申如録

日常生活で考えたことなど

座標と無

 私は学生のころ鈴木大拙(以下「大拙」)がとても好きで、彼の全集を読んでみては何やらわかったようなわからぬような気持ちになっていた。つい最近、岩波文庫から彼の『神秘主義 キリスト教と仏教』なる著作が出て、それは初の日本語訳であるとのことなので、久しぶりに大拙を読んでみることにした。
 この記事を書いている今はちょうど全体の半分を過ぎたくらいで、まだ読み終わってはいない。内容云々はさておき、私としては大拙らしい内容に触れられたことが懐かしく、また学生のころよりもわかったような気持ちがだいぶ増していてうれしく思う。
 以前は大拙(あるいは同時代の西田など)の常套句ともいえる「絶対」「無限」「永遠」「無」等に出会うたびにわかったようなわからぬような気持ちになっていたのだが、今はこれらの言葉が指し示すものを多少なりとも掴んでいる感触がある。
 思うに、「絶対」「無限」「永遠」「無」とは私の認識を離れて遠くにあるものではない。むしろそれはあまりにも明々白々な、たとえば空が青くて雲が流れることそのものである、私が今ここにいることそのものである。この記事を書いている今であれば、自転車が通り過ぎる音、Microsoft surfaceのきれいな画面、風呂上がりでさっぱりした肌、口に広がるパルムの風味。そうしたことがそのまま「絶対」「無限」「永遠」「無」である。ここで大切なのは、「そのもの」「そのまま」をちゃんと守ること、換言すれば力をしっかり抜き余計な作為を与えないことだ。自転車が通り過ぎる音を「自転車が通り過ぎる音」と表現すれば、自転車が通り過ぎる音は実は死んでしまっている。この勘所を押さえておかなくてはならない。

 大拙の言わんとしていたことが多少わかってきた今だからこそ「絶対」「無限」「永遠」「無」についていろいろ言えるのだが、このことを人に伝えるにあたってはこうした表現ではやはりよろしくない。なぜって、この表現ではあまりにも説明不足でとらえどころがなく、端的にわかりにくいからだ。日常ではあまり意識しないことを日常ではあまり使わない言葉で表現しておいてさあそれを理解しろって言ったって、うーんいまいちわかりませんと言われるのがオチでしょう。もちろん大拙とてこれらの表現だけを使っているわけではなく、手を変え品を変え様々な方便を使ってくれてはいるけれども。
 「絶対」「無限」「永遠」「無」とは言語であって言語でなく、むしろ言語の拒否を示すためにやむを得ず使っている言語なのであって、それを直に伝えるにはたとえば相手の目の前にずいとゲンコツでも差し出して「これがわからんか」とでも言ってやるのがよいことは私にもわかる。大拙がそうした中でなんとかして言葉で広くそれを伝えようと苦心して、慈悲の心あるいは老婆心からそうした言葉を何度もしつこいくらい繰り返していたこともわかる。また、それはあまりにも明々白々であるがゆえにかえって言語表現には乗り得ないこともわかる。
 しかし、指し示すべきものが言語表現に乗らないほど明々白々であるからといって、表現までスッパリ直截にしてしまってはどうもとらえどころがなさすぎるではないか。……まったくこの老漢め、わかりにくい言葉で若者をたぶらかしやがって、そんな表現を使わずともそれはここにあるじゃないか。呵呵。

 こんなことを考えていたら、ふと「座標」という言葉が浮かんできた。座標。平面または空間で数直線が直交する点としておなじみのあの点である。私はこの「座標」という言葉が浮かんだ刹那、大拙のいう「絶対」「無限」「永遠」「無」はもしかすると「時間と空間における座標のなさ」として新たに表現できるのではないか、と思った。
 時間的・空間的に座標を持たないものなどあるのか。答えは、ある。少なくとも私のこれはそうだ。われわれの存在のもっとも当たり前のところ、そこに座標のなさはあるはずだ。そしてこの「これ」は、大拙のいう「絶対」「無限」「永遠」「無」と同じものであるはずだ。少なくとも私が大拙を読む限りではそのように読めた。もしそうでなければ、私はこの「絶対」「無限」「永遠」「無」がいったい何なのかさっぱり理解できない。
 座標を持つものは、世界のすべてである。世界のすべてには時間的・空間的な座標がある。いかに抽象的で普遍的だと思われているものであっても、それがこの世界の出来事である限り、それ自体は「いついつの時にどこどこの場所で」のものであることを免れない。したがって、時間的・空間的な座標がないならば、それはこの世界内の出来事ではない。たとえば神は時間的・空間的な座標を持っていないが、それは神がこの世界内の出来事ではないからである。
 私のいう「これ」は、この意味において、すなわち時間的・空間的な座標を持っていないという意味において、いわば神に類している。誤解されないように一応言っておくが、これは神のようにえらいとかすごいとかそういう意味ではもちろんない。私のいう「これ」、および大拙のいう「絶対」「無限」「永遠」「無」は、時間的・空間的な座標を持っていないというただその一点において、他のいかなる出来事に比しても別格だということである。したがって、厳密にいえば「これ」の比類なさは神をも凌駕する。そもそも他のすべてを凌駕すること、他のすべてが同じ土俵にすら立てないことこそが「これ」なのだから。

 私のいう「これ」とは、そこから世界が開けているような、いや世界の開けそのものである。これを時間的にいえば「今」になるし、空間的にいえば「これ」になるし、人称的にいえば「私」になる。(空間的な表現として「ここ」を使いたくなるかもしれないが、そうはいかない。確かに「今」「私」と「ここ」は近いものを指すという共通の用法を持ってはいる。しかし、遠くに見える富士山も私のいう「これ」に含まれるのであって、遠くの富士山の見えを「今のもの」「私のもの」とするのは自然だが、遠くの富士山の見えを「ここ」という言葉で表現するのはどうも不自然である。したがって、空間的な表現については「ここ」ではなく「これ」を使うことにした。)
 ここで注意しておきたいのは、その「世界の開け」には時間的・空間的な座標は必要ないということである。それが「今」であることは「今」が2020年6月16日であることとは関係がないし、それが「(空間としての)これ」であることは「これ」が東京都足立区であることとは関係がない。「今」はあらゆる時点にあるだろうし、「(空間としての)これ」はあらゆる地点にあるだろう、人称についても「私」はあらゆる人点?にあるだろう。世界の開け、すなわち「これ」はその存在だけが問題なのであって、その内容がどうであるかは無関係なのだ。時間的・空間的な座標は世界のすべてに適用されるのだが、しかし実は「これ」という世界の開けの中でのみ適用される概念にすぎない、ともいえるわけである。
 ここまで読み進めてくると、あたかも「これ」がわれわれの世界そのもののように思われるかもしれない。ある意味でそれは正しい。それを正しいと見なす地点に立つことこそがわれわれを客観的世界に位置づけることであり、その客観的世界を離れてわれわれは生きることができないからだ。
 しかし、この世界の開けである「これ」は、それがない世界などおよそ考えられないにもかかわらず、その存在を他者に対して証明することは決してできないということは理解しておかなくてはならない。心せよ。あなたが今この文章を読んで理解したことは、私の伝えたかったことではないし、私の伝えたかったことであってはならない。これはあなたの読解力の問題ではなく、原理的にそうあらざるを得ない問題なのだ。「これ」は私が今現に生きていることの証だと私は主張したいしぜひそうすべきなのに、それが原理的にできないようになっている。これは実に驚くべき事態ではないだろうか? 少なくとも私は、このことに心の底から驚けたなら、生まれてきた甲斐があったことになるとさえ思っている。
 余談だが、ここまでくると次のような問いが生じるだろう。すなわち、「これ」がもし他者に原理的に伝わらないものだとしたら、「これ」はほんとうにあるのだろうか? 

