申如録

日常生活で考えたことなど

冬の便り

前略 ご無沙汰しております。

 20代の後半にさしかかり、ようやく物事に動じなくなってきました。いや正確に言えば動じはするのですが、すぐに自身の感覚に立ち戻ることで動じてしまった心をいくらか平静にすることができるようになりました。わたしはもともと落ち込みやすい質で、むしろ定期的に落ち込むことを求めてすらいたのですが、今はたとえショッキングなことがあっても「そうはいっても見える景色はなんにも変わらないじゃないか」「聞こえる音はなんにも変わらないじゃないか」「わたしのやるべきことはそのままじゃないか」とすぐに持ち直すことができます。こう見てみると、過去がわたしを支えてくれるのですね。記憶というものがあってよかったと思います。

 先日、わたしは以下の内容をTwitterに書き込みました。

 しかし、実はこの内容は正確ではありません。確かにコンロの火を消した記憶がないと思い至ったときは非常に心苦しく、仕事先の人にもそのことを話しました。でも一息ついてみたら「家が燃えたってかまやしない、家が燃えるだけであとはなにも変わらないんだから」と思いそのまま仕事を続けようとしたところ、仕事先の人たちに帰るよう説得されてやっと帰途に就いたのです(結果はわたしの杞憂でした)。
 まあこの場合はとりあえず早いうちに帰っておいた方が火事防止につながるという点で合理的なので、わたしの「家が燃えたってかまやしない」は間違いなのかもしれませんが、とにかくわたしは物事と自分とを切り離して生きることができるようになってきました。ひょっとしたらこれが執着から自由になるということなのでしょうか、わたしにはまだわかりません。

 思い返せば惨めな思いをたくさんしてきました。家族、友人、恋愛、仕事……楽しかった思い出もたくさんありますが、惨めな思いは強烈な印象を残すものです。
 ふと、たつのすけ(わたしの名前です)は生まれるべきではなかったのだと思うことがあります。たつのすけはその生まれからしてちょっと複雑だったので、それはある意味で当然のことかもしれません。また、別に出生にまつわることで感傷的にならずとも、たつのすけのことを生まれなくてもよかった存在だと考えることは普通に可能です。しかし、たとえたつのすけが生まれるべきではなかったとしても、わたしは現にこうして生まれたわけだし、生まれてきた以上こうでしかあり得なかった。この「たつのすけ」と「わたし」の差異がわかりますか。たつのすけは生まれるべきではなかったかもしれませんが、わたしはそうではないのです。生まれるべきだとかそうでないとか、あるいは生まれなかったかもしれないとか、そういうことはわたしには全然関係がない。わたしに「べき」や「たられば」は届かない。

 しかし、悲しいかな、「わたし」に関する事実は言葉には乗らないのです。わたしが今語ろうとしているこの事実は、あなたがあなたの事実によって直接にわからなくてはいけません。あなたも、一人の人間としてはいろいろなことがおありでしょうが、あなたはいつだってそのままなのです。このように「わたし」が存在と言葉の間で引き裂かれていることが、苦しみの究極の根源じゃないかと思います。

 ここでちょっと立ち止まって考えてみてください。「わたし」に関する事実が言葉に乗らないのなら、わたしはいったい何を長々としゃべっているのでしょう? 言葉に乗せられないようなことがらを、わたしがどうして文章で伝えられるでしょう? でも、全員とは言いませんが、ここでの話がわかった方もいるはずです。言葉に乗らないことがらについての話が、なぜかわかってしまっている。
 これは、わたしがわたしに関することを言葉にしたとき、もともとはたつのすけのわたしについての話だったのが、いつの間にかわたし一般の話にすでに変換されることによって起こります。これこそが言葉の機能です。言葉には(それが文法などを無視したものでないかぎり)いつの間にか一般的に通じる意味が付いてしまうのです。だから、言葉に乗ることだけがほんとうのことだ、と考えることは妥当です。一面ではそれは真実ですらあります。だって、言葉に乗らないことなんて誰にも伝わらないのですから。言葉に乗らないことなんて、言葉の側からしたら無いのと同じです。

