申如録

日常生活で考えたことなど

「書く」の話

 文章を書く方法について、僕は手書きよりも断然タイピング派だ。キーボードをリズミカルに叩くのはとても気持ちがいいし、文章の修正やレイアウトの変更が楽にできる。もちろん、メモなどは手書きのほうが便利だと思うが、いざ文章を手書きするとなんだか疲れてしまう。要は力を抜いて文章を作れるタイピングが好きなのだ。

 

「書く」の用法の変化

 ところで、パソコンやスマホなど電子機器の普及によって、「書く」という言葉は、少なくともその用法において大きく変わったのではないかと思う。電子機器の普及以前は、手を文字の形に動かすことこそが「書く」ことだった。このことは、手元のやや古い辞書に「書く」の意味として①筆などで線を引く②文字をしるす③文を作る、の3つが挙げられていることからもうかがい知ることができる。

 しかし、電子機器が大いに普及した今となっては、手を文字の形に動かさなくても十分に書けるようになった。というより、電子機器を用いて文章を作ることを、われわれは「書く」と呼ぶようになった。「書く」という言葉の③の意味に、以前にはない用法が付け加わったわけである。

 

 私は、このことだけでも十分に驚くべきことだと思う。なぜなら、「書く」という動作が、おそらく歴史上はじめて変化しつつあるだろうから(電子機器のない時代に、手を文字の形に動かす以外に「書く」方法があっただろうか?)。だが、もう一つ驚くべきなのは、手を文字の形に動かさない方法で「書く」ことがスタンダードになりつつあることだ。以下、手を文字の形に動かす書き方を「A書法」、反対に手を文字の形に動かさない書き方を「B書法」として話を進めていきたい。

 

A書法

A書法は、上述のとおり、おそらく「書く」の最も古い形式であろう。ここでいう「最も古い」とは、人類史上における古さだけを指すのではなく、われわれが「書く」という動作を習得するにあたってA書法が起点となったことをも指す。われわれは原稿用紙での作文や漢字ドリルなどを通じて、すなわちA書法を通じて「書く」という動作習得の第一歩を踏み出したはずだ。この意味において、A書法は「書く」の根本だといえる。

 

B書法

 他方、B書法は、電子機器の登場により誕生した「書く」の新たな形式であり、文字の形とそれに形を与える動作が一致しないという、「書く」という言葉の用法における画期的な事件だ。これについては、タイピングを例にして具体的に考えてみたい。

 たとえば、パソコンで「あ」という文字を書きたいとき、われわれはキーボードの上に手を乗せ、左手の小指を真下におろすだろう。きわめて単純な動作、文字の形など微塵も感じさせないほどシンプルな動きだ。だがしかし、この動作によって、スクリーン上には「あ」という文字が現に表れる。「あ」はちゃんと書かれたわけだ。

 当然、このシンプルで不思議な動作は、繰り返されることで文章となる。レポート、論文、原稿、会議資料…。途方もない量の文章が、この動作によって日々「書か」れている。われわれが普段目にする文章の大半は、実はB書法によるものなのだ(A書法は今もなお用いられているが、そのほとんどは教育か書類記入かメモ書きにおける使用であり、割合としては多くはあるまい)。今では手書きの文章を読むことに、かえって新鮮味を感じるだろう。

 

 私は先ほど、A書法が「書く」の最も古い形式であることを理由に、A書法を「書く」という言葉の根本に置いた。だが、今では文章の大半がB書法によって書かれ、A書法による文章はかえって物珍しいものになりつつある。私は、このA書法とB書法のねじれ ―「書く」という言葉の根本にあるはずの要素がその使用においてはかえって周縁に追いやられている矛盾― が、単なる「基礎―応用」の枠組みを超えたものに思えてならない。このねじれは、何に起因するのだろうか?また、これから何をもたらすのだろうか?