 この問いについて考えると長くなるので省略するとして(しかしこの問いの妙味はしっかり味わってもらいたい)、「これ」の座標のなさに話を戻したい。
 まず前提として、「これ」には座標はないが、私には座標がある。(ここでいう私とは、先に鍵括弧つきで表現した「これ」の人称表現としての「私」ではなく、客観的な一個人としての私である。したがって、この意味で私という語と使うときはあえて鍵括弧を使わない。)この「これ」と私の区別は非常に重要である。「これ」の座標のなさについては上述したとおりだが、他方の私は時間的・空間的な連続体であり、「いついつの時にどこどこの場所で」によって個人を特定することができる。
 さて、この2つのことを区別すると、たちまち奇妙な事態に気づくだろう。時間的・空間的な連続体としての私に、世界の開けとして存在むき出しの「私」がくっついているのである。いや、「私」がそれ自身について自覚する際は、時間的・空間的な連続体としての私を通じるほかない、と言ったほうが正しいかもしれない。ともかく、座標のあるものと座標のないものが分かちがたく結びついているのである。これを例えていえば、2次元平面上の点Aに、点Aとは異なる何かが、しかし外からは絶対に見えない何かがあると言うようなものだ。われわれは皆、そんな不可思議な点Aなのである。
 「これ」には座標がないのだから、時間的・空間的な連続体の私が「これ」を持っていなかったとしても何らおかしいことではない。そもそもそれら2つが結びついていることのほうがおかしな事態なのだ。現に私以外の70億人は、私から見れば「これ」抜きで平穏無事に暮らしてきたし、今も暮らしているし、これからも暮らしていくのだろう。また、私がまったく同じ状態の2人(A、B)に分裂し、片方(たとえばA)が監禁されたとしても、もう片方(B)は何事もなくそれまでの私としての人生を送ることができる。監禁されたAからすれば、「これ」のないBは姿形および立ち振る舞いが私そのものであってもまったくの他人であり、それゆえAとBとの間には別格の比類なさがあるのにもかかわらず、である。

 話が遠回り過ぎてよくわからなくなってきたが、とにかく大拙の「絶対」「無限」「永遠」「無」は私のいう「これ」に等しく、「これ」には今まで述べてきたような側面があると個人的には思っている。したがって、「これ」について当てはまることは「絶対」「無限」「永遠」「無」にも当てはまる。もちろん、以上で「これ」について語り尽くせたとは微塵も思っていないし、私としてはスピリチュアルな側面も欠かせないと思うのだが、残業続きで眠いので今日はもうやめます。尻切れトンボですみません。 

【追記】
 よく禅の公案で「父母未生以前の本来の面目は何か」というようなものがあるが、その答えは「これ」の座標のなさに思いを致せば自ずと明らかだろう。もちろん答えは「これ」である。父母が生まれる以前の本来の面目など文字どおりの意味では存在するはずがなく、したがって答えは時間的座標に関係しない面目、すなわち「これ」しかありえない。もっとも、ひたすら「これ」を繰り返してばかりでは問答にならない(「絶対」「無限」「永遠」「無」ばかりでは伝わらない!)ので、そこは臨機応変にいろいろ表現を変えてみるべきではあろう。 

【追記その2】
 こんなとりとめもない文章を書いていたら、もしかしたらすべてはすでに赦されているのかもしれない、という気がした。私がここにいて、ここにいるという事実それ自体が私には赦しなのかもしれない、と思った。もちろん私の悪いことには底がない。しかし、ここにいるという事実にも底がない。小さいころから、はやく死ななくちゃ、生まれてこなければよかったって何回も何回も思ってきたけれど、私はいま、ここにいる! ざまあみろ! 生きていることは、そんなに悪いことじゃなかったぞ! がはは!

新型コロナウイルスについて思うこと その2

 新型コロナウイルス(以下「コロナ」)について、その1では「感染の意味の変容」と「道徳性の変容」について述べた(ような気がする)。今回は、コロナが壊したものについて述べていきたいと思う。私はいま東京に住んでいるから、東京での暮らしを主に念頭に置いて書き進めていく。

 コロナは感染拡大以降、われわれの生活様式を大きく変えてきた。通勤通学、外食、コンサート、スポーツ等が「不要不急」なものとして退けられ、生活には必要最低限のものが残された。コロナに対するわれわれの行動はあくまで自粛という一種の雰囲気によって行われたものであり、したがって完璧に厳密に要不要の選別が行われたわけではないにしろ、大まかに言えば緊急事態宣言下でも残ったものは生きるためのものであり、残らなかったものは生きるためには二の次のものであった。
 私はコロナによるそうした変革を一種の「洗濯」だと考えている。われわれの生きる社会における停滞した部分にガツンと一撃を加えて白紙に戻し、そこから新たに暮しを作り上げていくための洗濯。歴史書をひもとけばこうした洗濯の例はいとまがなく、またわれわれは文字どおり歴史に名を残す巨大な洗濯のさなかにいるのである。
 今まであったものの中でコロナが壊したものはたくさんあるだろうが、その中でも私は時間というものに注目している。時間は確かに今でも流れていて(私がこれを書いているのは「現在」だが読者はそれを「過去」と見なすだろう)、それは疑いえないのだが、他方でめちゃくちゃに壊れてしまった時間も確かにある。この時間が壊れるというビッグイベントだけでも十分興味深いし、それでもなお流れ続ける時間という一見矛盾した存在およびこれら二つの時間の関係性もまた興味深い。
 以下に述べる私の意見はいくつかの書籍を参考にしているが、それについては最後に列挙しておく。(この記事を書くにあたって直接参考にしたわけではないけれども、私の考えの形成に大きく寄与した書物であり内容の重複もあると思われるのでそうすることにした。)

・コロナで壊れた「時間」

 先に答えを言ってしまえば、コロナで壊れた時間とは「スケジュール的時間」のことである。音楽関係の仕事をしている友人の話によると、向こう2年間のコンサートのスケジュールがパァになってしまい同業者はみんな頭を抱えているという。また、教育関係の仕事の話をしている友人の話によると、学事スケジュールがまったくわからず頭を抱えているという。スケジュールという概念はわれわれの暮らしに必要不可欠であったはずなのだが、それが今やあまり意味のないものと化しているのだ。もっとも、私はそういう概念がもとから無意味(ある意味で)だったことがコロナによって暴露されただけだと思っているけれども。

・スケジュールは何から生じるか

 当たり前の話だが、スケジュールはカレンダーに基づいている。ここでいうカレンダーとは何の変哲もない、1年を1月から12月までの365日で記述するあのカレンダーである。カレンダー(厳密には太陰暦だろうとマヤ暦だろうと暦でありさえすればなんでもよい)がなければわれわれはスケジュールという概念を理解できず、その日その日の暮らしをしていくしかなくなってしまうだろう。1日を時間・分・秒で分けることもこれと同じであり、要するにカレンダーとは時間を区切って整理する仕組みのことだ。
 ではカレンダーは果たして何からできているかというと、すべての時点を等質なものとして見なす態度から生じている。その態度とはすなわち2020年3月1日は2051年6月30日と同じ一日であるとする態度であり、その時点がいかなる時点であってもそれ自体の特別性は認めない態度である。この態度に立つかぎり、ある時点が過去または現在または未来であることは単なる偶然なのであって、その区分は他のどの時点にも当てはまるからそのことに何ら特別性はないとされるのである。実は現在がその日その時点であることは端的に奇跡なのだが、この態度に基づくかぎりその奇跡性は常に忘れ去られてその他の日と同じ単なる一日にすぎないと見なされる。このような態度を身につけることがすなわちカレンダー的時間把握を身につけるということであり、逆にこの態度がなければ、つまりすべての時点のうち特定の時点を別格のものとして取り扱ってしまうならば、そもそもカレンダーは生じえない。(ここでいう「別格」とは特定の時点以外は「現在」として認めないとかそういった「別格」である。そう考えると、すべての時点を等質なものとして見なす態度とはごく一般的な常識的な態度であることがわかるだろう。)

・時間の等質化の行き詰まりとリアル時間

 しかしながら、コロナはこのすべての時点を等質なものとして見なす態度をわれわれから剥ぎ取ってしまった。これまでのわれわれは未来が過去・現在と地続きであることを無意識のうちに前提していたが、今や過去・現在・未来を等質なものと見なすには未来があまりにも不確定になってしまったのである。これまでのやり方ではうまく立ち行かない、あるいは何とか持ちこたえたとしてもわれわれがそうしたやり方に納得できない、コロナは幸か不幸かそういうステージをもたらしてしまった。これをカレンダーに絡めていえば、もちろんコロナがあろうとなかろうと未来(たとえば2020年8月10日)はやってくるのだろうが、未来における状況がまったくわからない以上カレンダーに書き込むべき内容がなく、それゆえ過去・現在・未来を等質なものとして見なす態度がしっくりこなくなってしまったのだ。
 ところが、時間はちゃんと流れている。カーテンを開ければ木の枝が風にそよいでいる。私が朝ご飯を食べたことは過去だし、文章を打っているのは現在だし、寝る前のトイレは未来である。先の「スケジュール時間」と対比し、これを「リアル時間」と呼ぶことにしよう。さて、一方では時間が壊れておきながら、他方では平穏無事に時間は流れている……この差はいったい何なのだろう?