 でも、わたしはそんなことは認めたくありません。言葉に乗らない世界が、言葉の側から見れば「無」の世界が、確かにあるとはっきり断言しておきたい。だってそうしないと、わたしたちが沈黙している間、わたしたちには何もないことになってしまいます。口下手の人には思想がないことになってしまいます。でも黙ってたって口下手だって、わたしたちには確かにこれがあるではありせんか。例を挙げるなら、例えばわたしたちが深い感動を覚えるとき、言葉であれこれ表現するのではなくただぼーっと余韻に浸りたくなるような瞬間がないでしょうか? そういうものには、どうしたって言葉じゃ追いつきやしません。
 そう、追いつかないのです。言葉は事実の前でまごついているのです。言葉は遅いのです。仮にわたしがあなたに恋しているとして、思い切って告白したところでわたしがほんとうに伝えたかった「わたしがあなたに恋している感覚」は原理的に届きようがなく、告白を聞いたあなたがそれを直接にわかるしかない。そしてこれが大切なことなのですが、あなたが直接わかったそれは、わたしがほんとうに伝えたかったものとは違うのです。それも、いいですか、この「違う」というのは、あのりんごとこのぶどうは違うというような、2つ以上のものを並列して比較するような「違う」とはそれこそわけが違います。あなたが直接わかったそれにも、わたしがほんとうに伝えたかったことにも、比較が可能な地平がそもそもないからです。そうした地平がないということが、一方がわたしであり他方が他人であるということです。だから、わたしがわたしであなたがあなたである以上、わたしのほんとうに伝えたかったことはあなたには伝えることができません(それができてしまったらあなたはわたしになってしまいます)。
 わたしたちは普段から縦横無尽に言葉を駆使して相手が難なく直接わかるように(それゆえ伝えたいことの原理的な伝わらなさを覆い隠すように)取り繕っていますが、やはり言葉は一面ではまったくの無力です。だって言葉は伝えたいことを何も届けてはくれず、結局は相手が直接にわかってくれるのをあてにするほかないのですから。そして伝えたいこととわかってもらったことには絶対的な断絶があるのですから。

 わたしはそれが悔しい。うれしいときに「うれしい」と言ったら、わたしのうれしさが全部伝わってほしい。でもうれしいときに「うれしい」と言ったって、それはうれしさのほんの表面しか持っていってくれません。わたしはうれしさの奥底まで持っていってくれることを望んでいるにもかかわらず、です。
 でもそれならうれしいときに「うれしい」という言葉を適切に使えるのはどうしてでしょうね? それどころか、言葉に乗らないとわかっていながらも言葉にせずにはいられないのはどうしてでしょうね? 「うれしい」いう言葉には乗らないあの感覚と、「うれしい」という言葉の間にはどのような連関があるのでしょうね?
 これは言葉だけではなく日常生活における言葉の使い方を見なくてはいけない問題でしょう。少なくとも、机に向かっているだけでは答えは見えてこない。言葉をより深く知るためには、わたしたちは言葉からいったん離れて、わたしたちの生活全体を見る必要があるのだと思います。わたしという存在と言語はマトリョーシカのように互い違いに食い込み合っている。そんな直感があります。

 さて、話が少し逸れてしまいましたが、言葉についてあれこれ考えてみたら以上のように相矛盾することが帰結してしまいました。一方では言葉の完全性を認めておきながら、他方では言葉の無力さを認める。そんなむちゃくちゃなことがあり得るのか、と思われるかもしれませんが、現にあり得ているのです。これはとても不思議なことだと思います。そして、存在と言葉のもたらすこの矛盾こそが、この不思議こそが、わたしたち自身が生きるということであり、同時にわたしたちを苦しめるものでもあるのです。これは言葉を扱う者としての宿命だと思っています。わたしはこの宿命が苦しい。でも、その中には代えがたい喜びもある。自由もある。どうせ生まれてしまったからには酸いも甘いもかみ分けてこの不思議を味わいつくしておきたい、そういう気持ちを強く持っています。

