申如録

日常生活で考えたことなど

新型コロナウイルスについて思うこと その2

 新型コロナウイルス(以下「コロナ」)について、その1では「感染の意味の変容」と「道徳性の変容」について述べた(ような気がする)。今回は、コロナが壊したものについて述べていきたいと思う。私はいま東京に住んでいるから、東京での暮らしを主に念頭に置いて書き進めていく。

 コロナは感染拡大以降、われわれの生活様式を大きく変えてきた。通勤通学、外食、コンサート、スポーツ等が「不要不急」なものとして退けられ、生活には必要最低限のものが残された。コロナに対するわれわれの行動はあくまで自粛という一種の雰囲気によって行われたものであり、したがって完璧に厳密に要不要の選別が行われたわけではないにしろ、大まかに言えば緊急事態宣言下でも残ったものは生きるためのものであり、残らなかったものは生きるためには二の次のものであった。
 私はコロナによるそうした変革を一種の「洗濯」だと考えている。われわれの生きる社会における停滞した部分にガツンと一撃を加えて白紙に戻し、そこから新たに暮しを作り上げていくための洗濯。歴史書をひもとけばこうした洗濯の例はいとまがなく、またわれわれは文字どおり歴史に名を残す巨大な洗濯のさなかにいるのである。
 今まであったものの中でコロナが壊したものはたくさんあるだろうが、その中でも私は時間というものに注目している。時間は確かに今でも流れていて(私がこれを書いているのは「現在」だが読者はそれを「過去」と見なすだろう)、それは疑いえないのだが、他方でめちゃくちゃに壊れてしまった時間も確かにある。この時間が壊れるというビッグイベントだけでも十分興味深いし、それでもなお流れ続ける時間という一見矛盾した存在およびこれら二つの時間の関係性もまた興味深い。
 以下に述べる私の意見はいくつかの書籍を参考にしているが、それについては最後に列挙しておく。(この記事を書くにあたって直接参考にしたわけではないけれども、私の考えの形成に大きく寄与した書物であり内容の重複もあると思われるのでそうすることにした。)

・コロナで壊れた「時間」

 先に答えを言ってしまえば、コロナで壊れた時間とは「スケジュール的時間」のことである。音楽関係の仕事をしている友人の話によると、向こう2年間のコンサートのスケジュールがパァになってしまい同業者はみんな頭を抱えているという。また、教育関係の仕事の話をしている友人の話によると、学事スケジュールがまったくわからず頭を抱えているという。スケジュールという概念はわれわれの暮らしに必要不可欠であったはずなのだが、それが今やあまり意味のないものと化しているのだ。もっとも、私はそういう概念がもとから無意味(ある意味で)だったことがコロナによって暴露されただけだと思っているけれども。

・スケジュールは何から生じるか

 当たり前の話だが、スケジュールはカレンダーに基づいている。ここでいうカレンダーとは何の変哲もない、1年を1月から12月までの365日で記述するあのカレンダーである。カレンダー(厳密には太陰暦だろうとマヤ暦だろうと暦でありさえすればなんでもよい)がなければわれわれはスケジュールという概念を理解できず、その日その日の暮らしをしていくしかなくなってしまうだろう。1日を時間・分・秒で分けることもこれと同じであり、要するにカレンダーとは時間を区切って整理する仕組みのことだ。
 ではカレンダーは果たして何からできているかというと、すべての時点を等質なものとして見なす態度から生じている。その態度とはすなわち2020年3月1日は2051年6月30日と同じ一日であるとする態度であり、その時点がいかなる時点であってもそれ自体の特別性は認めない態度である。この態度に立つかぎり、ある時点が過去または現在または未来であることは単なる偶然なのであって、その区分は他のどの時点にも当てはまるからそのことに何ら特別性はないとされるのである。実は現在がその日その時点であることは端的に奇跡なのだが、この態度に基づくかぎりその奇跡性は常に忘れ去られてその他の日と同じ単なる一日にすぎないと見なされる。このような態度を身につけることがすなわちカレンダー的時間把握を身につけるということであり、逆にこの態度がなければ、つまりすべての時点のうち特定の時点を別格のものとして取り扱ってしまうならば、そもそもカレンダーは生じえない。(ここでいう「別格」とは特定の時点以外は「現在」として認めないとかそういった「別格」である。そう考えると、すべての時点を等質なものとして見なす態度とはごく一般的な常識的な態度であることがわかるだろう。)