・二つの時間の関係性

 「スケジュール時間」と「リアル時間」の関係はいたってシンプルで、まずは端的に与えられたリアル時間があり、それを他の時点と並列化するとスケジュール時間が生まれる(実はスケジュール時間がなければリアル時間についてそれが何なのかがそもそもわからず、それゆえ両者はマトリョシカ的な入れ子構造をしているのだが、私はそれでもリアル時間を核に据えたいのでこのような表現をしている)。一般に並列化とは端的な「これ」を数あるものの一つとしてとらえること、すなわち概念を使うことであり、それゆえスケジュール時間の成立には言語が深くかかわっている。言語を持たない動物はおそらくリアル時間だけがあってスケジュール時間がない。
 さて、リアル時間を他の時点と並列化することによって生まれたはずのスケジュール時間は、今度はリアル時間をその内に取り込みはじめる。リアル時間には「○時○分」という表記などまったく関係ないのにもかかわらず、それが常に「○時○分」のことだとして理解されるのは、リアル時間がスケジュール時間の内に位置づけられているためである。リアル時間はそれが端的な唯一の現在でありそれ自体はスケジュールとは関係ないという点でスケジュール時間から常にはみ出るが、スケジュール時間はリアル時間を常に内側に回収し続けるのだ。
 結果としてスケジュール時間のうちの一時点にすぎないと見なされるとしても、リアル時間がなければスケジュールの中でどれが端的な動く現在なのかわからない(それゆえリアル時間がなければ過去・現在・未来の区別がそもそも意味を持たない)から、リアル時間は時間の核だといえる。われわれはスケジュール時間のある時点について考えるとき、このリアル時間(の影)を投影せざるをえないようにできているのである。
 ただし、それほど時間にとって重要なリアル時間ではあっても、その存在を端的に指し示す言葉は実は存在しない。リアル時間という言葉はスケジュール時間に常に取り込まれることによって「いついつの今」という並列化されたあとの意味で解釈されざるをえず、それゆえこの唯一のものであるはずのリアル時間はいつの時点でも当てはまるものとして理解されてしまうからである(私の言うことを読者が理解できたとしたら、それは言語の持つこの機能のおかげであり、その機能ゆえに実は私の言うことを理解できていない)。リアル時間は、そのときそのときのわれわれ自身によって直接に捕まえ続けなければならない。

・大ざっぱなまとめ

 以上の大ざっぱな議論を大ざっぱにまとめると、リアル時間は生々しい現実そのものでありスケジュール時間は概念だと言うことができる。要はわれわれによって直接に生きられているのがリアル時間であり、機械的に数直線的に並んでいるのがスケジュール時間なのだ。
 コロナはスケジュール時間を壊した。ということは、われわれはスケジュール時間からいったん離れ、リアル時間に身をひたすチャンスのさなかにいるのだ。思い返せば、われわれは確かにスケジュール時間に支配されすぎている。今は過去の結果であり未来の準備期間である、そんな考えがあまりにも当たり前になっている。もちろん、スケジュール時間は時間把握にとって不可欠ではあるのだが、われわれは時間というものと付き合うにあたってもう少し力を抜いてもよいのではないか。われわれの生きるこの世界はリアル時間こそが核なのであって、たとえば未来の試験のために今あくせくするのは本末転倒なのではないか。空を見上げたらさっきあったはずのひこうき雲は消えていて、そのかわりにひつじ雲があって、じゃあ経験上2日後くらいに雨が降るかもしれないなと思う、それでよいではないか。スケジュール時間に支配されすぎたわれわれに、リアル時間の大切さを再認識すべきときがきた。この今、すべての出来事が起こっては消えていくこの今、なぜか常に今のこの今、これこそがわれわれが生きている証なのだ(この「今」の構造を見抜いたならば私が「われわれ」という言葉を気軽に使っていることに違和感を覚えるだろうが、私は感動的な雰囲気を出してみたくてこの表現を意図的に使っている)。
 ただし、繰り返しになるが、リアル時間は本来「リアル時間」などという言葉で指し示せるものではない。リアル時間という言葉はすべてのリアル時間に当てはまる、つまりあらゆるリアル時間を並列化しているという点でスケジュール時間と根は同じだからである。リアル時間はその概念を使う自分自身が常にその概念を乗り越えつつ自分自身でとらえなければならない。今であればこの文章を読んでいるそのときがリアル時間だし、スマホの画面からぱっと顔を上げて目に飛び込んできた景色がリアル時間である。それは、他の誰でもないこの私、100年前はなかったし100年後もないであろうこの私、自分自身がこの場で2人に分裂しても両方に残ることはなくなぜか片方に残るであろうこの私と密接に関係している。私があるのと同じように、今があるのは奇跡である。コロナによるスケジュール時間のほころびはこの奇跡を味わうための良い機会である。

 あらゆる概念はいつか内側から瓦解する。概念とは生(なま)の現実からの遊離であり、それ自体は生の現実を把握するためのものだから不可欠であるにしろ(先にも言ったが概念の助けがなければ生の現実がそもそも何なのかわからないだろう)、その不可欠であるはずの遊離がめぐりめぐって概念を殺すのだ。概念は自身の本質によって死ぬ運命にあるのである。そして、いったん概念が瓦解し始めてしまったらもうどうしようもなく、われわれにできることはその成り行きを見守ることしかない。
 概念が生の現実から遊離するということは、逆に言えば生の現実は常に概念からはみ出ているということだ。その「はみ出」は変化とも呼ばれる。今回時間という概念が被ったほころびも、リアル時間のスケジュール時間からのはみ出=時間概念そのものの変化によるものである。
 すべての概念はあらゆる生の現実を反映し固定化しているように見えながら、実はそのすべてが刻々と姿を変えつつある。そして、生の現実の変化が概念の瓦解を生じさせるものだとすれば、生の現実の変化自体は既存の概念のうちにはないということであり、われわれはここで変化の妙を味わわなければならない。
 この生の現実の背後には巨大なうねりがある。われわれが自身の力で何かをしているつもりであっても、その背後にはこの巨大なうねりが常にあって、われわれ自身が何かをすること自体を可能にしているのだ。私はこの生の現実に身をひたすとこの巨大なうねりがどうしても意識される。そしてそれはスケジュール時間よりもはるかに大きな射程で過去・現在・未来をカバーしているだろう。

 生の現実に立ち戻れ!

