申如録

日常生活で考えたことなど

赤ちゃんの話

1.赤ちゃんと私

 私は赤ちゃんがどうしても欲しいと思えない。さすがに憎いとまでは思わないが、かといってプラスの感情を抱くこともあまりない。もちろん、赤ちゃんが笑ったり喜んだりすれば多少はかわいいとは思うが、でもそれは赤ちゃんに限らずとも人間はうれしくなればかわいくなるようにできているでしょう。だから、赤ちゃんが欲しいと公言する人や、近くに赤ちゃんが来ると即座に「かわいい~!」とか言う人に対しては、そんなに?って思ってしまう。もっとも、個人の好みを否定するつもりはないし、少子高齢化社会に生きるわれわれにとっては、こういう態度のほうがむしろ好ましいのもわかっている。

 詳しくは後で述べるが、私が赤ちゃんを欲しいと思わない理由は大きく分けて二つある。一つ目は、今述べたように赤ちゃんに特別の魅力を感じないから。これは私個人の好みの問題だから、さして重要ではない。むしろ、私は赤ちゃんに魅力を感じられるようになりたいので、赤ちゃんのどういうところが魅力なのかわかっている方はぜひ教えてください。
 二つ目は、新しく命をこの世に生み出すことがよいことなのかわからないから。私自身、後で述べるように、これについて「よい」と断言することは不可能だと思っている。

 赤ちゃんに魅力を感じられず、かといって新しく命を生み出すことに納得もできないという点で、私は少子高齢化社会促進の申し子である。

 

2.赤ちゃんが最初からしゃべれたらいいのに

 私が赤ちゃんに魅力を感じない理由として一番大きいのは、とにかく手間がかかることだ。赤ちゃん、生まれたばかりだし多少の世話は必要だとしても、どうしてあんなにも手間がかかるのか。歩けないとか首がすわらないとかはまだいい、とりわけ私にとって厳しいのは、赤ちゃんが言葉を使えず、その代わりに泣きまくることだ。お母さんと離れたら泣く、腹が減ったら泣く、オムツで泣く、挙句の果てには眠くて泣く。はじめの三つはまだわかる、だがなぜ眠くて泣くのか。眠いなら黙って寝ればいいではないか。かく言う私自身も、赤ちゃんのころはとにかくよく泣く奴で、昼夜を問わず2時間に一回は泣きわめいて母を半ば不眠にさせ、子ども好きの母をして「こいつマジで捨てようか」と思わしめたらしい。

 私は、赤ちゃんが泣く代わりに言葉を使って他者と意思疎通できるようになれば、子育てはどれほど楽になるだろう、と心の底から思っている。もしそうなれば、出生率も多少は上がるのではないだろうか? お腹が空いたら「ごはんほしいっす」、お母さんと離れるのが嫌なら「抱っこしてほしいっす」。ギャーと泣かれるよりもはるかに便利だ! 少なくとも、赤ちゃんがこの調子なら、私は子育てに前向きになれる気がする。ちなみに、女性の知り合いに「最初からしゃべれる赤ちゃんならいいのに」と言ったら、今のところ3人中全員から「なにそれ嫌でしょ笑」と否定されている。

 こういうわけなので、私は赤ちゃんには言葉をしゃべれる状態で生まれてきてほしいし、それが無理ならAI研究者の方々に赤ちゃんの泣き声を言語に翻訳するソフトを作成してもらいたい、と切に願っている。

 

3.「赤ちゃんかわいい」への違和感

 赤ちゃんを見て反射的に「かわいい」と言う人は、一定の割合(むしろ多数派?)でいるものである。しかし、私は少数派かつひねくれ者なので、そのように反射的になされた「かわいい」という言明の大半は、単なるトートロジー(同語反復)なのではないかと思っている。なぜなら、赤ちゃんのことを「かわいい」と言う人の大半は、赤ちゃんのことを「かわいくない」と言う可能性をそもそも持っていないように見えるからだ。赤ちゃんのことを「かわいくない」と言う可能性があらかじめ排除された価値観を持つ人が「かわいい」って言ったって、そりゃあなたの価値観は最初からそういうふうにできていますからね、としか言いようがない。

 彼らが赤ちゃんをかわいいと言うとき、その「赤ちゃん」には価値判断がすでに大きく入り込んでいる。彼らの中では「赤ちゃん=かわいい」がすでに前提とされており、したがって彼らは「かわいいはかわいい」と言っているにすぎない。そこにあるのは、単なる言語上の戯れなのだ(もちろん、赤ちゃんのことを「かわいい」と言う人が赤ちゃんを前にしてふざけていると言っているわけではない。そういう人たちの大半は、心の底からまじめに「言語上の戯れ」をしている)。

