申如録

日常生活で考えたことなど

酷暑を懐かしんで

大いなるものが過ぎゆく酷暑かな

  久しぶりに歌を作ってみた。私がここで念頭においたのは時間である。6月中旬までの爽やかな気候とは打って変わって、下旬になると今までにない酷暑となった。しかし、あの酷暑もすでにおさまり、今や気温は平年並みである。数か月後にはまるで何事もなかったかのように寒くなるのだろう。
 今まではなく、今まさにあり、今後なくなるであろうこの暑さに、われわれは何を見出すべきか。この暑さがどうなろうとわれわれは変わらない。だとすれば、果たしてこの暑さに動きはあるか、ないか。よくよく考えねばならぬ。

春過ぎて夏過ぎ秋冬また春へ 流る季節と流れぬ川床

眠られないよるのたわごと 2

オフの日

頭が重いと思ったら
低気圧がのしかかっていた

足が重いと思ったら
地球がぶらさがっていた

気持ちが浮かないと思ったら
過去がまとわりついていた

なんでもない一日
ひねもす窓の外を眺める

街路樹

街路樹に申し訳ない
ひとの都合でこんなところに植えてしまって
すぐ横では車がびゅんびゅん走っているし
地表はアスファルトで覆われている
酔った人が根本めがけてげろを吐いたりもする

街路樹に申し訳ない
ひとの都合でこんなところに植えてしまって
のびのびと生きているだけなのに
それがまるでいけないことみたいに
定期的に剪定されてしまうのだ

そんなことを思いながら歩いていたら
ふと暖かいものが胸に流れこんできた
「大丈夫だよ、問題ないよ」
なんと超然としたやさしい態度だろう
私の申し訳なさもひとの都合にすぎなかったのかもしれない

詩のサブスク

「年額15,000円で詩集が毎月家に届きます」
古本屋で本をめくっていたらそんなハガキが挟まっていた
毎月詩集が家に届くなんてこれは素敵だ
15,000円という金額もなんだかちょうどいい

昨日はじめて詩集が届いた
中身はいったい何だろう?
その場で開けたい気持ちを抑えて部屋に戻る
そんなそわそわが楽しくて

包みのなかに入っていたのは
文庫サイズのきらぼしのような装丁
私の好きな詩人の詩集!
幸先のよい一冊目

ひとが生きていくためには
出会いと場所があればいい
願わくばこのサブスクが
多くのひとに愛されますように

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たわごと 1 はここから

かたじけない

 私が普段使うものは私が作ったのではない。私の服も、パソコンも、家も、私が作ったのではない。道も、電気も、水も、空気も、私が作ったのではない。私は自分に対して何もできていない。ましてや他人や世界に対してはなおさらである。それなのに、私はすべてをお膳立ていただいている。ありがたいが、申し訳ない。

 昨日、奈良の吉野を歩いていたら、道ばたの不動明王像を掃除しているおばあさんに会った。私が「私は普段から何事も使わせてもらうばっかりで、今回の吉野もお参りするばっかりで、こうしてお掃除していただいてありがとうございます」と言ったら、おばあさんは「遠い所からよう来てくれて、お不動さんも喜んではるわ、ほら!」と不動明王の顔を指さした。

 不動明王の怖い顔が心なしかやさしいようで、私は来ただけなのにそれでもうれしいと言ってもらえて、久しぶりに声を出して泣いてしまった。

食う寝るところに住むところ

 こんな夢を見た。

 お椀型の、それもほとんど台形に近いような丘の頂上付近に私がひとり立っている。麓から途中にかけては木が生い茂っているが、頂上に近づきいよいよ地面が平たくなってくると、そこはすべて白いコンクリートで塗り固められ、頂上の私からは木がまったく見えない。私は周囲の白いコンクリートを見渡し、また頂上から街の景色――都会なので道がすべてコンクリートで舗装されている――を見下ろし、「ああ! 地面はすべてコンクリートで覆われてしまった! 地面が、地面が必要なのに!」と叫ぶ。

 コンクリートで舗装された地面はわれわれの生活に必要不可欠だが、ちょっと多すぎる気がする。というか、コンクリートは人間が歩くためのもので、土は木が生えるためのもの、みたいなすみ分けができてしまっている気がする。それは間違いではないのだが、われわれはコンクリートによって生きると同時に土によっても生かされている、ということが忘れられているのではないか。われわれの身体は、コンクリートだけで生きられるほど固くない。

 物件の価値は、築年数や広さ、都心へのアクセス、駅からの距離などによって決まる。だがいずれは、「近くに土がある」とか「空気がきれい」「水がおいしい」などの要素も重視されるようになるのではないか。それがなければ生きていけない物の質が高いということは、シンプルに価値あることだからだ。

 明日から奈良に行く。奈良の山を歩き、きれいでおいしい空気と水をいただき、体内をぴかぴかにしようという算段である。

数式の共通性と独在性

 小学生のころ、「数式は世界共通の言語だから誰とでも通じ合える」と聞いて不思議に思ったのを覚えている。たしかに数式の内容は誰にでも伝わるかもしれないが、僕が数式を作ったり理解したりするときのあのイメージは誰にも伝わらないのだから、数式は誰とでも通じ合えるなんてうそじゃないか。

 数式で伝えられないものがあるとすれば、それは数式を扱っているのが私だということだ。数式は誰にでも通じるがゆえに、それを扱う主体を限定することができない。扱う主体は誰であるかはどうでもいいのだ。

