申如録

日常生活で考えたことなど

『臨済録』曲解 三

上堂 ―お堂での説法― その3

【原文】

師因一日到河府。府主王常侍、請師陞座。時麻谷出問、大悲千手眼、那箇是正眼。師云、大悲千手眼、那箇是正眼、速道速道。麻谷拽師下座、麻谷卻坐。師近前云、不審。麻谷擬議。師亦拽麻谷下座、師卻坐。麻谷便出去。師便下座。

【日本語訳】

ある日、臨済は河北に行った。府知事の王さんは臨済に説法をお願いした。すると麻谷(まよく、僧侶)が進み出て臨済に質問をした。
麻谷「大きなお慈悲の千手千眼の観音様は、いったいどれが本当の眼か」
臨済「大きなお慈悲の千手千眼の観音様は、いったいどれが本当の眼か、早く答えてみよ」
麻谷は臨済を席から引きずり下ろしてそこに座った。臨済は麻谷の前に進み出て
臨済ごきげんよう
とあいさつをした。麻谷が何か言おうとしていると、今度は臨済が麻谷を席から引きずり下ろしてそこに座った。すると麻谷は外に出ていき、臨済も席を降りた。

【コメント】

 何が起きているのかよくわからない人が大半だと思う。いきなりこれを読んで「わかるわかる!」となる人はごく少数(の変わり者)だろう。
 私も最初は例に漏れず「何だこれ……」となったものだが、この問答を何回も読んでいるうちに私にとって納得のいくような読み方で読めるようになってきた。以下、それについて記しておくことにする。

 まず前提として、麻谷が問うた「大きなお慈悲の千手千眼の観音様は、いったいどれが本当の眼か」とは、千手観音の持つ千個の眼のうちどれが本当の眼かを問うものではないことに注意が必要である。この質問内容はあくまでも比喩であり、「本当の眼は右から138個めのやつです」なんて答えは臨済も麻谷もはじめから期待していない。底本として使用した入矢義高訳(岩波文庫)や柳田聖山訳(中公文庫)では「正眼」を「正面の眼」と解釈しているが、私はこの解釈では質問内容を比喩として扱い切れていないと思う。もし麻谷が千手観音の正面の眼を問題にしていたのだとすれば、見る視点によってどれが正面の眼かが変わる、といったごく平凡な事実しか導き出すことができない平凡な問答に過ぎなくなってしまう。(余談だが、千個の眼が平面上にびっしり並んでいたり対象をドーム状に包むように配置されていたりすれば千個の眼で一斉に焦点を合わせることができるから「正面の眼=すべての眼」として答えがきっちり定まるかもしれないが、そんなキモい千手観音はこっちからお断りである。千個の眼は十一面観音の顔のように円周に沿って外側を向いていると理解したい。)
 それなら麻谷の問うた「正眼」すなわち「本当の眼」とはいったい何なのかといえば、それは「実際に見える眼」のことである(このように読むのが正しいというより、このように読まなければ問答として深みもおもしろみもないからこう読みたい)。したがって、彼の問いのすべてを比喩抜きで解釈すると「世界に数多くある眼のうち本当に見える眼はどれか」ということになる。
 問いの主体が千手観音ではない理由は、「本当の眼」はそもそも千手観音にはひとつもないから問いの主体が千手観音である必然性はまったくなく、千手観音は世界にある数多くの眼を例えているにすぎないからである。確かに千手観音は(不思議な神通力によって)すべてをお見通しかもしれないが、麻谷にとって千手観音にいくら眼があろうとそれは「実際に見える眼」ではない。麻谷にとって「本当の眼」とは現に見えている眼、すなわち麻谷の眼でしかありえない。
 麻谷はこう問いかける一方で、この問いが臨済には通用しないことなど百も承知である。麻谷は、臨済もまた「本当の眼」とは臨済の眼でしかありえないことをわかっており、それゆえこの問いに関して正論をぶつけ合っても議論は平行線をたどるばかりであることを見抜いている、と薄々気づいている。麻谷はそれを承知の上で臨済がどれくらい「わかっているか」を様子見しているのである。
 臨済はこの問いを受けて、問いをそっくりそのまま返してみせる。すなわち、「お前はお前の眼が本当の眼だと思っているようだが本当の眼は当然俺にしかない。互いに自身の眼が本当の眼であるという点では両者とも正しいが、本当の眼は片方にしかないという点では両者のうちどちらかは間違っている(俺に言わせれば間違っているのは明らかにお前だが)。さあそれを踏まえたうえで何か言ってみせろ」というわけだ。
 もうここまでくれば言葉で何かを語るのは堂々巡りに陥るほかないことは明らかだろう(といっても問答は単に一往復しただけだが、この2人は一往復の問答で哲学的水準をここまで引き上げたことになる)。そこで麻谷は行動に出ることにし、臨済を席から引きずり下ろす。「本当」はお前ではなく俺にあるんだから、椅子に座って主役ヅラしてないで本当の主役である俺に席をよこせ!
 臨済はそんなことをしても無駄だとばかりに余裕のあいさつをしてみせる。席を横取りしたって何になる、主役は何があろうと常に俺なのだから、お前が何をしようとお前は絶対に主役にはなれないのだ。ごきげんよろしゅう、座り心地はいかがかな。まあ何ともおちょくったあいさつである。
 臨済はまた何か言おうとする麻谷を、その言うという行為の無駄さを排除するように席から引きずり下ろし、自分がもとの席に座る(そもそも臨済はゲストなのだ)。
 麻谷はもはや臨済相手にやるべきことがないので、さっさと出て行った。臨済ももはやすべきことがないので席から降りた。問答はこれで一件落着、心温まる円満解決である。ここにはもはや当初の「本当」をめぐる問いそのものがない。両者は問いに答えを与えたのではなく、問いのない地平に行くという解決をしたのだ。