 

・ついでの話

 個人的な意見だが、リアル時間は身体に、スケジュール時間は理性に関係していると思う。コロナのおかげで理性の時間が壊れたのだから、今度は身体の時間を取り戻すべきだろう。時間と付き合うにあたって、またそれ以外の場面においても、人類は身体(と外界をつらぬくコスモロジー)を意識しなさすぎている。
 最後に暦について一言。身体の時間に対応しているのが太陰暦で、理性の時間に対応しているのが太陽暦だと個人的に思っている。宇宙の陰陽の気は絶え間なく流転しつつ身体をすっぽり包み込んでいて、太陰暦はこの陰陽の気に概ね対応している。健康である。

【参考図書】

 これらの他にも時間に関する本を読んだ気がするが、あまり覚えていないし列挙するのも面倒なので省略する。運命論に関する本はあまり関係がない気がしたので挙げなかった。

A.ベルグソン著、熊野純彦訳『物質と記憶岩波文庫、2015年。
E.フッサール著、谷徹訳『内的時間意識の現象学ちくま学芸文庫、2016年。
J.E.マクタガート著、永井均訳『時間の非実在性』講談社学術文庫、2017年。
M.ハイデガー著、熊野純彦訳『存在と時間岩波文庫、2017年。
山拓央『心にとって時間とは何か』講談社現代新書、2019年。
入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書、2002年。
大澤真幸永井均『今という驚きを考えたことがありますか』左右社、2018年。
鈴木康夫『AZUSA SYNDROME』万象企画、2017年。
滝浦静雄『時間―その哲学的考察―』岩波新書、1976年。
永井均存在と時間 哲学探究Ⅰ』文藝春秋、2016年。
中島義道『カントの時間論』講談社学術文庫、2016年。

新型コロナウイルスについて思うこと その1

・はじめに

 現在、世界で猛威をふるっている新型コロナウイルス(以下「コロナ」)について、私は脅威を感じるというよりはむしろ感心してしまっている。コロナの性質に関する情報を耳にするたび、私は思わず「なんてしたたかなんだ」と唸ってしまう。私は医学に関してはずぶの素人だけれども、コロナのしたたかさは歴代感染症の中でもトップクラスではないだろうかとひそかに思っている。
 コロナが影響を与えている分野は極めて多岐にわたるため、ここですべてを論じつくすことはもちろんできない。また、私にはそれを論じつくすだけの力もないし、今日は物事を考える気もあまりない。ここではあくまで私個人がいまコロナについて思っていることを、この百年に一度の疫病を記念して、つらつら書き留めていくだけである。
 なお、ブログを書くにあたっては、主に厚生労働省HPおよび日本感染症学会HPを参照した。

・コロナのすごい性質

 コロナの性質については世界のエキスパートたちが目下研究中であり、肺にダメージを与えるだけでなく脳にもダメージを与えるとか、60度の高熱に1時間耐えるとか、罹患して獲得した免疫も一時的なものにすぎないとか、いろいろな情報が錯綜しているのが現状である。ましてや門外漢の私が軽々しく口を挟めるような問題ではない。
 しかし、おそらくこれはほぼ確定的だろうというコロナの性質のなかで、私が特に興味を感じているものがある。それは「潜伏期間の長さ」と「無症状病原体保有者があること」だ。
 潜伏期間については1~14日とまだよくわかっていないところもあるが、それでもインフルエンザ等の感染症よりも長いことはほぼ確実らしい。また、無症状の感染者がいることについてはニュース等で繰り返し報じられており、すでに周知の事実になっていると思う。
 私が素直にすごいと思うのは、この「症状のなさ」だ。この「症状のなさ」こそが世界のグローバル化とあいまって爆発的な感染拡大を生じさせ、世界を混乱の渦に陥れたのだろう。たとえ感染していたって症状がなければ人は出歩くに決まっている、コロナはそんな人の性質をしたたかに突いてきた。

・「感染」の意味

 感染の有無を決めるのは、科学的見地からすれば自覚症状があるかは関係なしにウイルス等の増殖があるかによるだろうが、一般的な感覚でいえば自覚症状がないのに感染していると見なすのは若干抵抗があるだろう。感染しているならば何らかの症状があるはずだ、というのが一般的な考えだからだ。風邪の症状も何もないけど実は私風邪を引いているんです、という理由をつけて会社を欠席したらそれはサボりと見なされておしまいである。
 だが、そうはならないのがコロナのしたたかさだ。コロナは感染者を死に至らしめる一方で、感染したことにすら気づかせないことも十分にあり得る。これまで感染には必ず付随すると見なされてきた症状が、コロナの場合は必須ではないのだ。
 「感染」と「症状」をめぐるこの矛盾を、人々は一切の混乱なしに受け入れられるだろうか? 少なくとも私は多少混乱しているし、世間も混乱しているように見える。
 コロナは、日常言語における「感染」の意味を大きく変えてしまった。これまでは症状あっての感染だったが、コロナ以降は症状と感染とが切り離されてしまった。少なくとも以前よりは距離をおくようになってしまった。

・道徳性の変容

 症状と感染が距離をおくと、何が起こるのか。それは街に繰り出すとすぐにわかる。
 2020年4月30日現在、おそらく外出している人の95%がマスクをつけている。海外に比べてマスク率の高い日本ではあるが、ここまでみんながマスクをつけているのはさすがに見慣れない。はっきり言って異様である。
 コロナが流行し始めてから今に至るまでの間で、人々のマスクに対する考えはかなり変わってきたように思える。最初は単に自身がコロナに感染しないための措置だったが、マスクに感染症予防の効果が薄いことが知られてからは(ちなみにこの知識は「マスクに感染症予防の効果はないから不必要にマスクを買い占めるな」という言説の広まりとともに浸透してきたように思う)、マスクは他人にコロナを移さないための措置になった。
 このマスク着用の目的の転換は、コロナの持つ「症状のなさ」によって可能となった。この「症状のなさ」によって、人々は潜在的な感染者として位置づけられたのだ。コロナの出現によりわれわれの日常言語における「感染」と「症状」とが距離をおいたことによって、われわれは実はすでに感染しているのかもしれないという疑いが人々の間に生じたのである。
 この転換は極めて大きな意義を持っている。それは、これまで自分自身を守るものであったはずのマスクが、今では他人を守るという目的を得たことによって、にわかに道徳性(公共性)を帯び始めたからだ。マスクが道徳性を帯び始めたということは、マスクをしないことは非難の対象になったことを意味する。今やマスクをすることは他人に迷惑をかけないためにぜひとも必要なことなのだ。「己の欲せざるところ人に施すこと勿れ」はついにマスクの着用にまで適用されることとなった。
 コロナがもたらしたのは、次の行動規範である。すなわち「自身が感染しているつもりで行動せよ」。

・行動規範いつまで

 「自身が感染しているつもりで行動せよ」という行動規範は、コロナが終息すればなくなるだろうか? それとも、現状のような強烈な自粛等は伴わないにしても、何らかの痕跡を残すだろうか?

 

続きは気が向いたら。今日は疲れたのでお休み。

【追記】
 「症状のなさ」をあたかもコロナ特有のもののように書いてしまい、また私自身そう思っていたのだが、文章を読み返していたらこの特徴はコロナだけのものではないような気がしてきた。誰か感染症に詳しい方がいたら感染症一般の「症状のなさ」について教えてください。

【追記2】
 上述のとおりコロナは「感染者を死に至らしめる一方で、感染したことにすら気づかせないことも十分にあり得る」ウイルスだが、たとえば感染者のすべてが感染したことに気づかないようなウイルスというのはあるのだろうか? あるとすればそれはそもそも「感染」なのか? ないとすればどうしてそう言えるのか?

結婚の話

A「人ってさ、結婚するの好きだよね。」
B「え、急に何? どうしたの?」
A「いや、ふと気になっていろいろ調べてみたんだけど、2019年の婚姻率は47%で、日本人の2人に1人は結婚しているみたいなんだ。それに、生涯未婚率は男性が23.4%、女性が14.1%らしいから、結婚したことがある日本人は実に8割にもなる! これって実に驚くべきことじゃないかな?」
B「どうしてさ? 人が結婚するなんて、ある程度の年齢になれば当たり前じゃないか。」
A「そういう君は結婚願望みたいなものがあるのかい?」
B「そりゃあるよ。人並みに幸せな家庭を築くのは小さいころからの夢だからね。」
A「そっか、まあそりゃそうだよね。」
B「何だいその釈然としない反応は…」
A「個人的な話で恐縮だけどさ、僕は結婚というものがどうしてもロマンチックだとは思えないんだ。」
B「え、そうなの? 結婚なんてまさにロマンチックじゃないか、結婚式とか夢舞台みたいで感動的だと思うけどな。」
A「僕にとっては結婚なんてものは単なる制度でしかないし、別にしなくても十分に生きていけるものなんだ。現に結婚していない人は2割いて、生涯未婚率だって男女ともに上昇しているわけだろう?」
B「そう言われるとそうかもしれないけどさ、それじゃ好きな人と一緒になる必要はないって思ってるの?」
A「いやいや、好きな人との出会いや、好きな人と一緒になることが不必要だと言っているわけじゃないよ。それらはむしろ人生において大きな価値を持つものだとさえ思っているさ。でも、好きなら一緒にいれさえすればいいのに(したがって事実婚や同棲に対しては納得できるんだ)、そこに結婚というプロセスを付け加える必要性がいまいちわからないんだよ。」
B「うーん僕にはそのわからなさがよくわからないなあ…」
A「それじゃ結婚って何なのか、ちょっと考えてみようか。コロナで暇だし。」

