申如録

日常生活で考えたことなど

『臨済録』曲解 序

はじめに

 ひまなので『臨済録』を翻訳してコメントをつけていこうと思う。
 『臨済録』とは臨済(りんざい)という中国の坊さんが言ったりやったりしたことをまとめた書物である。臨済は唐末期の人だから、彼が『臨済録』に書かれていることを実際に言ったりやったりしてから1200年くらい経っていることになる。
 ところで、そんな昔の中国の坊さんの話、俺たちには関係ないだろと言われたら、まあそれはそうである。われわれの日常生活には1200年前の中国の坊さんが出てくるシーンなどないし、臨済だって自分の行いが1200年後の異国で読み継がれているとは夢にも思わなかっただろう。
 では、なぜ『臨済録』を読むのか。それはひとえにおもしろいからである。切れ味抜群、気分爽快だからである。くれぐれも『臨済録』をおじさんのくだらないボヤキだと思うなかれ。『臨済録』には長い間読み継がれてきただけの理由がある。

 このささやかなブログが誰かの『臨済録』との出会いにつながればいいな、と願っています。

凡例

一、底本には入矢義高訳注『臨済録』(岩波文庫、1989年)を用い、柳田聖山訳『臨済録』(中公文庫、2019年)を適宜参照する。
一、底本のうち、「序」はあまりおもしろくないので省略する。
一、現代語訳は底本を参考にしつつ筆者が作成する。宋の馬防が記した『臨済録』の「序」には「誤って扱うことのないようにしてほしい(冀無賺擧)」との文言があるが、入矢義高氏の「現代のわれわれは、『臨済録』をもっと率直かつ自由に読んでよい」(入矢義高訳注『臨済録』「解説」)とのお言葉に勇気をもらい、あえて筆者自身にとって一番おもしろいようなやり方で翻訳してみることにする。
一、ブログという媒体であることを考慮し、読みやすさを重視するため(加えて筆者の実力不足のため)、読み下し文及び注は特に必要な場合を除き掲載しない。
一、以上のようなわけだから、あくまでこのブログは一般人のお遊び程度のレベルに過ぎない。もし本格的に『臨済録』に興味を持っ(てしまっ)た方がいたら、底本をはじめとする学術的価値のある書物を手に取ってみてほしい。