申如録

日常生活で考えたことなど

薫習

  よく晴れた冬の夜のこと、下り方面の電車内にカップルとおぼしき男女2人が並んで座っていた。互いに何もしゃべらず、かといってスマホを見るわけでもない。心なしか張りつめた空気をまといながら、2人はじっと前を見つめている。
 電車があまり人気のない駅に着こうとしたとき、女は男に光るものを差し出した。
 それは銀色の大きな髪飾りだった。雰囲気から察するに、女はそれを何らかの区切りとして差し出したのだと思われる。男はそれに込められた意味を知ってか知らずか、無造作にそれを受け取りジャンパーの右ポケットに入れた。

 男と女は無言のまま電車を降りて改札を出、線路に沿ってゆっくり歩き出した。
 道中、女は男がいかに鈍感かをぽつぽつと語り始めた。そのうちに女の感情は高まっていき、数分もすると女の口調や態度には怒りがあらわになってきた。だが同時に、結局は自分の真意がこの男にはわかってもらえないだろうという、どこか覚めた顔つきもしていた。
 男は女の言うことを至極もっともだというふうに聞いていたが、おそらく女が直感していたとおり、女が本当に伝えたかったことは男には伝わっていなかったと見える。男と女は隣駅まで歩くと、そのまま改札をくぐって再び電車に乗り込んだ。

 電車内では相変わらず黙って座っていた。電車は10分もたたないうちに男の最寄り駅に到着し、男は女のほうを向いて「じゃ」と言った。
 男は立ち上がる瞬間、ジャンパーの右ポケットから髪飾りを取り出し、女の右側頭部にそっと取り付けた。男は無言でドアを見つめ、女は顔を男に向けている。男は女の顔をちらと見、続いて髪飾りに視線を移した。女は髪飾りのある右側の髪をかき上げ、そちらの口角をぐっと持ち上げた。深紅の唇が船の舳先のように曲がった、愛と憎しみとが入り混じった表情をしていた。女はもう、男のほうを見ることはなかった。

 電車を降りてから家に着くまでの間、男は誰かの視線を気にするかのように何度も後ろを振り返った。頭上の月がいやに黄色かった。
 男が家に帰り着替えをしていると、いつもとは違う香りがすることに気づいた。ハッとして右手を嗅いでみると女の匂いが強く残っていた。男は手に染みついた匂いを深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。