申如録

日常生活で考えたことなど

近畿周遊記 その5

  近畿旅行の最終日は朝7時過ぎに目が覚めたが、すぐに残念なことに気づいた。頭が痛いのだ。
 私は片頭痛持ちなので低気圧にはめっぽう弱い。気圧が下がるとずきずきと頭の表層が痛み出し、ひどいときには視界が狭くなってしまう。今回に関してはもちろん旅行の疲れや連日の寝不足も頭痛の原因ではあるだろうが、やはり直接の原因は低気圧だろう。窓の外からは雨の音がぽたぽたと聞こえてくる。私は友人にLINEを送り、8時過ぎまで寝かせてもらうことにした。バファリンはいつも使っている鞄には常備しているのだが、旅行用の鞄に入れるのを忘れてしまった。
 部屋で少しまどろんでいたら痛みが少し和らいできたので起床することにし、帰りの荷造りを始めた。基本的に洋服は旅行先で捨てることにしているので、荷物は来たときよりもかなり少ない。出発の支度を終えると友人の待つリビングへと向かった。

 今日はこれといった予定がないので、ゆっくりと過ごすことができる。リビングでは出発前に友人とおしゃべりをした。
 友人の名刺の裏には一本の線が入っているのだが、その一本線を文字にしたいと友人から相談があった。私は思いつくままに「中庸(縦書き)」「真善美(横書き)」「無無無(横書き)」などを提案したところ、友人は「中庸」が気に入ったらしかった。気に入ってもらえてよかった。

 9時半を回ったところで私たちはお世話になった宿を後にし、まずはマクドナルドで朝食を食べることにした。奈良だからか、それとも日曜の朝だからか、駅前のマクドナルドの雰囲気は東京よりもだいぶ落ち着いて見えた。なんとなく注文したアップルパイはびっくりするほど熱かった。

 今日の目的地の依水園は近鉄奈良駅が最寄りなので、近鉄線でゆらゆらと目的地へ向かう。乗客や広告が少なく落ち着いた車内とも今日でお別れだと思うと物寂しい気持ちになった。
 近鉄奈良駅では友人の提案で依水園に向かう前に駅前の古本屋に行ってみることにした。古本屋はこじんまりとしていたが日本史や日本文化に関する書籍がやたら豊富に並んでいる。またこの古本屋には学生割引があるらしく、良心的なお店だなと思った。ただ、私は神保町など東京の古本屋のほうがディープで好きだった。少なくとも今回訪れた奈良の古本屋は私には健康的すぎた。

 古本屋を出て依水園に向かって歩いていたら、奈良公園に差し掛かったあたりで友人が鹿せんべいを鹿にあげてみたいと言い出したので早速やってみることにした。友人は初めて、私は中学校の修学旅行以来のイベントである。
 中学生時代は迫りくる鹿に手こずった記憶があったが、今回は全然そんなことはなかった。私と友人は集まってくる鹿をなだめつつ順番に鹿せんべいを配ってあげ、その代わりに頭や背中を撫でさせていただいた。少し離れたところでは鹿せんべいを手にした観光客が鹿にどつかれていて大変そうだった。私はそれをしり目に、友人と鹿と自撮りをした。

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私(左)と鹿(中央)と友人(右)と

 依水園の前まで歩き、いよいよ入ろうとしたとき、私と友人は依水園の隣に「吉城園」という別の庭園があることに気づいた。これも何かの縁ということでこちらから先に入ってみることにした。入場料はなんと無料だった。
 吉城園は手入れが行き届いておりかつ広い敷地を有していた。私と友人は建物の縁側に腰を下ろしあるいは寝っ転がり、お昼過ぎまで話をしていた。観光客の姿はごくまばらで、私たちの話し声のほかは水の流れる音がばしゃばしゃと響くのみであった。私たちは入場無料なのがまったく理解できなかった。

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吉城園

 奈良の庭園の特徴のひとつには、苔の見事さがあると思う。私はこれまで苔を2次元のものだと思っていたが、奈良の苔はどう見ても3次元であり、ふさふさとした苔がもっこりとしている。気になる方はぜひ奈良の庭園に足を運んでみていただきたいと思う。庭園でなくても、たとえば先日の龍穴など見事な苔を見られる場所はいくつもある。

 吉城園を見終えると依水園へと行く前に駅前の餃子の王将で腹ごしらえをし、頭痛が依然としてあったので薬局で頭痛薬を購入した。私たちはその後依水園前へと戻っていった。
 依水園には庭園と寧楽美術館がある。私たちはまず美術館から回ることにした。
 美術館では、受付のおっちゃんが展示品や美術館の歴史についていろいろと教えてくれ、資料をコピーしてくれたり美術館のカタログ(絶版)を見せてくれたりした。だが、残念なことに私は美術館に入ったあたりから頭痛がひどくなり吐き気までもよおしてしまったため、いったん美術館を離れて頭痛薬を服用しベンチで休息することにした。
 頭痛がいくらか治まると美術館に戻り、展示品を一周した。陶磁器や青銅器の質はおしなべて高かったとは思うが、中でも耀州窯の青磁碗はとりわけ見事だった。

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耀州窯の青磁

 美術館のあとは依水園庭園でゆっくりする流れだったのだが、頭痛はメンタルの悪化をも引き起こし、私はもう何にも心を動かされなくなってしまっていた。心の弾力性みたいなものがゼロに近かった。友人はそれを察してくれ、私たちはそそくさと依水園を後にした。友人には悪いことをしてしまったなと思う。
 依水園の後は正倉院あたりを散歩しようかと話していたが、私がこのような状態になってしまったので今回はここで解散することにした。友人に感謝と別れを告げ、ひとり帰途に就いた。

 メンタルが悪化した以上は早く帰る必要があったので、近鉄奈良駅から京都駅まで特急電車に乗り、そこから東海道新幹線のぞみ号に乗って帰途に就いた。今までは電車で1時間ほどの距離なら在来線しか使ってこなかったが、今回特急電車を使ってみて短距離でも特急電車を使うことの良さがわかった。今後はお財布と相談しながら最善の乗り物を選んでいこうと思う。
 近鉄の特急電車でものぞみ号でも、回復のためにできるだけ長く寝なければいけないのはわかってはいたが、やっぱり景色が見たくてなかなか寝ることができなかった。やっと名古屋駅のあたりで睡魔が襲ってきて、気がついたら小田原駅を通過していた。1時間ほど寝たおかげか、メンタルはいくらか改善した。新幹線の到着メロディが痛いほど心に響いた。

 奈良はとても良い場所だった。行くべきところはたくさんあるし、人は優しいし、雰囲気は落ち着いている。できるだけ早いうちに、遅くとも年末には再び奈良を訪れたい。冬の奈良もまた趣があるに違いない……そんなことを考えつつ荷ほどきをしていると、興福寺で買ったお香の匂いがつんと鼻をついた。

(近畿周遊記 終)