申如録

日常生活で考えたことなど

違和感の話

違和感を覚えたことのない人は、おそらくほとんどいないだろう。目の前の現実があるべき姿と異なっているのをなんとなく感じたとき、何かおそろしい予感が頭をかすめたとき、あるいは、何かに失敗した後に「そういえばあのとき違和感あったな~」と後悔するとき。こうした場面では、誰もが少なからず違和感を意識するものと思う。

 

だが、それにもかかわらず、違和感の重要性を明確に意識して生活を送っている人は、むしろ少ないのではないかと感じる。違和感を覚える/覚えないの話はたまに聞くとしても、生活において違和感が有する重要性に言及している人を、僕はあまり見たことがない。

 

違和感の声に耳を澄ませることは、この世を上手く生きていくために、理性的な判断以上に有用なときがある。それは日常の些細なことに対してだけでなく、進路など将来にかかわる場面でも例外ではない。今回は、この不思議な魅力を持つ違和感について、思うところを述べていきたい。

 

1.違和感と行動

違和感について、手元の辞書に「しっくりこない感覚」との記載がある。これが示すとおり、違和感は「なんか違うな」という感覚、言い換えれば否定的直感のことだ。肯定的直感や欲望、義務などが行動のアクセルだとすれば、違和感は行動に対するブレーキの1つで、その行動が自分にふさわしくないことを教えてくれる。

しかも、違和感による選択は大体において正しい。というか、違和感を覚えるときは自分が無理をしているときか、自分にとって不自然なときなので、正しいのはある意味で当たり前のことだ。ただ、肯定的直感と否定的直感を比べてみたとき、両方とも直感の類であることに変わりはないのに、的中率に違いがあるのは不思議なことだと思う。「なんか違うな」というときはやっぱり自分に合わないことが多いが、「こうだ!」と思ってもそれが当たらないことはしばしばある。

 

話が逸れたが、違和感は自分にとって無理のないよう行動を制御してくれるブレーキであり、自らのよき理解者なのだ。違和感にいかに敏感になるか、そして違和感にしたがう勇気をいかにして持つか(なにせ違和感は直感の一種なのだから、現にそう感じてしまったこと以外に証拠はないのだ)、これは本当に大切なことだと思う。

 

2.違和感と道徳

また、違和感は個人の行動を規定するにとどまらず、もっと広いはたらきを有していると思う。それは、違和感が道徳の基礎に食い込んでいる、ということだ。この考えは、僕のある経験に基づいている。

 

以前、多額のお金が目の前にあり、かつそれを盗んでもまずバレないような状況だったため、盗んでしまおうかと本気で思ったことがある。そのときは幸いにも、盗もうという衝動が生じたと同時に、それに対する強烈な違和感を覚えたおかげで盗まずに済んだ。盗もうと思っていたときは、万が一それがバレたときのこととか、「汝の意志の格率が~」とか、そんなことは微塵も考えなかった。ただ、それをすることへの違和感が僕を押しとどめてくれた。仮に盗みがバレなかったとしても、その違和感を引きずって生きていくのは割に合わないように思われた。

 

悪の抑止のためには、懲罰への恐れや道徳的原則も効果的だろうとは思う。「なぜ物を盗んではいけないか」という問いへの回答は、「だって盗んでしまったら逮捕されるかもしれないから」とか「あなただって窃盗に遭いたくないでしょう、それと同じだよ」とか、そういう普通の回答で差し当たりは問題ない。

ただ、このような「普通の回答」で満足できるのは、そもそも本気で物を盗もうと思ったことがない、あるいは思っていないからだと思う。どうしても物を盗みたいとなれば、懲罰への恐れとか、道徳的原則とか、そういうものが何の効力を持つだろうか。

未来の自分が罰を受けないように行動しなければいけない、そんなことは、今現に盗みたくてたまらない僕自身とはあまり関係がない。未来の僕は逮捕されるだろうし社会的信用も失墜するだろう、それでもやはり盗みたいとしたら?

 

僕が物を盗まれたくないこと、それは僕にとって当たり前のことだ。だけど、だからといってそれが盗みをはたらいてはいけない理由になるためには、致命的な飛躍を経る必要がある。僕は飲みに誘われるのが嫌いだが、自分から飲みに誘うことはたまにある。「自分はされたくないけど、自分はたまにする」というのは、少なくとも僕にはよくある話だ。だから、「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」は、だいたいの目安にはなるかもしれないが、常に普遍性を持つほどの厳密さはない。僕が盗まれたくないことは、僕が盗まないことを保証できない。

 

思うに、悪の抑止に効果的なのは、懲罰への恐れや道徳的原則より、悪を為すことへの違和感なのではないだろうか。というか、悪を為すことへの違和感が、一方では懲罰というシステムを生み(あるいはそれに従い)、他方では道徳的原則として体系化されるに至ったのではないだろうか。現に僕は、懲罰への恐れや道徳的原則には救われなかったが、悪を為すことへの違和感には救ってもらえた。それは、前者がむしろ道徳の末端であり、後者こそが根本だからだ、と言ってしまうのは言い過ぎだろうか。

 

また、善を為すことへの欲求でさえも、違和感と綿密に結びついているように感じられる。電車で目の前に老人が立っていると違和感を覚えるし、同様に倒れている人を見過ごすことには大きな違和感を覚える。僕は「こういうときはこうすべきだ」みたいな原則に則っているわけではなく、いわば直感によって動かされている人間だが、やはり立派に道徳的なのだ。

 

3.違和感を取り戻す

とはいえ、僕は日常生活の中で違和感を十分に活かしきれていないとよく感じるし、僕以外の人についても、「本当にそれでいいの?」と思ってしまうような場面が多々ある。繰り返すようだが、過去に下した選択が好ましくない結果をもたらしたとき、よくよく思い返してみたら選択の際にかすかな違和感を覚えていた、あるいは違和感を無意識のうちに押し殺していた、なんてことはよくある話ではないだろうか。また、違和感を意識していながら、それにしたがう勇気がなかった、あるいはしたがうまでもないと思ってしまった、なんてことはよくある話ではないだろうか。もしそうだとしたら、僕たちは違和感にもっと素直になる必要がある。

 

なら、どうしたら違和感に敏感になることができるのか?

それは、何か複雑なプロセスを要するものではなく、逆に自分の中の余計なものを捨てて、身軽になることだと思う。心を落ち着けて力みを取り、古典や美術品など「良い」ものにたくさん触れること。フットワークの軽い人を見つけ、その人のまねをしてみること。決断に際しては腹をしっかりと据えて、違和感の声に耳を澄ませる習慣をつけること。これをめんどくさがらないこと。

こうしたことを繰り返す以外に、僕はいい方法を知らない。違和感にしたがう勇気は、違和感が敏感になるにしたがって、自然についてくる。加えて、違和感が敏感になるにつれて、それに従わないことがかえって違和感をもたらすことにもなるだろう。