申如録

日常生活で考えたことなど

火事の話

 先日の朝、駅に向かって歩いていたら近所の民家が燃えていた。すでに消防車が何台も駆けつけており炎は見えなかったものの、真っ黒に焼け焦げた民家ともうもうと立ち昇る煙がその家の終わりを表していた。
 家が燃えるというのは考えてみれば大変な事態だ。生活品や愛着を感じていたモノはほとんど燃えてしまうわけだし、何より帰る場所がなくなる。その民家の住民が生きているかはわからないが、生きているのならばどうか強く生きてほしいと思う。

 だが、たとえすべてが燃えてしまっても、その人は何も失っていないとも言える。正確に言えば、ほかの何を失っても残るものが、ただ一つ、文字どおりただ一つだけ存在する。
 それは私の存在だ。私という世界の開けそのものだ。

 もちろん、ほかの何を失っても残るものがあるからといって、家を失った際にその人が傷つかないわけではない。私だってそのような状況になれば悲嘆に暮れるだろう。
 しかし、悲嘆のさなかであっても、失うものと残るものについてひとたび考えてしまったなら、私とはそもそも失うことのできない存在なのだと結論せざるを得ない。私は確かにたくさんのものを失った、だがこの私にはそもそも何かを所有するということがないのだから失ったものも何もない、と。
 前者の「私」は世界の中の一存在であり何かを失うことがあり得るが、後者の「私」は世界の開けそのものであり何かを失うことがあり得ないのだ。後者の「私」が失うとしたらそれは「私」自身であるが、「私」を失うということがどういうことなのか、私にはまったくわからない。

 2019年の2月ごろ、私の実家は諸事情によりなくなってしまった。なくなったというよりは「解散した」の方が正しいだろうか、メンバーは全員生きているのだがそれぞれ別々に暮らすことになった。
 実家最後の日、荷物の運び出しを終えてがらんとした家を見ていると何とも切ない思いがし、祖母との会話では思わず泣いてしまったりしたのだが、そのさなかでも頭のどこかでは実家にまつわるすべてのことが私には何のかかわりもないことなのだということがわかっていた。

 世界の一存在である「私」には実家は大いに関係があっても、世界の開けである「私」にはまるで関係がない。両者はともに真である。両者はマトリョーシカのように私の思考と体験に交互に食い込んでいる。

 火事があった日の駅前はいつもより静かで、すべてを失った人と平穏な人が同時刻にいるというのは何とも不思議に思えた。