1.結婚の「意味」

A「試みに手元の『広辞苑 第五版』をひもといてみると、こんな記述があるね。」

 結婚:男女が夫婦となること。→婚姻
 婚姻:一対の男女の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合で、その間に生まれた子供が嫡出子として認められる関係

B「うわあなんだかリベラリストたちの非難を受けそうな記述だなあ。」
A「SOGI的なツッコミどころは多々あるけどひとまず措くとして、この記述から結婚(婚姻)は次の2つの要件から成り立っていることがわかるね。」

 ① 一対の男女の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合
 ② その間に生まれた子供が嫡出子として認められる関係

B「そうだね、その2つを満たせば結婚ということになりそうだね。」
A「うん、基本的にはこれで良いと思う。もっとも、①は満たさずに②のみ満たす関係、つまり2人の間にほとんど結合がないけどその間に生まれた子供が嫡出子として認められる関係、いわゆる「偽装結婚」があり得るから、①と②を「および」でつなぐこの定義は不完全なんだけど、一応の目安にはなるな。」
B「よくわからないけど次にいこうよ。」

2.結婚の「意味」の吟味

A「それじゃあ、要件①②について詳しく検討してみよう。」
B「まず①の「一対の男女の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合」についてだね。」
A「これついてだけど、この条件に当てはまるのは必ずしも結婚だけではない、ってことはわかる?」
B「うーん……あ、同棲とか?」
A「そうそう、同棲なんかはまさにそうだし、事実婚もそうだね。」
B「そう考えると、①だけじゃ不十分って感じなのかな?」
A「どうやらそうみたいだね。あと、さっき言ったとおり偽装結婚は要件①をそもそも満たしていないけど結婚ってことになっちゃうし、結婚かそうでないかを分けるのは要件②の有無だということになりそうだ。」
B「要件②……ええと、「その間に生まれた子供が嫡出子として認められる関係」ってやつか。」
A「要件②はさ、偽装結婚の例からも明らかだけど、これさえ満たせば2人の関係は「結婚」になるわけだから、結婚の核を担っているといえるよね。」
B「そうだね。」
A「じゃあこの対偶をとって、いくら要件①を満たしていても、要件②を満たさなければそれは結婚とは別物になるかな? つまり、あらゆる生活を共有していて、傍から見れば明らかに夫婦としての実態があっても、要件②がなければそれは結婚ではなく同棲や事実婚ってことでいいかな?」
B「うん、対偶とかはよくわからないけどそれで合っていると思うよ。」
A「でもさ、この結論ってちょっと寂しいんじゃない?」
B「どうしてさ?」
A「だって要件②は2人の親密さについては何も述べていなくて、2人が子どもをもうけたときにその子どもが社会的にどういう位置づけをされるかを述べているにすぎないじゃないか。つまり、子どもが嫡出子として社会的に認められるようになりさえすればそれが結婚で、2人の仲が良いかどうかは本質的な要素ではないってことになるんだよ。だから、この論理に従えば、結婚するために本当に必要なのは愛なんかじゃなくて、役所に届け出を出すこと、ってことになるんだ。」
B「いやそれは違うよ、だって結婚っていうのはそんな簡単なことじゃなくて、人生の一大イベントなんだ。結婚はもっとロマンチックで非日常的な出来事だと思うよ。」
A「もちろん僕だって結婚の大多数がロマンチックな要素を持っていることを否定はしないさ。でも、結婚の要件①②をもとにして考えると、ロマンチックな要素は結婚にとって二の次だと結論せざるを得ないじゃないか。要件①じゃなくて②が結婚にとってより核心的な要素だからこそ偽装結婚が成り立ち、逆に同棲や事実婚が結婚から区別されるわけだからね。」
B「むむっ……そう言われると確かに…」
A「繰り返しになるけど、これまでの議論が正しいとすれば、結婚とは役所で登録をすること、つまり数ある制度のうちの一つを適用するという事実にすぎないのであって、愛し合うとかは必須ではないんだ。」 

3.結婚は辞書の意味以上のものを持っている?

B「それじゃさっきAくんが言ってた「結婚は単なる制度にすぎない」っていうのは、無意識のうちにこのことに気づいていたってこと?」
A「うん、そうなのかもしれないね。僕はこれまでずっと、周りの人たちの「結婚したい」っていう発言を、小学生がとりあえず「野球選手になりたい」(今だとYouTuber?)って言うくらいのものだと思っていたんだ。つまり、将来の夢という概念が空虚だと気づいている子どもが将来の夢について尋ねられたとき、その場を穏便にやり過ごすためにとりあえず「野球選手」と答えておくのと同じように、将来の生活という概念が空虚だと気づいている人が将来の生活について尋ねられたとき、その場を穏便にやり過ごすためにとりあえず「結婚したい」と答えておく、そんなものだと思ってたんだよね。少なくとも僕は「結婚したい」も「野球選手になりたい」も、そんな感じで使ってきたよ。もちろん今みたいに明確に言語化はしてなかったけどね。」
B「そっかあ。でも、それってみんなの中じゃかなり珍しいほうなんじゃないの?」
A「そうなんだよ。年をとるにつれて、周りの人たちが結婚をなにか制度以上のものとしてとらえていることがわかってきたんだ。みんなの中では、どうやら結婚は『広辞苑 第五版』以上の意味を持っていて、結婚を「なんだかんだでする」ものだと思っているみたいなんだよね。どう? 合ってる?」
B「合ってると思うよ。だからこそ結婚したことある人が80%にものぼるわけだからね。僕も含めて、結婚を「なんだかんだでする」ものだと思っている人はむしろ多数派なんじゃないかな。」
A「それが僕にとって不思議でさ、結婚が単なる制度にすぎないってことはさっき確認したとおりだろう? でもみんなの中で結婚は単なる一制度じゃなくて一種の義務みたいになってるよね。それがちょっとよくわからないところなんだ。」 

4.結婚の理由(生活基盤編)

B「結婚が義務みたいになってるのはさ、1人で生きていくよりも2人で生きていくほうが安心だからじゃないのかな? 一人暮らしをしていると、風邪ひいたときとかよく「結婚してたらなあ」って思ったりするもん。」
A「確かにそれはあるだろうね。「ひとりぼっちになりたくない」っていう心細さみたいなものは、結婚にとって大きな追い風だと思うよ。前は「早く結婚して落ち着きたい」って言葉を聞くたびに「何が落ち着くの?」って思ってたけど、きっと心細さがなくなるんだろうね。」
B「あ、でもそれだけだと同棲や事実婚との差がないってことにならない? 心細さの解消が理由になるのは結婚だけじゃなくて同棲や事実婚もそうだよね。」
A「確かにそうだけど、結婚とそれ以外とでは心細さが埋まる強度が違ってくるよね。好きな人と結婚すれば相手は簡単に別れたり浮気したりできなくなるから、相手に裏切られてひとりぼっちになるんじゃないかっていう不安は確実に薄まる。同棲や事実婚がお互いの同意に基づくのに対して結婚は一種の契約だから、浮気などの「裏切り」に対しては公的にペナルティを与えられるし。そう考えると、結婚は一種の保険みたいなものなのかもね。」
B「まあ、その分別れづらくなったりもするんだろうけどね。」
A「君ってそういうこと考えるんだね、ちょっと意外だったよ。」
B「……あ、そうそう、気持ちだけじゃなくて、生活基盤も同棲や事実婚よりは結婚のほうが安定しそうだね。一人暮らしに比べて家賃や光熱費を節約できるのは同棲や事実婚も同じだけど、結婚しないと配偶者控除・配偶者特別控除・相手を受取人にした生命保険料控除が受けられなくて、財産の相続にかかる税金が2割増えるみたい。要は結婚しないと税金がちょっとかかりやすくなるって感じかな。 
A「調べてくれてありがとう。でも、税の控除は共働きしていればあまり関係のない話だし、財産の相続も何とかなるんじゃないのかって気がするけどね。僕なんかはめんどくさがりだから、たとえ税金がちょっと多くかかっちゃったとしても名字の変更とか結婚にかかる労力のほうがイヤかもなあ。」
B「まあそこはさ、愛の力で乗り越えられるじゃん。」

