申如録

日常生活で考えたことなど

生まれ変わりの話

 

 私は漫画家・水上悟志さんの大ファンです。彼は数多くの優れた作品を世に送り出し続けていますが、その中でも『惑星のさみだれ』は不朽の名作なので機会があればぜひ読んでみてください。絶対に損はしません。むしろ得まみれです。

 さて、今回の話で取り上げる「生まれ変わり」は、そんな彼の作品のひとつ、『スピリットサークル』から着想を得たものです。私たちは生まれ変わりという言葉を気軽に(?)使っていますが、そもそも生まれ変わるとは何がどうなることなのでしょうか。このことについて、少し考えてみたくなりました。

 

1.生まれ変わりは可能か?

 「生まれ変わり」と言われたら、一般的にはどのようなイメージが湧くのだろう。前世、来世、死後の世界……おそらくこうしたイメージが湧いてくるのではないだろうか。だが、そのような生まれ変わりのイメージは、それについて論証もできなければ、反証もできないという理由で、あくまでも空想の域を出ない、とも言いうる。だとすると、われわれは生まれ変わりなど空想であり真剣に考えるに値しない、とでも言うべきなのだろうか?

 いや、そう簡単には断言できない、というのがここで私が述べたいことである。

 

2.生まれ変わりが起きるとしたらどのようなものか

 そもそも、生まれ変わりが起きるとはいったい何が起きることなのか、われわれは確認しておかねばならない。

 

 ここに銀行マンのAさんがいるとする。ある日、Aさんは疲れからか、不幸にも黒塗りの高級車に追突してしまい、そのまま息絶えてしまう。だが、ふと目を覚ますと見知らぬ部屋にいることに気づく。よくわからない和室のような部屋。聞いたことのない(でもたまに聞き取れる)言語を話す召使いらしき人々。そういえば身につけている服装もまるで違う。私が着ていたのはスーツのはずなのに、今は和服を着ているようだ。そうだ、ついさっき私は車にひかれて……Aさんは庭に出て池のふちにしゃがみ、自分の顔を確認してみる。誰だこいつは。そしてここはいったいどこなんだ? それにしてもこの風景、なんだか国語の資料集で見たことのあるような……もしかして、私は過去に来てしまったのだろうか?

 Aさんは、目覚めると平安貴族のBさんの姿になっていた。

 

 さて、ここで考えてみたいのは、Aさんは生まれ変わったのか、ということだ。読者の中には、Aさんは車にひかれて一度死に、新たに平安貴族のBさんとして生まれ変わったのだ、と主張する人がいるかもしれない。Aさんの魂のようなものが、車にひかれたことでAさんの肉体から抜け出て、時代を超えてBさんの肉体に乗り移ったというわけだ。確かに客観的に見てみると、Aさんは立派に(?)生まれ変わりを果たしたようにも思われる。

 だが、ほんとうにそうなのだろうか? 少なくとも、Aさんとしての記憶を引き継いでいる時点で、Bさんは実はAさんなのではないか? その証拠に、目を覚ましたAさんは自分自身をBさんだとは認識していなかったではないか。Aさんは、Bさんの肉体から物を認識してはいたが、その世界全体に見覚えがなかった。だとしたら、自分が特定の人間であることを決定づけるのは、肉体ではないのかもしれない。――われわれが私を私だと判断する根拠は、「見覚え」すなわち記憶なのだろうか?