 

 A書法とB書法のねじれに関する問いのうち、前者に対しては「文章が作られる場が紙面上から画面上に切り替わったから」というシンプルな回答に尽きる。問題なのは、後者への回答である。

 このねじれが「文章が作られる場が紙面上から画面上に切り替わった」ことによって生じ、「今では文章の大半がB書法によって書かれ、A書法による文章はかえって物珍しいものになりつつある」のだとすれば、「書く」という言葉においてB書法の占める重要性はこれからも増加し続けると考えてよいだろう。電子機器は今後も紙に取って代わり続け、B書法の場はさらに広がっていくだろうが、その逆を考えるのは難しいからだ。

 思い出していただきたい。A書法が「書く」という言葉の根本にあるのは、われわれが「A書法を通じて「書く」という動作習得の第一歩を踏み出した」からであった。だが、B書法が日増しに勢いを強める今、まさにその第一歩までもがB書法に取って代わられる可能性すらあるのだ。人が文字を「書く」ことを学ぶとき、そこに用意されているものは紙とえんぴつではなく電子機器、そんな日がくるかもしれないのだ。

 いや、その日はむしろ確実にやってくるとさえいえる。「今の若者は文字が書けない」としばしば言われるが、それは「書く」という言葉がその根本から(A書法からB書法に)現に変わってきていることの何よりの証拠だ。「今の若者」だって文章は書く。それがA書法である必要がなくなってきただけだ。そして、「今の若者」が大人になるにつれて、「書く」の根本にB書法を置く人の割合は、A書法を根本に置く人を上回る日が来るだろう。そうなってしまえば、「書く」の習得にあたって、A書法を重視する必要性はいったいどこにあるだろう?

 

C書法

 今、A書法からB書法への猛烈な変化が起きている。これについては上述のとおりである。だが、「書く」をめぐる展開はこれで終わりではない。テクノロジーの進歩に伴い、これからはB書法から「C書法」への展開もありうる。何が「C書法」なのかは断言できないが、A書法からB書法への展開を「書く」動作の簡略化のプロセスだととらえるなら、おそらくC書法は手をそもそも動かさないようなものだろう。つまり、C書法においては文字が肉体を経由せずに直接形を与えられる。たとえば、音声や脳波などによって。今でこそ音声等による文章作成は「(音声)入力」という言葉によって表現されるが、今後それらがより一般的になれば、次第に「書く」という言葉によって表現されるようになるだろう。そして、「書く」という言葉は、その用法をまたもや変化させるのである。

 

おわりに

本記事では、先に「書く」の辞書上の意味として①筆などで線を引く②文字をしるす③文を作る、が挙げられていると述べ、続いてその動作の変化について述べてきた。だが、辞書上の意味は、動作における変化の著しさにもかかわらず、これからもそれほど変わらないだろう。あくまで変わったのは「書く」に伴う動作であって、その意味ではないからである。辞書上の記述に変化があるとすれば、せいぜい「パソコン・スマートフォンなどで」や「音声入力ソフトで」等を加筆する程度だと思われる。これまで私が論じてきた「書く」の変化は、辞書上の意味に大きな変化を与えるようなものではないのだ。

また、本記事では「書く」に焦点を当ててきたが、以上のことは「作る」に類する言葉(たとえば、描く、建てる…)にも程度の差はあれ当てはまるだろう。だが、これ以上は疲れるのでやめておく。

 

 

【余談】

B書法では、文字がすべてフォントに回収されるため、読み手からすれば文章はいつ誰が書いても決まった形をしている。本論中では述べなかったが、これもとてもおもしろいことだと思う。文章は、以前であれば文字の良し悪しも評価されたであろうが、今やその内容だけが評価される時代になった。

たとえば、Twitterにいう「クソリプ」は、同じ内容でもそれが達筆で書かれていたらとらえ方は異なっていただろう。「このリプ、まるで的外れなことを言っているが、字はめちゃくちゃ上手いな」というように。だが、悲しいかな、画面上ではクソリプは単なるクソリプでしかありえない。もっとも、達筆なクソリプが来たとしても、実際は感嘆するより「こいつ自分の字に酔ってそうだな」とイラっとすることにはなりそうだが。