5.結婚の理由(好き編)

A「その発言で思い出したけどさ、結婚の理由ですぐ思いつくのって、もちろん心細さの解消とか消極的な理由はあるけど、「好きだから結婚するんだ」っていう積極的な理由も考えられるよね。」
B「それはそうだよ、嫌いな人と結婚したいというのは考えづらいし、好きな相手と一緒にいたいという気持ちはごく自然なものだからね。」
A「だよね。…でも、ここにもちょっとわからないところがあるんだ。」
B「またかい……」
A「まあ暇なんだし付き合ってくれよ。でさ、好きだから結婚したいっていう主張の理解できないところは、「好き」と「結婚」が「だから」で結びついているところなんだ。好きなら結婚するのが当たり前、みたいな風潮にはどうしても手放しで賛成できないんだよ。」
B「なんで? 好きな人と結婚したいと思うのは当たり前じゃないか。」
A「僕にはね、「好きだから一緒にいたい」と「好きだから結婚したい」には大きな差があるような気がしているんだよ。好き同士なら一緒にいればいいのに、さらに結婚しなければならないなんて、その理由はいったい何なんだろうね?」
B「うーん…僕には好きだから結婚するってのが自然すぎて、いま何を質問されてるのかいまいちつかめないな……それじゃ逆に質問するけど、Aくんは好きな人と結婚したいって思わないの?」
A「手に入れたい、あるいは手に入れて離したくないとは思うけど、結婚したいとは思わないね。」
B「ふーん、情熱的なのかドライなのかよくわからないね。」
A「それじゃ言い方を変えて聞くけどさ、好きだから結婚する人と好きだけど結婚しない人の差はどこにあると思う? もちろん心細さとか税金とか生活基盤の理由もあるだろうけど、ここではあくまでも気持ちの面でどんな差があるのか意見を聞かせてほしいな。」
B「わかった! 好きだから結婚したいって人はさ、結婚が幸せを与えてくれるって期待してるんじゃないかな。そういう人って結婚にからめて「幸せになりたい」とか言ってるじゃん。」 

6.結婚の理由(幸せ編)

A「お、それは新鮮な意見だな。そうすると、好きだから結婚したいっていう主張は「好きな人と結婚して幸せになりたい」に書き換えることができるってことだね? 確かに、この相手と結婚したら絶対不幸になるってわかってる状況で、それでもその相手が好きだから結婚を選択する、みたいなのは考えづらいね。ロシア文学じゃあるまいし。」
B「でしょ? それに、大多数の人にとって、好きな人と結婚することで高揚感や多幸感が味わえるのは事実だと思うよ。たとえその高揚感や多幸感は永続し得ないとしても、その瞬間だけでも最高潮に幸せになれるんだったら結婚する価値はあるんじゃないかな。」
A「驚いた! 君はニヒリストだったのかい? 君の言うとおり、価値というものの源泉はまさにそこかもしれないよ!」
B「頼むから普通の言葉でしゃべってくれよ……で、僕の発言についてはどう思う?」
A「もちろん良い意見だとは思うけど、これについてはさらに「なぜ結婚と幸せが結びついているのか」と問うことができるね。これまでも述べてきたように、結婚と事実婚・同棲との間には実態として大きな差はないわけだから、ここでは結婚という形が持っている特性を考えなくちゃいけない。」
B「結婚という形? それは制度を適用するとかそういうこと?」
A「それとはまた違っていて、もうちょっと抽象的な意味なんだ。たとえば君が作家だったとしようか。それも、自分が納得できる作品を書くことが最優先の、編集者泣かせの作家だ。ある日、君はほんとうに納得のいく作品を書き上げて、それに至極満足していたとしよう。すると後日、その作品は芥川賞を受賞するんだ。そしたら君はどう思う?」
B「もちろんうれしいに決まってるじゃないか。」
A「それはさ、どうしてうれしいって思うの? 芥川賞を取る前に、君はすでに満足していたはずなのに。」
B「それは芥川賞が良いものだからだよ、そうでなければうれしくも何ともないし。」
A「そうだね、そのとおりだ。そしたら結婚も同じじゃないかな。結婚しなくても2人は幸せだけど、結婚という「良いもの」が付け加わることによってさらにうれしくなる、みたいな。」
B「そっか、中身とは別に外から付け加えられたもの(これを「形」って言うんだね)であっても、それがプラスの価値を持っていればそれはそれでうれしいって点では、芥川賞も結婚も同じだね。でもそれって当たり前のことじゃないの?」
A「当たり前と思える人にはもちろん当り前さ。でも、芥川賞にも結婚にもプラスの価値を感じない人に「どうしてこれはプラスの価値なのか」と聞かれても、そこには根拠がないんだ。芥川賞や結婚がプラスの価値を持っているのは「そういうものなんだ」としか究極的には言えないという意味で、これは気分の問題なのさ。」
B「気分かあ……でも確かにすべての人を納得させる根拠づけはできそうにないね。」
A「そうそう。個人的な意見だけど、お互いがお互いを大切に思っていればたいていの行動は幸せなのであって、結婚しなければ得られないような特別な価値があるわけではないんだよ。それでも結婚という「形」にプラスの価値を見出す人にとっては、結婚が幸せをもたらしてくれることは自明すぎるほど自明のことなんだ。逆に言えば、「形」と価値との間に普遍的な根拠づけがない以上、結婚にプラスの価値を見出せなかった人にとって、結婚が幸せをもたらしてくれることはどうやったって納得できないものなんだ。」
B「…ちょっと疑問なのはさ、結婚にプラスの価値を見出せない人っていうのは、恋愛に価値を見出せない人ってことでいいの?」
A「もちろんその可能性もあるけど、それだけとは言い切れないよ。たとえ付き合っている相手のことを非常に大切にしていても、結婚にプラスの価値を見出せない人というのは十分に考えられるさ。ちょうど文筆業が大好きでも芥川賞にプラスの価値を見出せない人がいることが考えられるのと同様にね。」 

7.結婚の理由(常識編その他)

B「なるほどなあ。それにしてもだいぶ話が進んだね。」
A「そうだね。これまで結婚の理由についていろいろ考えてきたけど、他には思いつくかい?」
B「理由ってほどではないかもしれないけどさ、「するのが当たり前だから」とか「みんなしているから」みたいな固定観念は確かにあるよね。」
A「そうだね、ある程度の年齢になったら結婚するっていうのは今でも常識みたいなものだし、周りのみんなが結婚していったらなんとなく焦りも生まれるよね。」
B「あとは「子どもができちゃったから」とか「親同士の話し合いで決まった」とかくらいじゃないかな。」
A「そうだね、そんなものかも。」
B「Aくんはさ、「結婚するのが当たり前」みたいな常識に従おうとは思わないの?」
A「あれこれ考えずに従っちゃったほうが楽だろうなと思ったことは何度もあるけど、こういう常識に素直に従うことができるのは、おそらく結婚という「形」と幸せとを結びつけられる人なんだよ。僕はあいにくそれを結びつけられない側の人だから、従いたくても従うことがなかなかできないんだ。」
B「なんというか生きるの大変そうだね……」
A「同情してくれてありがとう。で、こういう常識があることは一向に構わないんだけど、それに疑問を呈すると怒る人が多いのは困ったものだと思うね。」
B「怒る人なんているの? どうして?」
A「君みたいな人はむしろ少数派だと思うよ。常識に素直に従える人っていうのは、それに疑問を呈されると、何か自分の価値観を侵害されたように思うらしいんだ。「どうして人を殺してはいけないか」という純粋な問いに対して、「道徳的な人」ほど嫌悪感を抱くというのがその良い例だろうね。結婚についても少なからずいるんだよね、それについて質問しただけで不快になっちゃう人って。」
B「確かにそういう人って一定数いるよね。「どうして」と聞かれると「いいからそうしろ!」みたいに怒り出す人。」
A「そうそう。結婚の話からは逸れちゃうけど、そういう人の困ったところは常識を押し付けてくるところだけじゃなくて、自分の常識を守りたいあまり事実の認識をゆがめてしまうところなんだ。」
B「それはたとえばどういうこと?」
A「ひと昔前に「中国はすぐ衰退する」っていう言説が飛び交ったのを覚えてる? 中国経済がものすごいペースで発展していたときだね。おそらくこの主張をした人は中国が嫌いなんだけど、中国という一つの事実を判断する際、当人が持っている「中国はろくでもない」という常識やそれに基づく中国への嫌悪感が事実判断をゆがめてしまったんだ。当人には中国がすぐ衰退するように見えていたのかもしれないけど、それは「中国には衰退してほしい」という願望が姿を変えたものにすぎなかったんだよ。」
B「なるほど。でも、常識なんて誰もが持っているものなんだから、多かれ少なかれみんながこういう傾向を持っているんじゃないの?」
A「そのとおりさ。だから大事なのは何かを考えるときに、自分がどんな前提に立っているのかにも併せて目を向けることなんだよ。それができるようになれば、物事をより深く考えられるし、自分と異なる意見にも寛容になれると思う。だから僕はいつもそれに気をつけているよ。」
B「そうだね、参考にさせてもらうよ。」 