 このような矛盾の中でわたしたちにできることは、言葉の完全性も不完全性もすべてひっくるめて受け入れて、言葉を使う際には適切さを心がけ、言葉のせいで要らぬ妄念が生じてしまったなら言葉の外に出て落ち着く、これに尽きるんじゃないかと思います。言葉の中で四苦八苦するのも、言葉をまったく放棄してしまうのも、わたしにはどうもピンと来ません。言葉を使いながらも丸裸になって、自分にできることや自分がやるべきことにその都度立ち返っていくこと。そこから先はもう縁としか言いようがない、そう認識できる境地にまで自らを持っていくことは、ぜひとも必要なことだと思います。
 そして、わたしがわたしでわかるしかなく、あなたがあなたでわかるしかないというその底に、何かわたしたちをつなぐものがあるような気がしています。

 長々と失礼しました。まだ冬は長いですから、暖かくしてお過ごしください。

草々

2021年1月17日

たつのすけ

読者様

薫習

  よく晴れた冬の夜のこと、下り方面の電車内にカップルとおぼしき男女2人が並んで座っていた。互いに何もしゃべらず、かといってスマホを見るわけでもない。心なしか張りつめた空気をまといながら、2人はじっと前を見つめている。
 電車があまり人気のない駅に着こうとしたとき、女は男に光るものを差し出した。
 それは銀色の大きな髪飾りだった。雰囲気から察するに、女はそれを何らかの区切りとして差し出したのだと思われる。男はそれに込められた意味を知ってか知らずか、無造作にそれを受け取りジャンパーの右ポケットに入れた。

 男と女は無言のまま電車を降りて改札を出、線路に沿ってゆっくり歩き出した。
 道中、女は男がいかに鈍感かをぽつぽつと語り始めた。そのうちに女の感情は高まっていき、数分もすると女の口調や態度には怒りがあらわになってきた。だが同時に、結局は自分の真意がこの男にはわかってもらえないだろうという、どこか覚めた顔つきもしていた。
 男は女の言うことを至極もっともだというふうに聞いていたが、おそらく女が直感していたとおり、女が本当に伝えたかったことは男には伝わっていなかったと見える。男と女は隣駅まで歩くと、そのまま改札をくぐって再び電車に乗り込んだ。

 電車内では相変わらず黙って座っていた。電車は10分もたたないうちに男の最寄り駅に到着し、男は女のほうを向いて「じゃ」と言った。
 男は立ち上がる瞬間、ジャンパーの右ポケットから髪飾りを取り出し、女の右側頭部にそっと取り付けた。男は無言でドアを見つめ、女は顔を男に向けている。男は女の顔をちらと見、続いて髪飾りに視線を移した。女は髪飾りのある右側の髪をかき上げ、そちらの口角をぐっと持ち上げた。深紅の唇が船の舳先のように曲がった、愛と憎しみとが入り混じった表情をしていた。女はもう、男のほうを見ることはなかった。

 電車を降りてから家に着くまでの間、男は誰かの視線を気にするかのように何度も後ろを振り返った。頭上の月がいやに黄色かった。
 男が家に帰り着替えをしていると、いつもとは違う香りがすることに気づいた。ハッとして右手を嗅いでみると女の匂いが強く残っていた。男は手に染みついた匂いを深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

性欲の話

 人間の三大欲求と呼ばれるものには食欲・性欲・睡眠欲があるが、なぜ性欲だけは隠されなければならないのだろう。電車の中でおにぎりを食べても爆睡しても問題ないのに、なぜセックスをしたらただちに捕まってしまうのだろう。

 このことについて知り合いに尋ねてみたところ、「食欲と睡眠欲は個人で完結するから問題ないが、性欲は他人も巻き込んでしまうから許されない」との回答があった。
 しかしこれは明らかに的外れである。もしこの回答が正しければ、電車の中で自慰をする分には何も問題ないことになってしまうだろう(知り合いの名誉のために一応言っておくが、彼は自慰であれば電車内でしてもよいと主張したかったわけではない)。

 いきなり答えを言ってしまえば、この「なぜ」に対する答えはそもそもない。どのような回答が用意されたとしても、それに対してさらに「なぜ」と問うたり、反証を提示したりすることはどこまでも可能だからだ。
 したがって、われわれが性欲を公にしてはならないことについては、明確な根拠づけというものが原理的にありえない。われわれは性欲を公にすることを確固たる根拠なしに「とりあえず」控えているのである(たとえその程度が厳格であっても、それは「とりあえず厳格に」控えているだけでしかない)。
 だから、なぜ性欲を公にしてはいけないのかと尋ねられたら、そんなことをしてはいけないからだとトートロジーをもって答えるしかない。性欲があることはなぜかすでに「致し方ないこと」とされており、それゆえ不特定多数の目からは隠されなければならないのだ。