・時間の等質化の行き詰まりとリアル時間

 しかしながら、コロナはこのすべての時点を等質なものとして見なす態度をわれわれから剥ぎ取ってしまった。これまでのわれわれは未来が過去・現在と地続きであることを無意識のうちに前提していたが、今や過去・現在・未来を等質なものと見なすには未来があまりにも不確定になってしまったのである。これまでのやり方ではうまく立ち行かない、あるいは何とか持ちこたえたとしてもわれわれがそうしたやり方に納得できない、コロナは幸か不幸かそういうステージをもたらしてしまった。これをカレンダーに絡めていえば、もちろんコロナがあろうとなかろうと未来(たとえば2020年8月10日)はやってくるのだろうが、未来における状況がまったくわからない以上カレンダーに書き込むべき内容がなく、それゆえ過去・現在・未来を等質なものとして見なす態度がしっくりこなくなってしまったのだ。
 ところが、時間はちゃんと流れている。カーテンを開ければ木の枝が風にそよいでいる。私が朝ご飯を食べたことは過去だし、文章を打っているのは現在だし、寝る前のトイレは未来である。先の「スケジュール時間」と対比し、これを「リアル時間」と呼ぶことにしよう。さて、一方では時間が壊れておきながら、他方では平穏無事に時間は流れている……この差はいったい何なのだろう?

・二つの時間の関係性

 「スケジュール時間」と「リアル時間」の関係はいたってシンプルで、まずは端的に与えられたリアル時間があり、それを他の時点と並列化するとスケジュール時間が生まれる(実はスケジュール時間がなければリアル時間についてそれが何なのかがそもそもわからず、それゆえ両者はマトリョシカ的な入れ子構造をしているのだが、私はそれでもリアル時間を核に据えたいのでこのような表現をしている)。一般に並列化とは端的な「これ」を数あるものの一つとしてとらえること、すなわち概念を使うことであり、それゆえスケジュール時間の成立には言語が深くかかわっている。言語を持たない動物はおそらくリアル時間だけがあってスケジュール時間がない。
 さて、リアル時間を他の時点と並列化することによって生まれたはずのスケジュール時間は、今度はリアル時間をその内に取り込みはじめる。リアル時間には「○時○分」という表記などまったく関係ないのにもかかわらず、それが常に「○時○分」のことだとして理解されるのは、リアル時間がスケジュール時間の内に位置づけられているためである。リアル時間はそれが端的な唯一の現在でありそれ自体はスケジュールとは関係ないという点でスケジュール時間から常にはみ出るが、スケジュール時間はリアル時間を常に内側に回収し続けるのだ。
 結果としてスケジュール時間のうちの一時点にすぎないと見なされるとしても、リアル時間がなければスケジュールの中でどれが端的な動く現在なのかわからない(それゆえリアル時間がなければ過去・現在・未来の区別がそもそも意味を持たない)から、リアル時間は時間の核だといえる。われわれはスケジュール時間のある時点について考えるとき、このリアル時間(の影)を投影せざるをえないようにできているのである。
 ただし、それほど時間にとって重要なリアル時間ではあっても、その存在を端的に指し示す言葉は実は存在しない。リアル時間という言葉はスケジュール時間に常に取り込まれることによって「いついつの今」という並列化されたあとの意味で解釈されざるをえず、それゆえこの唯一のものであるはずのリアル時間はいつの時点でも当てはまるものとして理解されてしまうからである(私の言うことを読者が理解できたとしたら、それは言語の持つこの機能のおかげであり、その機能ゆえに実は私の言うことを理解できていない)。リアル時間は、そのときそのときのわれわれ自身によって直接に捕まえ続けなければならない。

