申如録

日常生活で考えたことなど

世界の手に負えなさの話

 この世界は手に負えない。それは世界が広いからとか人口が多いからとかいう理由ではなくて、たとえ世界が2m2の広さしかなくて自分ともう一人しか存在しなかったとしても、この手に負えなさは変わらない。もっといえば、たとえ世界に自分一人しか存在しなかったとしても、自分が自分と世界を別個のものとして認識するかぎり、この手に負えなさは変わらないのだ。逆に言えば、自分が自分と世界を別個のものとして認識しなければこの手に負えなさはなくなるのだが、われわれの思考は通常そのようになっていない。
 私のこの主張には違和感を覚える人もいるだろう。例えば地球の自転を止めることはできなくても目の前のペンを持ち上げることは何の苦もなくできることであり、それゆえこの世界は究極的には手に負えないかもしれないがある程度のことは手に負えるのではないか、と。
 この主張は「この世界」を「客観的世界」に読み替えて解釈するかぎり基本的に正しい。客観的世界の一個物であるわれわれにとって、客観的世界には手に負えることと手に負えないことがあるということをわれわれは経験的に知っているからだ。

 しかし、私の言う「この世界」とはそのような客観的世界のことではない。それは徹頭徹尾主観的とも言えるような世界であり、どこまでいっても「私」の世界である。どんな色も、どんな感覚も、どんな知識も、すべては「私」の世界で起こる出来事に過ぎず、「私」が死んでしまえばすべてはなかったことになる。もちろんこの「私」の世界にも客観的世界はあるが、それを包括するように「私」の世界があり、すべてはこれに裏打ちされている。世界には、「私」が生きようが死のうが存続し続ける客観的側面がある一方で、「私」が生きているかぎりにおいて存続できる主観的側面もある。私はいま後者を問題にしているのである。(厳密には後者には2つの側面があり、1つは客観的世界の一個物としての私という意識主体があれば必ず付随して存在するような主観的側面で、もう1つは客観的世界の一個物としての私になぜか「私」が付随しているという主観的側面である。私は後者を「この世界」として取り出している。なお、このような3つもの相矛盾した諸側面がなぜ1つの「世界」という言葉でまとめられるのかという問いは最大級の哲学的問題だと思うが、あまりにも難しいのでここでは扱わない。)
 もっとも、私はこれを「主観的世界」という言葉で表現するつもりはない。私が表現したいのは「主観的世界」という言葉で表現できる間主観的(=客観的!)なことではなく、この私(たつのすけ)だけに該当する世界の事実についてだからだ。私以外の誰かが「すべては「私」の世界で起こる出来事に過ぎない」と言ったとしても、それは私から見れば世界の客観的な事実を述べているに過ぎない。そしてそれが客観的な事実である以上、それはすべての人に当てはまることだから、私はそれを言われたところで「あなたにとってはそうですよね」とでも返答するしかない。「この世界」はその「○○にとって」を絶対に拒否したものでなければならず、「すべては「私」の世界で起こる出来事に過ぎない」というセリフは私が「私」の世界について述べたものでなければ意味がないのである。この断絶性こそが「この世界」を構成し、また「私」を構成している。

 さて、そのような意味での「この世界」は、私の手に負えない。手に負えるものなど1つもない。なぜなら、「この世界」があるという事実(「私」の世界が現にいまここにあるということ)がそもそも私の手に負えないことであり、それゆえ「この世界」内で起きる出来事は結局すべて手に負えないからだ。目の前のペンを持つという極めて単純な動作すらも、目の前のペンを持つということがどうしてそのようなものであるのか、と問われたなら答えに窮してしまうだろう(この問いの意味が理解できない人は自分を客観的世界に位置付けるのをやめてください)。

 話は少し逸れるが、この記事における「この世界」がたつのすけの世界でしかないなら、私がそれについて(他人に)語ることに何の意味があるのか、という問いは至極真っ当である。(ただし、この問いは私にとって有意味であっても質問者にとって有意味だとは限らない。質問者は何について問うているのか自分でもわかっていないはずだから。)確かに「私」の世界でしかないからこそ「この世界」なのであって、それゆえ私の伝えたいことはどうやっても他人に伝えることはできない。もし何かが伝わってしまったならそれはもはや「この世界」のことではなく、すでに誰かにとっての「この世界」に変換されている。「○○にとって」を拒否することこそが「この世界」の本質であったはずなのに。
 この問いに対する答えは簡単で、私がこの記事を書いたのは、たとえそれが「○○にとって」に変換されざるを得ないとしても、私の発見に共感してほしいからである。その無への共感とでも呼ぶべきものを、私は必要としている。

 私にできることは、この世界の手に負えなさを受け入れて、自分のなすべきことを淡々とこなしていくことだけである。この記事を書いたのはそれが私のなすべきことだったからだ。それに、この世界の手に負えなさを身に染みて実感したとき、かえって自身の自由に気づけるような気もしている。それは束縛の対比項としての自由ではなく、なすべきことが決まっているという、ただの自由。私は世界の手に負えなさについて書くことで、一歩を進めようとしたのだろう。
 「私」はなぜか客観的世界の外側にいる。客観的世界とは別に、私だけになぜか「この世界」「私」がある。これについてはその内容はもちろん存在すら誰にも伝えられず、それゆえこれがなくとも客観的世界には何ら影響がない。「この世界」「私」には(それ抜きで生きることが私には想像すらできないにもかかわらず)客観的に見て意味がないのだ。
 神が世界を作ったとして、客観的世界からはみ出た「この世界」「私」など作る必要がそもそもないわけだが(というか神が「この世界」「私」を神自身以外の存在に付与するということは、神だって実行どころか理解すらできないだろう)、それでも現に「この世界」「私」がある以上、「この世界」「私」の存在は神の想定外の出来事である。ライプニッツのいうとおり、「神は秩序からはずれることをいっさいおこなわない」(『形而上学序説』)。しかし、私の一番近いところには、神すらも届かないものがある。この妙味を味わい尽くさないではおけない。そのためには、無の共感が必要だ。洗練された人や物の中には、その無の響きがある。

【余談】
 コロナは社会を一変させ、それに呼応するように気の流れがおかしくなっている。今までは陰陽の流れとか割合がなんとなくわかったのが、今ではこんがらがったヒモのようによくわからなくなっている。ただ、「この世界」がこのようにあることは私の手に負えないことなので、何とか順応していくしかない。
 この気の流れ(乱れ)は、もしかしたら今後はスタンダードになるのかもしれない。2000年以降に生まれた子どもたちが物心のつく前から電子機器やインターネットの中で育ってきた「デジタルネイティブ」なのと同じように、2020年以降に生まれた子どもたちは物心のつく前からこの気の流れの中で育ってきた「新しい気の流れネイティブ」になるのかもしれない。だとしたら、われわれ20世紀生まれの人間がデジタルネイティブ世代に差を感じるのと同じように、デジタルネイティブ世代は新しい気の流れネイティブ世代に差を感じるようになるのかもしれない。たった20年での世代転換、あまりにスピードが速すぎてむしろわくわくするような事態である。
 いずれにせよ、われわれ20世紀生まれにとってなすべきことが増えたことには変わりがなく、加えて今やそのギャップがとてつもないことになっているので、今後はさらに心しておかねばならない。われわれの身体は歴史的身体であり現在の状況とはどうしてもギャップ(タイムラグ)が生じてしまうため、そのギャップには常に対応していかなければならない。「この世界」がそのようにできているのだから仕方のないことではあるけれど、ちょっとシビれる事態ではある。