 この「なぜ」に対する解決策があるとすれば、それは次のようなものだろう。すなわち、性欲を公にしてはいけないというルールに身も心も徹頭徹尾ひたし、この「なぜ」という問いそのものをきれいさっぱり忘れ去ってしまうことだ。
 実際、この忘却はいたるところで起こっている。というより、この忘却なしに社会はありえない。禁止の理由を問うことを忘れ去ったとき、人は社会的になることができる。
 性欲を公にすることはもちろん禁物だが、性欲の許されなさについて問うたり性欲を擁護したりすることすら基本的に歓迎されないのは、かつて忘却があったことをその行為が思い出させるからである。理由はよくわからなくともみんなが「とりあえず」それをしないようにすることで世界は円滑に回っているのであり、にもかかわらずその問いの存在を思い起こさせようとするのは藪蛇以外の何物でもない。

 とはいえ、われわれはその忘却に抗って、食欲や睡眠欲が公の場でも許されるのなら性欲だって許されてもよいのではないか、とか、お互いの同意さえあれば公の場でセックスしても問題ないのではないか、と問うてみることは可能である。性欲が食欲や睡眠欲と同様に単なる一事実にすぎないことを根拠に、性欲だけを特別扱いしてはならないと主張することは、むしろ筋が通っているようにさえ見える。

 ところがそのような試みにはあまり意味がない。筋が通った議論をしたからといってそれが納得に結びつくとは限らないからだ。

 われわれの多くは、頭ではそうした議論の合理性を認めたとしても、身体(気分)はその議論についていくことができない。たとえ性欲の許されなさの無根拠性を理解したとしても、公衆の面前でセックスすることは身体が拒否し続けてしまう。
 したがって、性欲を公にさせるために筋が通った議論をしても、身体が納得しない限りは「そうは言っても……なんだかなあ…」以上の反応は見込めない。頭だけでなく身体をも納得させるには筋が通った議論だけでは必ずしも十分ではなく、われわれの存在全体からすれば合理的な議論は合理的ではない場合がありうるのだ。

 もちろん、頭と身体は没交渉なものではないから、頭が身体を説得したり身体が頭を説得したりすることは可能である。しかし、身体の納得はそう簡単に得られるものではない。とりわけこうした善悪にかかわることではそうである。
 性欲について言うなら、性欲を公にしてはならないという根拠なきルールに基づいて世界が現にうまく回っている以上、身体にとってはそれに反するようなことを(たとえそれが合理的であっても)あえてする意味がわからないのだ。そしてその意味のわからなさは、嫌悪感や反射的な拒否反応として現れてくる。
 性欲が公になるためには、現行のルールが日常生活(基準は身体!)にそぐわなくなり、ルールの内容に対して一定規模の集団が耐えられなくなるのを待つしかない。だが、そこまでになるにはおそらく長い時間がかかるだろう。

 こうしたルールの根拠のなさにおそらく違和感を抱き、また作品の着想を得たのは藤子・F・不二雄である。
 彼は短編「気楽に殺ろうよ」の中で、われわれの世界と瓜二つにもかかわらず性欲と殺人が許容され、逆に食欲が許されない世界を描いている。この世界ではいわゆる「エロ」や「人殺し」が公然と行われる一方で、食事はまるで悪事をはたらいているかのようにまったくの秘密裏に行われる。
 主人公はわれわれと同じ世界からその世界に移行してしまった人間である。当然彼はその世界の「常識(倫理)」についていけず、医師によるカウンセリングを何度も受けるが、そこで自身の感じるおかしさを説明できず、また医師から受ける説明に納得もできず、もどかしい思いを何度もする。カウンセリングを担当した医師は主人公に向かって次のように説明する。

 【性欲について】
食欲、性欲……ともに最も根源的な欲望ですな。どちらが欠けても地球人は滅亡する。ところで、このふたつのうちどっちが恥ずかしがらねばならんとすれば、はたしてどちらですかな。食欲とは何か!? 個体を維持するためのものである! 個人的、閉鎖的、独善的欲望といえますな。性欲とは!? 種族の存続を目的とする欲望である。公共的、社会的、発展的性格を有しておるわけです。

