申如録

日常生活で考えたことなど

私が見ている赤は他人が見ている赤と同じ色か?


はじめに

 「私が見ている赤は他人が見ている赤と同じ色か?」という問いは、多くの人が一度は抱いたことがあるのではないでしょうか。少なくとも私は幾度となく疑問に思ってきたし、今でもその誘惑に駆られることがあります。
 今般、友人からこの問いについて興味があるとの相談を受け、この問いをしっかり考える機会を得ました。この記事はその時に私が作成したレジュメを一部改変して投稿したものです。
 結論から先に言いますと、私は「私が見ている赤」と「他人が見ている赤」には「そもそも比較できない」という側面と「まったく同じ」という側面が併存すると考えています。これだけでは単なる矛盾じゃないかと思われるかもしれませんが、われわれ自身がそのような矛盾した存在である以上、ここでも矛盾は避けられないというのが私の意見です。
 さて、私がなぜそのように考えるのか、以下で見ていきましょう。

【考え方その1 なぜそもそも比較できないのか】

 「そもそも比較できない」側面について考えます。

 そもそも「私が見ている赤」とはいったい何を指しているのでしょうか? この定義が不明瞭だと先に進めませんので、まずはこれを明確にしておきたいと思います。
 これについて考えるうえで重要なのは、「世界では私しか目が見えない」という視点と「私とはすなわちこの私であり、この私はいかなるものにも置き換え不可能である」という視点です。
 「世界では私しか目が見えない」と言われるとギョッとするかもしれません。しかし、これはむしろ自明なことだとも言えます。
 赤色に限らず、世の中のすべての物について、実際に見たならそれは必ず私が見たのです。だってそうでしょう、どんな人間であれ、他人の立場になって物を見たことはないはずですから。仮に他人の目から物を見たとしても、それは他人が見たのではなくてあくまで私が他人の目から物を見たのです。つまり、私が他人の立場になって物を見るというのは、「機会はあるがやらない」のではなく、そもそも「そんな機会は原理的にありえない」種類のものです。これは聴覚など他の感覚についても同様に当てはまります。
 「世界では私しか目が見えない」とはそのような事態を指しています。つまり、実際に見たならそれは必ず私が見たのだから、「世界では私しか目が見えない」のでなければならない、ということです。ここでのキモは下線つきの「実際に」です。この画面を実際に見ているというまさにそのことが、世界であなたにしか起こっていない出来事なのですよ。

 次に考えたいのは、「世界では私しか目が見えない」の「私」とはいったい誰か、ということです。先に私は「実際に見たならそれは必ず私が見た」と述べました。しかし、誰であれ、その人にとっては「私」です。「私」はあらゆる人間に当てはまる代名詞ですから、一見すると「実際に見たならそれは必ず私が見た」はあらゆる人間に妥当するように思えてしまいます。
 ですが、ちょっと待ってください。いいですか、「実際に見たならそれは必ず私が見た」の「実際に」は、誰にでも起こってよいものなのでしょうか。
 明らかに違うでしょう。「実際に見たならそれは必ず私が見た」と言えるのは、この実際に」がまさにこの私にしか起こらないからです。この私しか実際に見ることができないから「実際に見たならそれは必ず私が見た」が有意味になるのであって、それがあらゆる人間に当てはまってしまったら、それはもはや言いたいことをまったく表現していない、無意味な文章と化すのではありませんか。
 もし他人が「実際に見たならそれは必ず私が見た」と言っていたら、あなたはそれを全力で否定しなければなりません。だって、「実際に見たならそれは必ず私が見た」と言えるのはあなただけですから。あなた以外にこの発言をすることは決して許されません。
 このように考えると、同じ「私」という単語であっても、自分が使う場合と他人が使う場合とでは内容がまったく異なる、ということがわかります。他人が「私」と言う場合においては、私とはその人にとっての私である、という解釈で差し支えありません。そのような解釈が成立しなければおよそコミュニケーションは不可能でしょう。
 ですが、自分が「私」と言う場合には、むしろそのような解釈こそ不可能です。私とは端的に私なのであって、代名詞のように他人に置き換えられるものではないからです。このことを理解するには、「その人にとって」の「にとって」を適用せずに立ち止まり、その適用を拒否する地点に身を置くことが大切です。
 仮に、自分が「私」と言う場合の「私」が代名詞のように置き換えられるものだとしたらどうなるでしょうか。先に強調した「実際に」は、それが一つしかないことこそが「実際に」の必須条件でしたから、自分についての「私」を代名詞だと見なせば、私は「実際に」を失うことになります。
 しかし、それはかなり困難な想定でしょう。私が「実際に」を失う想定をしたとして、その想定はすでに実際にこの私によって行われてしまっています。生きている以上、「実際に」から逃れることはできません。