 

3.人が自身について誰であるかを判断する要素は何か

 目を覚ましたAさんが戸惑いを感じたのは、目の前に開けているべき世界が実際に開かれている世界と異なっていたからだった。そしてその異なりを生み出した原因に、肉体のほか、記憶というものがあることを先にわれわれは確認した。

 

 一般に、人は行動や感覚の主体としての「わたし」を見失うことはない(ここでの「わたし」はまだ特定の誰かと結びついた「わたし」ではないことに注意されたい)。物が見えたのなら「わたし」が見たのであり、音が聞こえたなら「わたし」が聞いたのだ。これは、見えたり聞いたりすることがすなわち「わたし」なのだ、と言い換えてもよいだろう。だから、物が見えたにもかかわらず「わたし」ではなかった、ということは原理的にありえない。見た結果がどうであったかに関係なく、その「見る」という行為が行われたなら、それは「わたし」が見たのである。

 また、この「わたし」は特定の個人に必ずしも縛られるわけではない。見えたり聞いたりすることが「わたし」なら、どの肉体でそれが起きてもそれが起きたなら常に「わたし」だからだ。たとえば、自分のことを松井秀喜だと思っており、かつ周囲の人間からもそう思われている人間がいるとして(単に松井秀喜のことである)、彼が一瞬見た景色がイチローでなければ見られないような特殊な景色であった場合、今まで松井秀喜だった「わたし」は少なくともその瞬間イチローにあった、つまりイチローだったわけである。

 

 人が自身(「わたし」)を判断する要素は、以上のとおり、むしろ間違えようのないものだ。だが、人が自身について誰であるかを判断する要素、言い換えれば自身が「特定の人間」であることを判断する要素となると、事情はいささか異なってくる。

 単に「わたし」だけを判断するのであれば、先に述べたように実際に物が見えており音が聞こえているこの存在だ、というのが答えになるが、「わたし」が特定の人間であるということは、そこからさらに一歩を進めなければならない。「わたし」はおそらく人間一般に共通する要素であるから、それだけを頼みにしてしまうと全人類が同一人物になってしまう(「わたし」は他の誰とも共通しない、というのが「わたし」の最も大切な条件なのだが、それもまた人間一般に共通してしまう)。

 

4.「わたし」を特定の人間と結びつける要素は何か

 2.においてAさんが自分をBさんではなくAさんだと思えたのは、彼にAさんとしての人生の積み重ねがあったからであり、私(たつのすけ)が自分をたつのすけだと思えるのは、現にこの文章を作っている「わたし」がたつのすけの肉体を通じてそれを行っており、かつこの「わたし」はたつのすけとしての人生を積み重ねてきたからだ。つまり、「わたし」が特定の人間と結びつくには、それが行為や感覚の主体であるという要素とともに、記憶の蓄積という要素が重要な役割を担っている。

 だとしたら、もしある日自分の記憶が他人のそれになってしまったら、どうなるのだろうか。――答えはいたって簡単で、他人になる、より正確に言えば、それまでは他人だった人が自分だと思うようになるのだ。松井秀喜の記憶がある日突然イチローの記憶になってしまったら、少なくとも松井秀喜は自分自身をイチローだとみなすようになるし、私(たつのすけ)の記憶がメルケル首相の記憶になったら、私は自分自身をメルケル首相だとみなすわけである。

 なお、上述の想定では、記憶が違ったものになったことを把握する「メタ記憶」の存在は意図的に除外している。なぜなら、その「メタ記憶」も特定の人間と結びついているはずであり、よってメタ記憶の存在を認めてしまえば、「記憶が他人のそれになってしまう」という想定そのものが成り立たなくなってしまうであろうから。

 

5.記憶と生まれ変わり

 話を生まれ変わりに戻そう。およそ人が「わたし」を特定の人間として把握するためには、肉体が特定の人間のものであるというだけでなく、記憶の蓄積が重要な役割を担っていることを先に見てきた。記憶の蓄積が元のままだったからこそ、2.でのAさんは自身をBさんではなくAさんだと認識したのであった。つまり、記憶が引き継がれているかぎり、少なくとも当人にとっては、たとえ肉体が変わったとしても生まれ変わったことにはならないのだ(AさんがBさんの環境で生きることを受け入れたとしても、以前の記憶があるかぎりそれは変わらない)。