 【殺人について】
地球の容量から考えれば、現在の社会は成長期を過ぎたとみなければなりません。これ以上ふくれあがることは許されない。あとは、個々の細胞の代謝だけです。出生率は年々増加するのに自然死は減る一方! と、なれば無理のない形で間引きを考える必要も……

 どちらも一応は筋の通った主張である。医師の土俵に立つ限り、特に性欲についての主張には反論の余地があまり残されていないように思われる。
 この筋の通った主張を受け、主人公は医師に反論できなくなってしまうが、かといって納得することもできない。主人公に残された道は、もともとの「常識(倫理)」を墨守するか、新たな世界の「常識(倫理)」に飛び込むかのどちらかである。いずれにせよそこには根拠つきの納得などなく、ひたすら実践があるだけだ。
 藤子・F・不二雄の「気楽に殺ろうよ」は、

  • どのような倫理にも合理性を持たせることが可能なこと(したがって倫理にとって合理的な説明ができることには特段の価値がないこと)
  • 倫理は実践するほかないこと

この2つを明らかにしてみせた、とても優れた作品である。

 この記事では主に性欲にフォーカスを当ててきたが、以上の性欲についての議論は「悪い」とされていること全般に当てはまる。「悪い」の最たる殺人であっても、そのしてはいけなさを合理的に説明することは不可能に近い。現に刑法の殺人罪に関する条文を見てみても、そこには殺人を犯した場合の処置が書かれているだけで、殺人してはいけない理由はどこにも書かれていないのだ。

 第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

  何が「悪い」かということについて、われわれは最終的には根拠抜きで従うしかない。倫理はわれわれの生活に不可欠である一方、このように有無を言わせない暴力的な側面も孕んでいるのである。
 ただし、倫理には根拠抜きで従わなければならないとはいえ、その暴力性は忘却されてはならない。もしそれが忘れ去られてしまえば、「正しさ」はいずれ人に牙をむくことになるだろう。
 そうならないためにも、倫理が成立するために必要な「問いの忘却」に抗う人間は一定数必要だ。たとえ「倫理的」な人間から忌み嫌われようと、問いを立てることができる限りは問いを立てることをやめてはならない。

  最後に、「気楽に殺ろうよ」の1コマを引用する。われわれの倫理が根拠抜きの実践の上に成立していることを忘れないための忘備録として。

「では、うかがおう! なぜ生命は尊重しなくちゃならんのです?」
「わかりきったことだ!!」
「それじゃ答えにならない。論理的に説明してください! さあ! さあ、さあ、さあ!」
「それは……」

 ここでは問いに答えられなくてよいのだ。だが、問いに答えられないことは忘れてはならない。

霧の話

 先日の朝、家を出たら霧がすごかった。視界がぼうっと白く霞み、高層マンションの10階から上はまったく見えなかった。街中の音も心なしか静かで、とても穏やかな朝だった。
 私は、このまま霧がどんどん濃くなって、一寸先も見えないほど真っ白になって、そのうち意識も白く霞んでいって、そうやって死ねたらいいなと思った。ふと次の歌を思い出した。

ほのぼのと あかしの浦の 朝霧に 島隠れゆく 舟をしぞ思ふ
古今和歌集 詠み人知らず)


 私は霧が好きだ。どの時間帯でも、どんな場所でも、霧は綺麗で神秘的でどきどきする。
 今まで遭遇した中で一番の霧は、中国四川省峨眉山を登っていたときの霧だ。峨眉山は中国でも1,2を争う霊山で、世界遺産にも認定されている。霧が出てきたときは仙人が出てくるんじゃないかと本気で思った。

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峨眉山

 ただ、峨眉山の頂上(約3,100m)からはその霧に邪魔されて何も見えず、38度の熱を出しながらどうにか登りきった先に待っていたのは一面の白であった。ふと次の歌を思い出した。

廻頭下望人寰處(振り向いて人間の世界を見下ろしてみても)
不見長安見塵霧(長安は見えず、ただ塵と霧が見えるばかり)
白居易長恨歌」より)