8.おわりに

B「別に悪気があって言うんじゃないけどさ、こんな話をしているとAくんは生涯独身なんだろうなあという気がするよ。というか結婚する気はそもそもあるの?」
A「あれ、知らなかった? 僕は既婚だよ。」
B「え!? 今知ったんだけど……むしろなんで結婚したの?」
A「そりゃ相手が僕にとって大切な存在で、ずっと一緒にいたいと思ったからさ。それに、僕は結婚する理由はわからないけど、どうしてもしたくないわけじゃないからね。」
B「いや、でもそれじゃ同棲と事実婚との違いが……」
A「細かいことばっか考えてたら結婚なんてできないぞ!」

夢の中でまた夢を見た話

こんな夢を見た。

 私は5冊セットの本が欲しいと思い、そのうち4冊を書店で購入し、残りの1冊(なぜか第2巻)をお金の節約のために万引きした。しかし、本を手に入れたのも束の間、万引きはすぐにお店側にバレてしまい、さらに万引きの罪名を社会に暴露されてしまう。私は職を失い、友を失い、社会的に抹殺されてしまった。
 大変落ち込んでいたところで、目が覚めた。
 なんて嫌な夢だ……でも5冊セットのうち第2巻を万引きしたのは確かだし、きっとそのことに対する罪悪感や後悔の念があったせいでこんな夢を見てしまったのだろう。ああ、とても気分が悪い。心臓がバクバクしている。こんなことしなければよかった。でも、かといって社会的に死にたくはないから今さら告白して謝罪とかはできないけれど……
 ここで目が覚めた。

 一瞬、何が何だかわからなかった。私は確かに万引きをしたはずで、だから万引きした夢を見て……あれ? じゃあ今現に見えているこの世界は何なんだ?
 夢の中でまた夢を見た、という事実に気づいたのは少し考えた後でだった。

夢が夢になるには

 自明のことかもしれないが、夢は醒めたあとではじめて夢とわかる。醒めることによってはじめてそれが夢となる。だから、醒めるまではそれが夢だとは決してわからない。(なお、私の言う「醒める」とは、それが夢であると認識できる地点に立つことを指している。たまに夢の中で「あっこれ夢だな~」と気づいて意識的に動ける「明晰夢」があるが、それが夢であることがわかる時点ですでに夢からは一歩外に出ているため、ここでは明晰夢をすでに夢から醒めている状態と見なしておく。)
 少なくとも私は知識として、またこれまでの経験からこのことを自明の理だと思っていた。しかし、夢の中で夢を見て現実と夢の区別がつかなくなり、改めて現実と夢の違いを考え直す機会を得たことによって、これは確信へと変わった。

 結論から先に言ってしまえば、われわれの生きるこの世界を含め、一個の完結した世界は、それ自身が何者かの夢であることを証明できないし否定もできない。それが証明または否定できたならば、その世界はもはや完結しておらず何か別の世界に開かれており(ちょうど夢の世界が現実の世界に対して開かれているように)、そしてその「何か別の世界」のほうが今度は現実となる。この夢と現実の転換のプロセス、言い換えれば世界の転換のプロセスについては、私の夢を例に詳しく考えてみよう。

夢の中の夢の構造

 夢の中で夢を見るということは、結果として夢から醒めた「現実」が2つあるわけだから、現実が二重写しになる。私が夢から醒めたとき「何が何だかわからなかった」のは、この二重写しのためである。このことについて、実際に生きている現実を「現実」、現実の自分が見ている夢を「夢1」、夢の中の自分が見ている夢を「夢2」として、時系列順に見ていこう。

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  1. まずは「夢2」しかなかったとき、言い換えれば、まだ一度も夢から醒めていないとき。このとき、「夢2」は現実だった。私の事例でいうと、私の万引きがバレて社会的に抹殺されている状態は、このときにおいてはまだ現実だったことになる。繰り返しになるが、まだ何からも醒めていないわけだから、最終的にはそれが夢のまた夢にすぎないとしても、そのときにおいては現実であるほかないのだ。
  2. 次は「夢2」から醒めたとき。それまでは万引きがバレたのが現実だったわけだが、私が万引きを後悔している現実(=後の「夢1」)が(突如!)現れたことにより、万引きがバレたのが現実から夢1へとスライドしたわけである。
  3. そして最後に「夢1」からも醒めたとき。それまでは万引きを後悔しているのが現実だったわけだが、私が万引きしていない「現実」が(突如!)現れたことにより、万引きを後悔しているのが現実から「夢1」に、万引きがバレた夢1が「夢2」にそれぞれスライドした。

 私がこの「現実」に戻ったとき、あたかも自分が万引きをしていたかのように思ってしまったのは、これまで述べてきたような「夢→現実」のスライドを1度の睡眠につき1回しか経験してこなかった(つまり②までの経験しかなかった)ことによる。あの「寝ぼけ」は、夢がまだ現実であったころの名残なのだ。

スライドの方向について

 余談だが、夢と現実のスライドの仕方が一方向的であるのはまことに興味深い。夢から醒めるときは必ず「あれは夢だった、これが現実だ」という形を取らざるを得ず、新たに登場するのは常に「現実」でなければならない。しかし、新たに登場するのが「夢」であるような、そんなスライドの仕方はないのだろうか? 
 ――おそらくそれはあるまい。たとえ2つの世界がその内部では同じように現実性を持っていたとしても、われわれの日常言語は時間的に先のものを「夢」と言い、時間的に後のものを「現実」と言うようにできているからだ。明晰夢の場合を除き、夢が常に過去形で語られ、現在形では語られないのがその証拠だろう。したがって、われわれがこの日常言語に依拠し続けるかぎり、時間的に後のものを「夢」とする意味づけはそもそも意味を持たず、時間的に後だからという理由でそれは「現実」とされてしまうのだ。たとえこのスライドの仕方があり得たとしても、それはもはやわれわれからは理解できない。「あれは現実だった、これが夢だ!」という言葉を理解しうる言葉を、われわれは持っていないからである。

 現実と偶然性

 私は今のところこの現実を「現実」と呼んでいる。「この現実」とは、現在新型コロナウイルス感染症が流行しているこの現実のことだ。それはきっと読者の方々も同じことだと思う。
 しかし、果たしてこの現実というものは、ほんとうの「現実」なのだろうか? われわれが「現実」と呼んでいるこの世界は、実はまだ醒められていないだけで、これも一つの夢なのではないか? 先の図に当てはめていえば、われわれが生きている現実は①または②の「現実」なのではないか?
 結論から言うと、私はこの現実が実は夢だ、などとは考えていない。何しろまだ醒めていないのだから、「実は」とか「ほんとうは」とかなしに、この現実は端的に現実である。これは一つの覆しようのない結論だと思う。