 これは、人を殺すことができない人間が「人殺しは悪だ」と言ってみたって説得力に欠けるのと似ている。たとえ同じ「人殺しは悪だ」という言明でも、人を殺せない人よりは人を殺せる人のほうが説得力がある。前者は彼らの世界がそもそもそういうふうにしかできていないのだから「人殺しは悪だ」としか言えないのに対し、後者は「人殺しは悪だ」という意見に与しないこともできる状況でなされる発言だからだ。つまり、前者は道徳的な主張に自身の価値観を守るための主張が混ざっていて主張の道徳性がピュアでないが、後者は人殺しについて前者よりも広い視野に立って吟味することで、より純粋に道徳的な主張をすることができるのだ(ところで、後者が人殺しについてよくよく吟味した結果、「人殺しは善だ」という結論をしたとしたら、それは「道徳的な主張」でありうるのだろうか?)。

 以上の点から、赤ちゃんを「かわいくない」と言うことができる人が、それでも赤ちゃんを「かわいい」と言ったなら、その発言には大きな価値があると思う。しかし、悲しいかな、そんな人は多くないような気がしている。大半の人は、「赤ちゃん=かわいい」の前提を無条件に信じ込んでいる人か、その前提に違和感を覚えつつも流されているだけの人だと思う。
 また、「言語的な戯れ」に囚われた人間は、自らの価値判断と異なる主張を理解できず、同時にそれを強く拒否する傾向があると思う。もしその人たちの前で「赤ちゃんはかわいくない」「人殺しは悪とは限らない」とでも言ってみようものなら、発言者はまるで道徳的に悪いことをしたかのように非難されるのだ!

 

4.命をこの世に生み出すことは「よい」ことか

 新しい命をこの世に生み出すことの善悪を問われたら、何と答えればよいのだろうか。「生きているだけですばらしい!」派の人たちにとっては「善」だし、「生きることは苦痛だ」派の人たちにとっては「悪」だろう。ただ、私自身は生きることそのものは単なる事実であり、そこに善悪はないと思っているので、両者の意見に与することができない。

確かに、自分がここに生きていることはまぎれもない不思議であり、一種の奇跡でさえある。私が生まれる前も世界は続いてきたし、死んだ後も無事に続くであろう世界、今私がただちにいなくなったとしても、それどころかもともと生まれなかったとしても、何一つ問題なく存続し続けるだろうこの世界で、私というものが現に存在する不思議。個人的には、この奇跡を味わえるなら、それだけで生まれてくるに値するとすら思う。

 しかし、この奇跡とてひとつの事実であり、価値がそれに先んじるわけではない。そして、問題はここにこそあるのだ。生きることが究極的には事実であり価値ではないとすれば、それは生きることの価値判断が定まっていないということ、つまり生きることの価値判断は善悪どちらにも流れうるということを意味する。先に述べた「生きているだけですばらしい」派と「生きることは苦痛だ」派の見解の相違は、その良い例だろう。

 私の考えでは、大部分の人間にとって、生きることに対する価値判断は、当人が生まれ育った環境が大きく影響する。才能や容姿、家庭環境、人間関係等に恵まれれば生きることを善と見なすだろうし、逆にそれらに恵まれなければ悪と見なすだろう。

 生まれてきたからには、生きていることを肯定してほしい。生まれてきてよかったと、これでよかったと、心の底から思ってほしい。親として、それはおそらく当然のことだ。しかし、子どもが生きることを肯定するような子育てが絶対にできるかと言われれば、否定せざるを得ない。それは親の力にあまることなのだ。俵万智の「親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト」(『サラダ記念日』)はまさにそのとおりで、子どもは親が育てるものであるとともに、親の意図とは別に勝手に育つものだからだ。子どもに生きることを肯定してほしいという親の意図に反して、子どもが自身の生を呪ってしまうことは普通にありうる。

 したがって、全体として見れば、生きることを呪う子どもの出現は避けられない。そして私は、そのような「ガチャ」に加担する気になれない。この「ガチャ」の対象は、単なるモノではなく、生きた一個の人格なのだ。命を新たに作り出すことは、ほかのどんな行為とも違う、越権行為としての要素があるのではないか?

 

5.おわりに

 私は、子どもを生み出すことが悪いことだと言っているのではない。むしろ、一般的に見れば良いことだと思っている。私は単に納得できていないだけなのだ。

 思うに、世界は構成員各々が自分のつとめを果たすことで成り立っている。私はおそらく自分の子どもと会うことはないだろうが、その分他の人たちが子どもを作り、そして大切に育ててあげてほしい――子どもが「生まれてきてよかった」と思えるように、あるいはそんなことなど改めて考える必要もないくらい、自身の人生を肯定できるように。

 未来に向けてまっしぐらに走ってゆく子どもたちの背中は、世界で一番頼もしいものだ。