 いま思い返してみれば、あのときの違和感は独在性の伝わらなさへの気づきだったのだろう。ほかならぬ私が存在するということは、数式とは徹底的に折り合いが悪い。数式を扱うのが私だということが、どこにも書けないからだ。

 では、いったいどこになら書けるのだろうか? 私の血で書かれたものは。

神はどこにいるのか

 私は特定の宗教を信仰しているわけではないが、神はいると思う。

 私のいう〈神〉は、おそらくみんなが漠然と(あるいははっきりと)考えるような「神」とはちょっと違う。私にとっての〈神〉は、たとえば目の前にりんごがあるのと同じように物体として存在するのではなく、かといって抽象的な概念として存在するのでもない。完全とか全知全能とか、一般的な神にまつわるタームはそもそも〈神〉には関係がない。

 〈神〉とは、私の存在や私の世界の裏側にべったりと貼りつき、しかもそれを内側から成り立たせるような「大きさ」である。それは私や世界の根拠なので、私はただ「お任せする」しかない。

 〈神〉については、『老子』第25章の次のような表現が参考になる。むしろ私がここで〈神〉と呼んでいるものと『老子』第25章で「道」や「大」と呼ばれているものは同じだと思う。

有物混成、先天地生。寂兮寥兮、獨立不改、周行而不殆。可以為天下母。吾不知其名、字之曰道。強為之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。
何やらひとまとまりになったものがあり、それは天地が生じるよりも先に生じている。音も無く形も無く、それ自体として存在して変化せず、あらゆるところに行きわたってとどまることがない。この世界の母だと言えよう。私はその名前を知らないので、仮に「道」と名付けておく。強いて名付けるなら「大」とも呼べる。「大」とは「逝(過ぎ行くもの)」であり、「逝」とは「遠(遠ざかるもの)」であり、「遠」とは「反(返ってくるもの)」である。

 私のいう〈神〉も強いて名付けたものにすぎない。

 〈神〉への気づきは、知的側面においては存在への驚きから始まり、身体的側面においては存在への畏れから始まる。存在への驚きとは、存在しないこともありえたのになぜかあるという驚きであり、存在への畏れとは、存在が私の手に負えないと自覚したとき自ずと湧きあがる畏れである。

 前者の「存在しないこともありえた」は極めて重い。
 これは「世界がこの世界であることは数限りない可能世界のひとつがたまたま実現したものだ」とかそういう確率や事象内容の話ではなく、この世界が端的に存在しないことが十分にありえた(むしろ存在しているほうがおかしいのではないか)という恐怖にも似た直観である。
 世界の存在の端的さとは、すなわち世界が底なしに無根拠だということであり、この無根拠さを自覚するとき、あたかも自分が真っ暗な穴の上に浮かんでいるかのようなグロテスクな感覚に陥る。その感覚からひるがえって、世界が存在することの奇妙さに心打たれ、驚くのである。

 後者の「存在の手に負えなさ」もまた極めて重い。
 私がいなければ世界は存在しないという意味において、世界とはすなわち私の世界である。だから、世界は私のものだと(この意味では)言える。
 しかし、それにもかかわらず、存在は常に私を超えてくる。私や世界の内容は変えられるとしても、存在という土俵自体はどうしたって変えられないのだ。このようにして、存在は私の手に負えないものとして現れてくる。
 存在の手に負えなさは、世界の大きさの経験である。ここでの「大きさ」とは物理的な大きさのことではないから、「途方もなさ」と言いかえてもよかろう。自分をはるかに上回る存在の大きさ、途方もなさを、無力感とともに畏れるのである。

 上記の「知的側面=驚き」と「身体的側面=畏れ」はまったくの別物ではなく、むしろ互いに通じ合っている。知的側面としてあげた驚きもそれ自体は身体の反応だし、身体的側面としてあげた畏れも知性がなければそれが畏れだとはわからない。両者の根底にあるのは、現存在としての私である。驚きも畏れも、それを私が感じることによってのみ意味を持つ。

 そして〈神〉は、現存在としての私の根底にあるものである。無根拠な大きさ――それはもはや形も内容もなく、とらえどころもない。しかし、それでもやはり〈神〉は私に対してあり、また私においてある。
 もし私においてあるのでなければ、神と私とは文字どおり何の関わりもない。私はそのような神に用はないし、神だって私に用はないだろう。

 〈神〉はいるか。いる。その問いそのものがすでに〈神〉だ。
 しかし、〈神〉はいない。〈神〉はほかならぬ私においてあるのであり、他人と共有できるような形では(したがって言語表現に乗るような形では)存在しないし、できない。

 もうあまり考えるのはよそう。頭だけで考えてもしかたない。
 大きいものを前にしたとき、放心する。自然と頭が下がる。それでよい。まずはそのような場所に行ってみることだ。それ以上のものをあらかじめ想定する必要などない。

 祈りは何に向けたものか。神か。違う。〈神〉だ。
 それゆえ、祈りは何にも向いていない。いや、〈神〉に向いてはいる。しかし、〈神〉とは存在の根拠であるがゆえに全方向であり、かつ無方向である。どこを向いてもいいが、どこを向いてもしかたがない。だから素直に祈ればよろしい。祈ることは、届くことだ。

 もう「お任せする」しかないではないか。

 そうはいっても、私は〈神〉の存在を信じきれないときがある。存在の無根拠さに驚き、存在の大きさを畏れるには、まだ集中力が要る。

 私はきっと罪深いのだろう。