申如録

日常生活で考えたことなど

誕生日のつれづれに

 誕生日の朝ごはん

 生卵をぐちゃぐちゃかき混ぜる。もとはヒヨコに、そしてニワトリになるはずだったもの。

 ヒヨコをミキサーにかける想像をしてみる。あるいは、ヒヨコを生きたまま口に入れて噛み砕く想像をしてみる。ヒヨコは一瞬で絶命する。

 溶いた卵に醤油をたらし、ごはんにかける。卵かけごはんは栄養豊富なので重宝している。

 生きやすさについて

 私より生きやすそうにしている人を見るとこいつは馬鹿なんじゃないかと思う。かといって私より生きづらそうにしている人を見るとこいつ生きるの下手くそだなあと思う。悪い癖だ。

 私にはきっとルサンチマンと自尊心とが多分に含まれている。こんな世の中では生きにくい人こそが正しく、しかし自分より生きるのが下手くそな人はもっとうまく生きるべきだ……文字にしてみると何ともまあひどい。

 でも、私の存在も誰かに優越感を与えているのだろう。

 たいていの人は多少なりとも生きづらさを感じながら生きていると思う。生まれてきてよかったと思うときもあれば、生まれてこなければよかったと思うときだってある。でもそれはきっと他人と比べるものではないし、自分の過去とすら比べるものではない。

 時折、自分は生きていてもよかったんだと思える気がして、あるいはそう思いたくて、わかったかわかったかと地面を殴りたくなるけども、痛そうだからやらない。

 育ちの良さについて

 育ちの良さは常に振りまかれる。育ちの良さは歴史的である。当人の親のそのまた親の、そのまた親の親の親から脈々と受け継がれてきた、金銭的環境的人間的余裕である。育ちの良い人からはそれをひしひしと感じるが、当人はそれを気にも留めてなさそうなので、それがまたにくらしい。

 育ちの良さは歴史的なものであるから、当人の責任でもなければ親の責任でもない。親もまたその親から育ちの良さを与えられなかったのであるから。

 われわれ庶民は実(じつ)を取らなくてはならない。われわれ庶民が名を取るようでは、絶対にいけない。

赤ん坊の泣き声

 赤ん坊の泣き声はうるさいばかりだと思っていた。いやうるさいのは確かなのだが、今日病院の待合室で赤ん坊がぎゃーぎゃー泣くのを聞いていたら、ふと自分はこの赤ん坊のように泣けるだろうかと思った。

 赤ん坊の泣き声には嫌味ったらしさがない。その響きは常にからりとしている。泣きながらあれこれ考えるとか、何かのために泣くとか、そういうものがない。

 自分もこんなふうに思いっきり声をあげて泣いてみたいものだと思ったが、きっと自分の泣き声には何か不純物が混ざってしまうのだろうという気がした。

 今年の目標

 この人のためにしてやれることは何もない、と思わせるような人になりたい。