 とはいえ、山頂からの景色が見えないということは、山麓から私のことが見えないということでもある。霊山の山頂で霧に遮断され、俗世が見えなくなるというのはかえって良い経験だったのかもしれない。

借問游方士(ちょっとお尋ねしますが、俗世に生きる人は)
焉測塵囂外(どのようにしたら俗世の外のことがわかるのでしょうね。)
(陶潜「桃花源記」より)

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峨眉山頂からの景色

瓶の話

 駅の待合室に、かばんに瓶を忍ばせた男がいた。男がかばんをごそごそと探るたびにキン、と高い音が鳴り、私の意識はかばんに吸い寄せられた。

 中村文則の『遮光』という小説にも似たような男が出てくる。その男は黒いビニールで包んだ瓶を人目を避けるようにして常に手元に置いている。
 瓶の中身は当然外から見ることができないから、その男以外は瓶の中にそもそも物が入っているかどうかすらわからない。私はこの瓶が初めて『遮光』に登場してきたとき、哲学的な感度がはたらいて非常に興奮したのを覚えている。

 われわれの存在は、この黒い瓶のようなものではないか。われわれはいつもこの瓶を持ち歩いているのではないか。

 この瓶を私がどう解釈したかについては、さしあたり「心」という概念が理解の助けになるだろう。黒い瓶の中身を外からのぞき込むことができないのと同様、人は誰しも他人の心をのぞき込むことはできない。黒い瓶を心の比喩だとするなら、確かにわれわれは瓶すなわち心を常に持ち歩いていると言える。

 しかし、私はそこからもう一歩先に進み、黒い瓶を「私」の存在の象徴としてとらえたい。
 ここでいう「私」とはそもそも名詞でとらえることが不可能であるような、世界の唯一の開けとしてのはたらきのことであって、個々人が自分自身を指して言う「私」とは似て非なるものなので注意してほしい。世界の開けとしての「私」は、個々人にとっての「私」に還元されることをどこまでも拒否する。だから瓶は必ず黒色をしていて外から見られることを拒否するのでなければならない。それが外から見られてしまったなら、それはもはや世界の開けではないからだ。
 瓶の中身が私以外から見えないというのは、世界の開けとしての「私」が個々人にとっての「私」に還元されないことの象徴である。私以外の人間にとって私とは、個々人が持つ瓶のうちの一つにすぎないと同時に、個々人からは決してうかがい知ることのできない解決不可能な謎であるはずだ。

 「私」を瓶に即して考えるにあたっては、瓶の向きにも留意しなければならない。
 私以外の人たちが持っている瓶は、瓶の外側が外側で、内側が内側の、何の変哲もない瓶である。黒いビニールで包まれている以上、瓶の中身を知ることは決してできないが、少なくとも瓶の外側が外側であり、瓶の内側が内側であることはわかる。
 しかし、私の持っている瓶だけはそうではない。私の瓶は裏返っていて、瓶の外側が瓶の内側なのだ。私の瓶には外側などなく、どこまでいってもひたすら瓶の内側である。すべての出来事はこの瓶の中で起こる出来事にすぎないのだ。
 ところが、私の瓶の裏返りについては誰も認識することができないし、私も私以外の人たちの瓶の裏返りを認識することができない。これは私以外の人たちの瓶が私の裏返った瓶の内側の出来事だから当然の事態ではあるのだが、それでも私以外の人たちの瓶を見ると、その内側には私の決して届かない世界があるのだと思ってしまう。世界はまことに不思議な構造をしている。

 駅の待合室にいた男が持っていたのはジャックダニエルの瓶だった。中の液体が一瞬だけ陽の光に照らされて、淡い茶色の光が目に反射した。

火事の話

 先日の朝、駅に向かって歩いていたら近所の民家が燃えていた。すでに消防車が何台も駆けつけており炎は見えなかったものの、真っ黒に焼け焦げた民家ともうもうと立ち昇る煙がその家の終わりを表していた。
 家が燃えるというのは考えてみれば大変な事態だ。生活品や愛着を感じていたモノはほとんど燃えてしまうわけだし、何より帰る場所がなくなる。その民家の住民が生きているかはわからないが、生きているのならばどうか強く生きてほしいと思う。