 さて、「私が見ている赤」とはいったい何を指しているのか、という問いに戻りましょう。今まで考えてきたことを踏まえると、「私が見ている赤」は次のように言い換えることができます。

 「私が見ている赤」=「他人と置き換え不可能な唯一のこの私だけが実際に見ているこの赤」

 冒頭の答えにおいて「そもそも比較できない」と述べたのは、まさにこの赤を念頭に置いてのことなのでした。

【考え方その2 なぜまったく同じなのか】

 次に「まったく同じ」側面について考えます。

 私が「自分が見ている赤」と「他人が見ている赤」を「まったく同じ」だとする側面はいたってシンプルで、自分が赤と呼ぶ色を現に他人も赤と呼んでいるからです。それ以上でもそれ以下でもありません。
 ここでのキモは、赤が実際にどのように見えているかはまったく関係ない、ということです。先にお話した「実際に」は、そもそも他人との比較を拒絶するものでした。それゆえ、もし「実際に」に固執するなら、自分が赤と呼ぶ色を現に他人も赤と呼んでいるという事実が説明できなくなってしまいます。仮に「実際に」を名付けの基準とするなら、「この色は実際には俺にしか見えていないわけだから、この色を「赤」と呼んでいいのは俺だけだ。貴様らは「あが」とでも言っておけばよいだろう」のようなことになりかねません。
 しかし、そのような状況ではとうてい実生活が成り立たない以上、ここで撤回すべきなのは「実際に」のほうです。厳密にいえば、ここで撤回すべきなのは下線つきの「実際に」と下線つきの「この私」です。
 先に私は、自分が言う場合の「私」について理解するなら、「「その人にとって」の「にとって」を適用せずに立ち止まり、その適用を拒否する地点に身を置くことが大切」だと述べました。この地点こそすなわち唯一の「この私」であり、この私が「実際に」の主体なのでした。
 このことを拒否するとどうなるでしょうか。これはつまり、「にとって」を拒否せず、私も他人と同様に置き換え可能な私としてとらえる地点に身を置く、ということを指します。
 これもまたわれわれにとって自明なことを言っているに過ぎません。だって、「私」を置き換え可能なものとして使わなければ実生活が成り立ちませんから。
 現に、私は【考え方その1】において、「私」という言葉を使って「そもそも比較できないはずの私」についてみなさんに述べました。私は、この私は置き換え不可能だと述べておきながら、それを説明するにあたっては置き換え可能な「私」という言葉をそこに潜り込ませていた、ということになります。それ以外に伝達の方法はないのですから、しょうがないことです。
 したがって、私が私の唯一性について述べようとするとき、それは曲解を免れません。私はほかならぬこの私の唯一性について述べたかったのに、それはあらゆる人間に当てはまるそれぞれの私の唯一性について述べたように解釈されるほかないからです。しかし、この読み替えこそが、われわれの実生活を根底から成り立たせるものなのです。
 ですから、自分が見ている赤と他人が見ている赤はまったく同じものです。そこにこの私実際に見ていることは介在しないので、それで十分なのです。

おわりに

 以上、私は【考え方その1】と【考え方その2】においてそれぞれ結論を出しました。各結論が相矛盾するのは、この私の唯一性がそれぞれの私の唯一性に必然的に読み替えられるような仕組みを現にわれわれが生きていることによる、という理由からでした。
 実は、本当に問題になるのは、この読み替えのプロセスがどのようにして起こるのか、ということです。これは非常に長い時間と膨大な知性をかけて探求すべき問題ですから、また機会があれば少しずつお話することになるかと思います。

 最後に、「私が見ている赤は他人が見ている赤と同じ色か?」という問いは、たとえば「私がいま見ている赤は私がかつて見た赤と同じ色か?」のように亜種を考えることもでき、それはそれで大変興味深い問いではあるのですが、長くなりましたので本日はこれまでとします。お疲れ様でした。