・大ざっぱなまとめ

 以上の大ざっぱな議論を大ざっぱにまとめると、リアル時間は生々しい現実そのものでありスケジュール時間は概念だと言うことができる。要はわれわれによって直接に生きられているのがリアル時間であり、機械的に数直線的に並んでいるのがスケジュール時間なのだ。
 コロナはスケジュール時間を壊した。ということは、われわれはスケジュール時間からいったん離れ、リアル時間に身をひたすチャンスのさなかにいるのだ。思い返せば、われわれは確かにスケジュール時間に支配されすぎている。今は過去の結果であり未来の準備期間である、そんな考えがあまりにも当たり前になっている。もちろん、スケジュール時間は時間把握にとって不可欠ではあるのだが、われわれは時間というものと付き合うにあたってもう少し力を抜いてもよいのではないか。われわれの生きるこの世界はリアル時間こそが核なのであって、たとえば未来の試験のために今あくせくするのは本末転倒なのではないか。空を見上げたらさっきあったはずのひこうき雲は消えていて、そのかわりにひつじ雲があって、じゃあ経験上2日後くらいに雨が降るかもしれないなと思う、それでよいではないか。スケジュール時間に支配されすぎたわれわれに、リアル時間の大切さを再認識すべきときがきた。この今、すべての出来事が起こっては消えていくこの今、なぜか常に今のこの今、これこそがわれわれが生きている証なのだ(この「今」の構造を見抜いたならば私が「われわれ」という言葉を気軽に使っていることに違和感を覚えるだろうが、私は感動的な雰囲気を出してみたくてこの表現を意図的に使っている)。
 ただし、繰り返しになるが、リアル時間は本来「リアル時間」などという言葉で指し示せるものではない。リアル時間という言葉はすべてのリアル時間に当てはまる、つまりあらゆるリアル時間を並列化しているという点でスケジュール時間と根は同じだからである。リアル時間はその概念を使う自分自身が常にその概念を乗り越えつつ自分自身でとらえなければならない。今であればこの文章を読んでいるそのときがリアル時間だし、スマホの画面からぱっと顔を上げて目に飛び込んできた景色がリアル時間である。それは、他の誰でもないこの私、100年前はなかったし100年後もないであろうこの私、自分自身がこの場で2人に分裂しても両方に残ることはなくなぜか片方に残るであろうこの私と密接に関係している。私があるのと同じように、今があるのは奇跡である。コロナによるスケジュール時間のほころびはこの奇跡を味わうための良い機会である。

 あらゆる概念はいつか内側から瓦解する。概念とは生(なま)の現実からの遊離であり、それ自体は生の現実を把握するためのものだから不可欠であるにしろ(先にも言ったが概念の助けがなければ生の現実がそもそも何なのかわからないだろう)、その不可欠であるはずの遊離がめぐりめぐって概念を殺すのだ。概念は自身の本質によって死ぬ運命にあるのである。そして、いったん概念が瓦解し始めてしまったらもうどうしようもなく、われわれにできることはその成り行きを見守ることしかない。
 概念が生の現実から遊離するということは、逆に言えば生の現実は常に概念からはみ出ているということだ。その「はみ出」は変化とも呼ばれる。今回時間という概念が被ったほころびも、リアル時間のスケジュール時間からのはみ出=時間概念そのものの変化によるものである。
 すべての概念はあらゆる生の現実を反映し固定化しているように見えながら、実はそのすべてが刻々と姿を変えつつある。そして、生の現実の変化が概念の瓦解を生じさせるものだとすれば、生の現実の変化自体は既存の概念のうちにはないということであり、われわれはここで変化の妙を味わわなければならない。
 この生の現実の背後には巨大なうねりがある。われわれが自身の力で何かをしているつもりであっても、その背後にはこの巨大なうねりが常にあって、われわれ自身が何かをすること自体を可能にしているのだ。私はこの生の現実に身をひたすとこの巨大なうねりがどうしても意識される。そしてそれはスケジュール時間よりもはるかに大きな射程で過去・現在・未来をカバーしているだろう。

 生の現実に立ち戻れ!

 

・ついでの話

 個人的な意見だが、リアル時間は身体に、スケジュール時間は理性に関係していると思う。コロナのおかげで理性の時間が壊れたのだから、今度は身体の時間を取り戻すべきだろう。時間と付き合うにあたって、またそれ以外の場面においても、人類は身体(と外界をつらぬくコスモロジー)を意識しなさすぎている。
 最後に暦について一言。身体の時間に対応しているのが太陰暦で、理性の時間に対応しているのが太陽暦だと個人的に思っている。宇宙の陰陽の気は絶え間なく流転しつつ身体をすっぽり包み込んでいて、太陰暦はこの陰陽の気に概ね対応している。健康である。

【参考図書】

 これらの他にも時間に関する本を読んだ気がするが、あまり覚えていないし列挙するのも面倒なので省略する。運命論に関する本はあまり関係がない気がしたので挙げなかった。

A.ベルグソン著、熊野純彦訳『物質と記憶岩波文庫、2015年。
E.フッサール著、谷徹訳『内的時間意識の現象学ちくま学芸文庫、2016年。
J.E.マクタガート著、永井均訳『時間の非実在性』講談社学術文庫、2017年。
M.ハイデガー著、熊野純彦訳『存在と時間岩波文庫、2017年。
山拓央『心にとって時間とは何か』講談社現代新書、2019年。
入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書、2002年。
大澤真幸永井均『今という驚きを考えたことがありますか』左右社、2018年。
鈴木康夫『AZUSA SYNDROME』万象企画、2017年。
滝浦静雄『時間―その哲学的考察―』岩波新書、1976年。
永井均存在と時間 哲学探究Ⅰ』文藝春秋、2016年。
中島義道『カントの時間論』講談社学術文庫、2016年。