 だが、たとえすべてが燃えてしまっても、その人は何も失っていないとも言える。正確に言えば、ほかの何を失っても残るものが、ただ一つ、文字どおりただ一つだけ存在する。
 それは私の存在だ。私という世界の開けそのものだ。

 もちろん、ほかの何を失っても残るものがあるからといって、家を失った際にその人が傷つかないわけではない。私だってそのような状況になれば悲嘆に暮れるだろう。
 しかし、悲嘆のさなかであっても、失うものと残るものについてひとたび考えてしまったなら、私とはそもそも失うことのできない存在なのだと結論せざるを得ない。私は確かにたくさんのものを失った、だがこの私にはそもそも何かを所有するということがないのだから失ったものも何もない、と。
 前者の「私」は世界の中の一存在であり何かを失うことがあり得るが、後者の「私」は世界の開けそのものであり何かを失うことがあり得ないのだ。後者の「私」が失うとしたらそれは「私」自身であるが、「私」を失うということがどういうことなのか、私にはまったくわからない。

 2019年の2月ごろ、私の実家は諸事情によりなくなってしまった。なくなったというよりは「解散した」の方が正しいだろうか、メンバーは全員生きているのだがそれぞれ別々に暮らすことになった。
 実家最後の日、荷物の運び出しを終えてがらんとした家を見ていると何とも切ない思いがし、祖母との会話では思わず泣いてしまったりしたのだが、そのさなかでも頭のどこかでは実家にまつわるすべてのことが私には何のかかわりもないことなのだということがわかっていた。

 世界の一存在である「私」には実家は大いに関係があっても、世界の開けである「私」にはまるで関係がない。両者はともに真である。両者はマトリョーシカのように私の思考と体験に交互に食い込んでいる。

 火事があった日の駅前はいつもより静かで、すべてを失った人と平穏な人が同時刻にいるというのは何とも不思議に思えた。

眠られない夜のたわごと

 私は軽率な人間だ。

 思っていることはすぐ顔に出るし、言わなくてもいいことまで言ってしまったりする。良く言えば素直だが悪く言えば無粋であり、周りに迷惑をかけてしまうこともあるからやめたいのだが、いまだに気を抜くとこの癖が出てしまう。

 思えば、そもそも私は身体の基本的な使い方を学んだ記憶はなく、気づいたらいつの間にか使えていた。「右手を挙げろ」と言われれば右手を挙げられるが、「ではどうやって右手をそのように挙げたのか」と言われてもうまく説明できない。神経だの筋肉だのは私が現に右手を挙げるときにはあずかり知らぬこと、挙がった右手という結果だけがある。

 思っていることを表情や声に出してしまうのもそんな感じでいつの間にかやってしまっているわけで、私からしたらそういう身体の自動操縦で助かっている面もあるのだけど、すべてがありがたいわけではない。

 

 街中で手に持っているKindleをいきなり地面に叩きつけ、割れた画面をできる限り激しく靴の踵で踏みつけたら、周りの人は私のことを怒り狂った人だと思うだろう。だが、どうしてそんな風に思われなければいけないのか。私はちっとも怒ってなんかいないかもしれないではないか。
 日中、読んでいた本にハンダゴテが出てきて、私は熱されたハンダゴテを自分の人差し指の爪に押し付ける想像をしてしまいとても恐ろしくなった。でも表情や仕草には出していなかったはずだから、周りの人は私のことをただ本を読んでいる人だと見なしただろう。だが、どうしてそんな風に思われなければいけないのか。私は実際とても怖がっていたのだ。

 どうしてこのような齟齬が生じるのか。それはきっと、私というものがこの世界に存在しないからだろう。少なくとも私以外の全人類は私の存在を認めないだろう。それは個体としての私ではなく、それが世界のすべてでありそこから世界が開けているような私である。そうした私は、私にしかありえない。
 私は気づいたら生きていたわけだが、私が生まれてきたのは両親の責任ではない。私は両親のセックスで生みだされたわけでは、断じて、ない。

 私は、私以外の私が世界に存在するとは思えない(どのようにして思えばよいのだろう?)。意志疎通できるものが世界のすべてであり、かつ私は意思疎通の対象ではない。だから私を含めた全人類が持ちうる私と私だけが持っている私とでは意味が全然違うのであって、前者については当たり前のように存在しているが、後者については存在すると言っても無意味だから存在しない。私だけが、生身で、端的に、知っている。でも、何も知らない。

