならない。心せよ。あなたが今この文章を読んで理解したことは、私の伝えたかったことではないし、私の伝えたかったことであってはならない。これはあなたの読解力の問題ではなく、原理的にそうあらざるを得ない問題なのだ。「これ」は私が今現に生きていることの証だと私は主張したいしぜひそうすべきなのに、それが原理的にできないようになっている。これは実に驚くべき事態ではないだろうか? 少なくとも私は、このことに心の底から驚けたなら、生まれてきた甲斐があったことになるとさえ思っている。
 余談だが、ここまでくると次のような問いが生じるだろう。すなわち、「これ」がもし他者に原理的に伝わらないものだとしたら、「これ」はほんとうにあるのだろうか? 

 この問いについて考えると長くなるので省略するとして(しかしこの問いの妙味はしっかり味わってもらいたい)、「これ」の座標のなさに話を戻したい。
 まず前提として、「これ」には座標はないが、私には座標がある。(ここでいう私とは、先に鍵括弧つきで表現した「これ」の人称表現としての「私」ではなく、客観的な一個人としての私である。したがって、この意味で私という語と使うときはあえて鍵括弧を使わない。)この「これ」と私の区別は非常に重要である。「これ」の座標のなさについては上述したとおりだが、他方の私は時間的・空間的な連続体であり、「いついつの時にどこどこの場所で」によって個人を特定することができる。
 さて、この2つのことを区別すると、たちまち奇妙な事態に気づくだろう。時間的・空間的な連続体としての私に、世界の開けとして存在むき出しの「私」がくっついているのである。いや、「私」がそれ自身について自覚する際は、時間的・空間的な連続体としての私を通じるほかない、と言ったほうが正しいかもしれない。ともかく、座標のあるものと座標のないものが分かちがたく結びついているのである。これを例えていえば、2次元平面上の点Aに、点Aとは異なる何かが、しかし外からは絶対に見えない何かがあると言うようなものだ。われわれは皆、そんな不可思議な点Aなのである。
 「これ」には座標がないのだから、時間的・空間的な連続体の私が「これ」を持っていなかったとしても何らおかしいことではない。そもそもそれら2つが結びついていることのほうがおかしな事態なのだ。現に私以外の70億人は、私から見れば「これ」抜きで平穏無事に暮らしてきたし、今も暮らしているし、これからも暮らしていくのだろう。また、私がまったく同じ状態の2人(A、B)に分裂し、片方(たとえばA)が監禁されたとしても、もう片方(B)は何事もなくそれまでの私としての人生を送ることができる。監禁されたAからすれば、「これ」のないBは姿形および立ち振る舞いが私そのものであってもまったくの他人であり、それゆえAとBとの間には別格の比類なさがあるのにもかかわらず、である。

 話が遠回り過ぎてよくわからなくなってきたが、とにかく大拙の「絶対」「無限」「永遠」「無」は私のいう「これ」に等しく、「これ」には今まで述べてきたような側面があると個人的には思っている。したがって、「これ」について当てはまることは「絶対」「無限」「永遠」「無」にも当てはまる。もちろん、以上で「これ」について語り尽くせたとは微塵も思っていないし、私としてはスピリチュアルな側面も欠かせないと思うのだが、残業続きで眠いので今日はもうやめます。尻切れトンボですみません。 

【追記】
 よく禅の公案で「父母未生以前の本来の面目は何か」というようなものがあるが、その答えは「これ」の座標のなさに思いを致せば自ずと明らかだろう。もちろん答えは「これ」である。父母が生まれる以前の本来の面目など文字どおりの意味では存在するはずがなく、したがって答えは時間的座標に関係しない面目、すなわち「これ」しかありえない。もっとも、ひたすら「これ」を繰り返してばかりでは問答にならない(「絶対」「無限」「永遠」「無」ばかりでは伝わらない!)ので、そこは臨機応変にいろいろ表現を変えてみるべきではあろう。 

【追記その2】
 こんなとりとめもない文章を書いていたら、もしかしたらすべてはすでに赦されているのかもしれない、という気がした。私がここにいて、ここにいるという事実それ自体が私には赦しなのかもしれない、と思った。もちろん私の悪いことには底がない。しかし、ここにいるという事実にも底がない。小さいころから、はやく死ななくちゃ、生まれてこなければよかったって何回も何回も思ってきたけれど、私はいま、ここにいる! ざまあみろ! 生きていることは、そんなに悪いことじゃなかったぞ! がはは!