【日本語訳Ver.2.0】

ある日、臨済は河北に行った。府知事の王さんは臨済に説法をお願いした。すると麻谷(まよく、僧侶)が進み出てきて臨済に質問をした。
麻谷「世界に数多くある眼のうち本当に見える眼はどれか(本当に見える眼は当然俺にしかないから、お前は俺の眼が本当に見える目だと答えなければならない。だが、この問いをめぐるアポリアにお前はすでに気づいているだろう。それを知ったうえでお前がこの問いにどう答えるのか、ひとつ試してやる)」
臨済「世界に数多くある眼のうち本当に見える眼はどれか、早く答えてみよ(お前はお前の眼を本当の眼だと思い込んでいるが、本当に見える眼とは当然俺の眼のことだ。だからお前こそ俺の眼が本当に見える眼だと答えなければならない。だが、お前の「本当の眼」も俺の「本当の眼」も、当人にとってはそれぞれ正しい一方で、本当の眼は現に俺にしか(お前にとってはお前にしか)ないのだから、どちらかは必ず間違っている。「本当」はこのようにどこまでも言葉ではとらえきれないのだから、この問いにはそもそも答えようがないぞ)」
麻谷は臨済を席から引きずり下ろしてそこに座った(言葉ではもはや埒があかないことは互いにわかっているようだな。だが、それでもやはり本当とは俺だけのためにあり、それゆえ俺だけが主役なのだということを、今日主役のお前の席を奪い取ることによってわからせてやるわ)。
臨済は麻谷の前に進み出て「ごきげんよう」とあいさつをした(俺こそがいつだって本当であり主役だということは、お前がその席に座ったところで何も変わらない。お前は俺の本物の眼によって見られたものでしかないのだ。さて、その席に座れて満足ですかな、ごきげんよろしゅう)。
麻谷が何か言おうとしていると、今度は臨済が麻谷を席から引きずり下ろしてそこに座った(もう問答はいいだろう。今日は俺がゲストなのだからその席は返してもらうぞ)。
すると麻谷は外に出ていき(俺もわかっているしこいつもわかっている。それがわかった以上、もうやるべきことはない)、臨済も席を降りた(一件落着)。