 ここまで述べれば、他人になる、つまり生まれ変わるための条件はもはや明らかだろう。生まれ変わる前の記憶をリセットすればよいのだ。AさんがBさんとして生まれ変わるには、Aさんの記憶はBさんには引き継がれてはならず、Aさんは自身の記憶をリセットし、Bさんの記憶を持った状態で新たに存在する必要がある。このことを簡潔に表現するなら、次のようになる。

 

「Aさんは、元からBさんだったことになった。」

 

6.生まれ変わりは認識できるか

 これでめでたく生まれ変わりについて描写できたが、一つきわめて重要な問題が新たに浮上してしまう。それは、Aさんが「元からBさんだったことになった」ということを、つまり生まれ変わりが起こったことを、誰も認識できないということだ。

 記憶が引き継がれず、またメタ記憶の存在もない以上、本人に生まれ変わりを認識する余地はないし、本人が本人のままであるなら、むろん他人がその人に生まれ変わりが起こったかどうかを判断することもできない。生まれ変わりは可能かもしれないが、それは決して認識できないのだ。

 だが、決して認識できないものをわれわれは現に起こっていることとして肯定できるだろうか? 私は、実はいつかどこかで生涯を送ったXさんが生まれ変わって私となり、かつ元から私だったことになったのだ、などという言明に対し、疑問をさしはさむことなく賛成することができるだろうか? 生まれ変わりは、本当にあるのか?

 

7.結論

 わからない、それが今の私の答えだ。可能性として生まれ変わりがあり得る(次の段落参照)以上、むげに否定することもできないし、それが決して認識できない以上、絶対にあるとも言い切れない。私は1.で生まれ変わりについての身近なイメージを挙げ、「それについて論証もできなければ、反証もできないという理由で、あくまでも空想の域を出ない」と述べたが、それは生まれ変わりの認識不可能性から導かれる当然の帰結だとも言える。ただ、決して認識できないが可能性はあるということからは、生まれ変わりが常に起こっているという帰結も導かれるのではないか。

 

 生まれ変わりが常に起こっているのではないかという恐怖にも似た感覚は、実は私が常に持っているものだ。私は眠りが浅く夢をよく見るのだが、なにか自己の奥深くから湧き上がる他者の声に戦慄することがしばしばあるし(それは女性の声であることが多く、また何らかの視覚的イメージを伴うことが多い)、起きている最中でもこれに似た感覚にとらわれることがある。この感覚があると、何やら自分が自分でなくなるような感じがして恐ろしい。私は先の段落で「可能性として生まれ変わりがあり得る」と無条件に言ってしまったが、それはこの感覚が間違いだとはどうしても言い切れないからだった。

 今回の文章は、実はこの感覚を掘り下げてみたくて『スピリットサークル』をきっかけに書いてみたものである。明確な結論は出なかった(出しようがないことがわかった)が、書いていくうちに少しすっきりとした感覚が得られたのは収穫だったと思う。

 ただ、私という存在がなぜこれなのか、どこから来てどこへ行くのか、という疑問や、私の奥底にありすべてを包み込む大きな流れのようなものの感覚を持ち続けるかぎり、生まれ変わりに恐怖する感覚がなくなることはないのかもしれない。

 

8.付論

 Aさんが死んで魂がBさんの肉体と結びついても、Aさんの記憶を保持し続ける限り、それはAさんのままである、と先に私は述べた。少なくともそれが起きた(ことにAさんが気づいた)直後は間違いなくAさんは自身をAさんだと認識するだろう。――だが、時間が経ったら? Bさんが属していた環境に次第にAさんが適合し、Bさんとして生きることがむしろ自然だと思えるようになったら、そのとき彼あるいは彼女は誰なのか? 周りが自身をBさんだと認識し、かつ自身もBさんとしての生活になじんでいる状況において、Aさんは自分を誰だと思うのだろうか?

 

 このことについては、松浦だるまの『累』という漫画が参考になるかもしれない。人格が肉体を行き来する状況が続くとどうなってゆくのかを描いた名作である。もちろん、この視点以外にも見どころはたくさんあり、読者を大いに楽しませてくれるだろう。