申如録

日常生活で考えたことなど

老成の話

 池田晶子の「病気と元気」というエッセイに、次の文章があった。

 

  ……ぼんやり待合室に座っていたら、小学生の男の子が、母親の押す車椅子で通りかかった。様子から、長期の入院であることが窺える。大きな膝掛けに足をくるみ、熱を計るかのように、けだるげに額に掌を当てていたその子の顔の、なんと老成していたことか。私はしばらく、目が離せなかったのだ。あんな顔の子供は、初めて見た。

 

 この文章を読んで、私はある少年のことを思い出した。6歳のときのことである。以下、そのときの思い出を書きつづってみたい。

 

 小学校入学直前の春のことだったと思う。夜中、突然の猛烈な腹痛に襲われた私は、朝一で病院に駆け込むと、盲腸炎だと診断された。翌日、手術室に担架で入っていくとき、なんだかドラマのワンシーンみたいだな、と思ったのを覚えている。見送りに来てくれた両親は、悲観というほどではないがやはり心配そうな顔をしていた。麻酔は全身麻酔で、白衣を着たいかにもなお医者さんが口にマスクをあててきた。「眠くなりましたか」と聞かれ、謎の対抗心が生まれた私は、即座に「眠くないです」と答えた。気づいたらベッドの上にいた。手術は無事終了した。

 私がその少年と出会ったのは、その翌日のことであった。少年といっても、当時6歳の私よりはだいぶ年上だったと思う。おそらく小学校高学年か中学生くらいの年ごろだったろう。

 ベッドの上で暇そうにしている私に、両親はさっそくゲーム機を買ってきてくれた。当時の最新機種、ゲームボーイである。ソフトは「ポケモン(クリスタル)」「ポケピンボール」「ドンキーコング」の3つだった。それまでゲームを買ってもらえなかった私は、入院してよかったと喜んだ。

 買ってもらったソフトの中で、真っ先に熱中したのは「ポケモンクリスタル」だった。しかし、「レポート」機能を知らなかった私は、ある程度まで進めると電源を切り、また最初からやり直す、ということを繰り返していた。ゲームというものがよくわかっていなかった私は、多少の違和感を覚えつつも、まあそんなものかと思いながら遊んでいた。

 そんな私を見るに見かねてレポートを教えてくれたのが、その少年であった。6人がいる病室の中で、入って右奥が私のベッドで、そのひとつ手前が少年のベッドだった。彼は、いつもどおり電源を切りそうになる私に声をかけ、「レポートすればここからまた始めれらるよ」と言い、またポケモンについていろいろなことを話してくれた。その少年と私はすぐに仲良くなった。両親も、当時引っ込み思案だった私に仲の良い友人ができたことを喜んでくれた。

 だが、私はその少年のことを直視できなかった。6歳の私から見ても驚くほど彼が病的に瘦せていたからである。文字どおり骨と皮だけの身体だった。彼は立つこともできず、常に車いすに乗っていた。

 彼の顔をはっきりとは覚えていないが、その吸い込まれそうな目だけは鮮明に覚えている。黒目のふちは他の人よりも茶色が強く、それでいて中心部はなにか人を引き付けるような黒、真っ黒だった。フチなし眼鏡をかけていて、私と話をするときは目をまっすぐに見て話す人だった。

 私が退院する前日か前々日、彼は別の病室に移動になった。「元気でね」とお互いに言い合ってお別れをした。それまでの入院生活では泣かなかった私だったが、そのときばかりは大泣きに泣いた。

 どうやら、私と彼だけが話をしていただけでなく、親同士でもやり取りをしていたらしい。私が退院し、小学校生活を送り始めてしばらくしたころ、母から、あのときの少年が亡くなったことを教えられた。

 

前置きが長くなってしまったが、上に挙げた池田晶子の文章を読んで思い出したのは、その少年の目だった。あの目、茶色なのに真っ黒な目、奥にぐいぐい引き込んでくるような目。あれだけの目は病気をせずに健康に過ごしてきた小中学生にはとうていできないようなものだった。生まれてから何不自由なく過ごしてきた人間があの目をするためには、どれだけ年を重ねなければならないか。おそらく死ぬまであの目を手に入れられない人間もたくさんいるに違いない。池田晶子の言うとおり、病気は人を老成させるのだろう。

 

思うに、人を老成させるのは、なにかの欠如なのだ。健康、お金、円満な家庭……。心にぽっかり穴が開いて、どうして自分が生きているのかわからなくなって、つらくて、だから自分の存在や世界について考え、観察し、そしてしずかに耐えること。この繰り返しが、人を老成させてくれるのだろうと思う。むろん、生まれながらにして老成しているような人間もまれにいる。だが、老成している人間のうち大部分は、なんらかの欠如を抱えた人間のような気がしている。

顔を見て少し話せば、その人がこれまでにどれほどの欠如を経験してきたか、なんとなくわかる。そうでない人とは顔つきが違うのだ。欠如を知る人間は顔つきが大人びていて、そうでない人間にはどこか幼さが残る。

老成にはなんらの欠如が伴うものだとすれば、すべての人間に老成しろとはなかなか言えない。他人を苦しませる権利など少なくとも私にはないからだ。しかし、人間のうち大半は後者で、かつ社会を動かしているのも後者であるにかかわらず、私はなぜだかいつも前者に惹かれてしまう。

欠如がもたらす強さ、やさしさ、余裕……こうした性質が、周囲の人間を感化し、苦しみのない老成をもたらしてくれることを願うばかりである。