 先の段落では「私以外の私が世界に存在するとは思えない」と言ったが、果たしてそうか? むしろ、私が個体としての私(=全人類が持ちうる私)とは無関係である以上、私は私であると同時に彼でもあるのではないか? 今朝目覚めたときの私は、昨日の私と同じだろうか? ――判別のしようはないが、この徹底的に隔絶した私の底には何か他の存在とのつながりがあるような気がする。

 祈りという行為はこの私の世界に存在しなさと何か他の存在とのつながりの感覚を前提としている。だから、祈りは届かない。祈りはその意味で私そのもの、無、世界に存在しないもの。祈りが世界に影響を及ぼしているように思われるなら、それはもはや祈りではなく行為の次元に移っている。私の例でいえば、私だけが持っている私の次元から私を含めた全人類が持ちうる私の次元に移ってしまっている。

 祈りは私的である。だが、その無の底には何かがある。

 

 世界がバランスで満ちているのは、そもそも世界が無だからだろう。無は均衡を取りたがる。

 

 私は生きていたくない、今すぐ死んでしまって、私の死を悲しむ人たちの姿が見たい。あるいは不治の病に冒されて、死ぬまでの間を見守られたい。このように考えることがある。
 私がこういうことを考えるのは私が死ぬことで悲しむ人がいると知っているからだし、特別扱いされると気持ちいいからだ。これは卑怯なことだろうか。

 

 しんどいときは心がまるごと鉄板に包まれたようになって、何を見ても何を聴いてもその鉄板に弾かれてしまって、私の生きた部分はその鉄板の下で血と死を求める。この鉄板があるかぎり私と他者との差は埋まりようもなく、またそれがある意味では自然な気がするのだけど、でもこの状態では生きていたいという気もあまりしなくて、この鉄板がいつの間にかなくなるような飛躍は時間や睡眠でしか得られないし、それは飛躍したあとで初めて実感できるものだから、世界は不思議だなと思う。

 

見るがいい、この『瞬間』を! この瞬間の門から、ひとつの長い永遠の道がうしろの方へはるばるとつづいている。われわれの背後にはひとつの永遠がある。

およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか? およそ起こりうるすべてのことは、すでに一度起こり、行なわれ、この道を走ったことがあるのではなかろうか?

そして一切の事物は固く連結されているので、そのためこの瞬間はこれからくるはずのすべてのものをひきつれているのではなかろうか?

あなたがたはかつて一つのよろこびに対して『然り』と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても『然り』と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛し合っているのだ、――

(上記はすべて氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った 下』(岩波文庫、1970年)より引用)

  ニーチェは永遠とかすべてとか一切とか万物とか言っているが、それはつまるところ今この『瞬間』しかない。この『瞬間』はもしかしたらもう150回目なのかもしれないし、これからまた150回繰り返すのかもしれない。でもそんなことはわからないし、この『瞬間』をどうにかするしかない。

 このニーチェの考えは先に私が祈りについて言及したときと同じ視点に立っているだろう。

 Wikipediaで「永劫回帰」の項を見てみたら、これに対する批判として「蓄積している知識や歴史が、近代化という不可逆な方向性を持っているのは社会科学的な事実であり、永劫回帰の思想は人類史的なスタンスから見れば誤りである。歴史は繰り返しているようで、弁証法的に発展しているのである。」というのがあった。おめでたくも的外れ。
 永劫回帰は私の存在の無さからくる一種の体験を記述したものであり、知識ではない。ものごとの内容、記録、記憶とも関係がない。だから、何回でもそれは繰り返しうる。例え無限に等しい回数を繰り返したとしても、その繰り返しには原理的に誰も気づけないのだから。

 

 頭が痛い。

 

 友人から23時ごろ電話が来て、これはきっと飲みに行こうって誘いだけど、時間も遅いし調子も良くないし居留守を使うことにした。その後「寝たんか」っていうメッセージが1通、ううん寝てないごめん。でも今日は何もうまくいかない。寝るしかないのはわかっているけれど、明かりを消すのが億劫で、パソコンを開いて文章を打ち込んでいたら朝の4時になってしまった。