申如録

日常生活で考えたことなど

長谷寺 祈りの回廊

はじめに

 2021年12月28日から12月31日までの4日間、私は奈良県桜井市にある長谷寺の朝勤行に参加し、12月31日の夜には観音万燈会を訪れてきた。長谷寺でのひと時は個人的にとても良い体験になったので、ここでは長谷寺とそのイベントについて紹介するとともに、今回の長谷寺参拝で私が自分の至らなさを恥じたことについても併せて触れておく。

長谷寺について

 長谷寺は8世紀前半に創建された真言宗豊山派の総本山である。場所は奈良県の北部、桜井市の東寄りに位置し、山の中腹に本堂を構える。最寄り駅は近鉄大阪線長谷寺駅で、東京から約4時間、京都から約1時間半かかる。長谷寺には国宝の本堂や重要文化財の本尊十一面観世音菩薩立像(約10メートル)、同じく重要文化財の登廊(399段)など様々な文化財があり、境内に牡丹などの花が咲き誇ることから「花の御寺」とも呼ばれ、秋は紅葉が鮮やかで美しい。門前には旅館やお土産屋が立ち並んでおり、ランチやショッピングも楽しめる。個人的には草もち、奈良漬、山菜定食がお気に入りだ。

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長谷寺本堂(国宝)

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登廊(重要文化財

朝勤行とは

 長谷寺朝勤行では、毎朝午前7時(夏は午前6時半)から約30分かけて読経や法話などを行う。参加費は1回につき500円で、開始約10分前から注意事項などの事前説明があるためそれまでに受付を済ませておくことが望ましい。朝勤行終了後、参加者のうち希望者は本尊の特別参拝ができる(別料金)。朝勤行は本来であればお坊さんたちだけでやるのだろうが、奈良県観光局主催の「祈りの回廊」という社寺振興企画のひとつとして一般参拝客にも参加が許されている。
 参加にあたっては始発で行かなければ間に合わないため(場所によっては始発でも間に合わないので注意!)、朝4時半くらいには起きて長谷寺へと向かう必要がある(長谷寺近辺の旅館に泊まればもう少し寝ていられるし電車に乗らなくて済む)。冬季はまだ外が真っ暗で寒さが骨までしみてくるが、長谷寺駅から長谷寺まで20分歩き、さらに長谷寺に着いてからも登廊を399段上らなくてはいけないため、本堂にたどり着くころには汗をかくほど熱い。受付を済ませて本堂の中に入ると、若いお坊さんが経本、袈裟、防寒用のブランケットを渡してくれる。座布団に座ってしばらく待っていると太鼓の音が響き、お坊さんたちが一列になってぞろぞろと入ってくる。朝勤行の始まりだ。

 朝勤行は、錫杖経→般若心経→法華経(観世音菩薩普門品第二十五)→諸真言→遥拝→法話という流れで進んでいく。初心者にはどれも目新しい内容ではあるが、その中でも長谷寺の朝勤行の大きな特徴は、太鼓をどんどこどんどこ叩きまくることと、読経の声がデカいことと、読経のスピードが速いことである。また、最初の錫杖経にフシをつけて歌うように唱えることも長谷寺の特徴のひとつだ(とお坊さんが説明してくれた気がする)。こうした特徴があるから、長谷寺の朝勤行にはまるでロックバンドのライブのような雰囲気がある。私はこれを勝手に「長谷ロック」と呼んでいる。
 次に載せる動画は、朝勤行のものではないが、錫杖経、般若心経、法華経(一部)の雰囲気を伝えるものである。2つ目の動画は1分15秒あたりから読経が始まる。

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 朝勤行でお坊さんたちに合わせて読経するかどうかは参加者個人の勝手だが、私はデカい声で読経するとすっきりするので読経することにしている。初回は読経のスピードについていくだけで一苦労でも、回数を重ねていくうちに慣れてきて問題なく読めるようになる(ただし回数を重ねる人はそもそも稀である)。私に言わせれば、長谷寺で読経することはカラオケで歌ってすっきりすることに等しい。カラオケに来て歌わないのは損であるのと同様に、長谷寺に来て読経しないのは損だ。
 私が長谷寺の朝勤行に参加するのは実は今回が初めてではなく、過去に数回参加したことがある。いずれもめちゃくちゃ良かったので、今回は4日連続で参加してみた次第である。

 しかし、観音万燈会に参加したのは今回が初めてだった。というかそもそも観音万燈会の存在すら知らなかった。今回、観音万燈会に参加できたのは、12月31日の朝勤行を終えて長谷寺駅に向かって歩いていたら、民家の壁に貼ってあった観音万燈会のポスターがふと目に入ってきたからだった。私はこれも何かの縁だと思い、夜になったら再度長谷寺を訪れてみることにした。

観音万燈会

 案内が遅れたが、観音万燈会とは新年を祝うために大晦日の19時から元日の朝5時まで本尊の十一面観世音菩薩立像をご開帳するとともに、全国の信徒から寄せられた灯籠を長谷寺の回廊にお供えするものである。要するに長谷寺流の年越しイベントだ。

 21時過ぎに再び長谷寺に着いた私は、その景色に思わず見とれてしまった。各地から寄せられた灯籠は399段の登廊を埋め尽くすだけでは足りず、参道まで長々と延びていたのだ。灯籠の側面には寄進者の氏名や団体名が記されており、それぞれの祈りが火に燃えて大みそかの静謐な夜を照らしていた。その光は参道・登廊に沿って揺らめき、長谷寺本堂へと参拝客をいざなっていた。

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長谷寺参道

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登廊

 この灯籠に沿って歩いていると、この灯籠は年越しの夜だけにあるのではなく、いつもここにあるのだという気がしてきた。年越しの夜だからたまたま目に見える形で灯籠が置かれているだけで、祈りは常にここにあったのだろう。

 朝勤行に何度も参加したことで、私にいささかの自尊心が芽生えていたことは否定できない。朝勤行をしたのだから私はどこか成長したはずだ、一度だけ参加してやめる連中とは違うはずだ、と。しかし、私は何もわかっていなかった。ただのひとつもわかっていなかった。普段からあるこの祈りに、灯籠がないと気づけないようではまったくもって未熟だ。私は自分が恥ずかしかった。

 長谷寺にあふれる祈りに気づいた翌日、東京に戻ってきた私が夜道を歩いていると、街の明かりがすべて祈りに見えてきた。もちろん街の明かりは長谷寺の灯篭のような直接的な祈りではない。しかしそれでも、住民たちの生活を支える街の明かりにどこか尊さを感じた。
 違って見えたのは街の明かりだけではなかった。次第に周囲のものすべてが祈りに見えてきた。生きものは生きる祈り、食べものは生かす祈り、人の作ったものは生活への祈り、天地は世界の祈り……

 今回の教訓は2つ。わかった気にならないこと。あらゆるものは祈りでもあること。