 確かに、この現実は端的な現実であり、今のところこれが夢である可能性はない。しかし、端的な現実であるはずのこの世界に思いをはせると、世界が現にこれであることの偶然性がかえって私にはひしひしと感じられてしまう。なんというか、現にこれでしかありえないはずのこの世界が、綱渡りの上に成立しているような、そんな感覚にとらわれるのだ。
 現実世界の端的さと偶然性、この両者は一見矛盾する概念に思われるだろう。現実世界が端的なのは、現実世界には外側がないからであり、それゆえそもそも考慮すべき存在可能性はこの一つしかないからだ。それでも私は、これ以外の世界もありえたのではないか? と疑問に思ってしまう。
 この世界に関する私の疑問は、「私」に対しても当てはまる。私はときどき、私がたつのすけという個体と同一でないような、彼でもありえたし、あれでもありえたような、いやどの個体とも違う大きな広がりであるような、そんな感覚にとらわれる。また、足元に何かぽっかりと大きな穴が開いているような気がして、これ以外の私もありえたのではないか? と考えて怖くなり、そのたびに「今日もたつのすけでいられた」と安心する。(とはいえ、私が特定の個人であることと特定の個人の記憶は不可分に結びついているから、ある日突然私が他人になったとしても、当の私を含めそのことには誰も気づかないのだけれど。)

 現にこれでしかありえないはずの現実世界や現実の私に対して、その成立があたかも偶然であるような、無数の諸可能性のうちからたまたま選び出されたにすぎないような感覚を抱くのは、私の思考が十分に合理的でないからかもしれない。だが、この感覚は、理性とはまた違い、身体の底とでも呼ぶべきところから発せられる生々しい感触であり、容易には解消しそうにない。現実の持つ端的さと偶然性の内的連関に関する問題を解消することは、私の今後の課題である。今は、両者が矛盾のままで無矛盾であるようなものだとぼんやり考えている。

 胡蝶の夢

 話が袋小路に行ってしまった感があるので、ここで一つ、夢にまつわる有名な漢文を紹介しておこう(一応中国思想が専門なので)。『荘子』斉物論のいわゆる「胡蝶の夢」である。

 昔者荘周夢為胡蝶(かつて荘周は夢で蝶々になった)
 栩栩然胡蝶也(ひらひらとした蝶々であった)
 自喩適志与(悠々自適だったからだろうか)
 不知周也(自分が荘周であることに気づかなかった)
 俄然覚(はっと目が覚めてみると)
 則遽遽然周也(はっきりと荘周であった)
 不知周之夢為胡蝶与(荘周が夢で蝶々になったのか)
 胡蝶之夢為周与(蝶々が夢で荘周になったのかわからない)
 周与胡蝶則必有分矣(荘周と蝶々には必ず区別がある)
 此之謂物化(これを物化(物の変化)と呼ぶ)

 (掲載にあたっては、池田知久・金谷治・興膳宏・福永光司諸氏の訳を参考にした)
 (ちなみに、先に私が述べた「夢は醒めたあとではじめて夢とわかる」ということが、同じ『荘子』斉物論に「夢飲酒者、旦而哭泣。夢哭泣者、旦而田獵。方其夢也、不知其夢也。夢之中又占其夢焉。覚而後知其夢也。(夢で酒を飲んでいた人が、翌朝になると号泣している。夢で号泣していた人が、翌朝になると狩りに出かけている。夢を見ているときは、それが夢だとはわからない。夢の中で夢占いをしていることだってある。醒めたあとでそれが夢だったことがわかるのだ。)」という形で書いてある。私の夢に対する気づきは『荘子』とは独立だが、二千年以上も前にこのことに気づいている人がいたというのはなんだか励みになる。)

 私は夢のことについて考えるとき、一通り考えたあとで、必ずこの漢文を読むことにしている。この箇所を読みながら考えていると、夢と現実がゆるやかに溶け合っていくような感じがしてとても気持ちがいい。さすがは古典というべきだろう。

 さて、内容については読んでわかるとおり、荘子は自身が荘子であるときと蝶々であるときを比べ、どちらが夢でどちらが現実なのかわからないと言っている。しかし、これについては先に私が述べたように、醒めたならばそちらが現実なのだから、この場合は荘子のほうが現実だと判断するほかない。この端的な現実こそが現実なのであり、現実に「ほんとうの」や「実は」は存在しない、そういう世界にわれわれは生きている。このことは先ほどから繰り返し述べているとおりである。
 ただ、それと同時に、荘子も私と同じようにこの現実の偶然性に戸惑っていたのではないか、とも思われる。荘子がこの現実を蝶々の夢であるかもしれないと考えたのは、おそらくこの現実の偶然性というか、私の言葉で言えば「綱渡りの上に成立しているような」感覚があったからではないだろうか。この現実だけがほんとうの現実だと信じ切っているのであれば、そもそもこのような文章は書けないからである。

おわりに

 思うに、現実の持つ端的さと偶然性の内的連関に関する問題は、頭だけを使ったのでは解消できない。解消のためには、知性、感性、その他あらゆるものを駆使しつつ、無駄な力みを抜き、身体に底流し外界と相呼応する大きな波に身をゆだねなければならないだろう。そして、大きな波に身をゆだねきったならば、おそらく問題はすでに融解しているはずだ。私が問題の「解決」と言わずに「解消」という表現を用いたのは、この種の問いは回答を与えることでは解決にはならず、問いそのものが解消される地点まで己を掘り下げていくしかないからである。ここでは問いの解消がそのまま解決になるのだ。その境地に立ってはじめて、これまでの問いを根底から掘り返すような新たな洞察が生まれてくる。

日光の中華料理店「翠園」レポ

 2020年2月29日、梅の花もぽつぽつ咲きはじめているというのに、コロナウィルスのあおりを受けて世間はすっかり自粛ムードである。人の移動、集会、果ては学校までも控えましょうという有様、ウィルスという見えない敵はどうやらかなり強力らしい。
 さて、世間様が何かと自粛しているということは、裏を返せば観光地が空いているということでもある。そのことについうっかり気づいてしまった私は、先週末の3連休、大阪・京都・奈良を弾丸旅行してきた。案の定観光地は閑散としており、まるで名所をひとり占めしているかのような満足感があった。
 これに味をしめてしまった私は、むしろ今旅行しないのはもったいないような気さえしてきたので、今週末は日光にお邪魔してきた。これから述べるのは、その日光で出会ったとある中華料理店のレポである。

 

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豚ときのこの豆豉醤炒めセットと春巻き(左上)

 宿泊費を抑えるため素泊まりの宿に泊まることにした私は、宿のおっちゃんに近場の夕食処について尋ねてみた。すると、さすが田舎(褒めてる)、カフェか中華料理屋のどちらかしかないとのこと。もともとエンゲル係数の高い私がカフェで食べるといくらかかるかわからないため、速攻で中華料理屋を選択し、店の門を叩いた。まあ観光地とはいえ田舎の中華料理屋だしな、という感じで、そこまで期待はしていなかった。

 お店に入り、愛想の良いおばちゃんに「豚ときのこの豆豉醤炒めセット」と「春巻き」を注文。しばらくは来ないだろうと思いつつ、持ってきた本を開く。
 すると愛想の良いおばちゃん、おしぼりと一緒にプーアル茶の急須と可愛らしいお碗をテーブルに。ちょっと待って、このお茶セットって、もしかして無料?
 というのも、これは本場の中国ならお金を払って頼むようなものだからだ。それがテーブルにポンと置かれてしまったので、私としては少し困惑してしまった。でもどうやら無料らしいので、早速いただくことに。ちゃんと味が出ていて美味しかった。

 お茶が届いてからまもなく、プーアル茶をありがてえありがてえと飲んでいるうちに、先に春巻きが運ばれてきた。うむ、肉厚で美味しそうである。
 本場中国では黒酢をかけて食べるのだが、そこはさすがに日本の中華料理屋、テーブルにはおなじみ醤油・お酢・辣油の3点セット。醤油と間違えて辣油をどばどば入れてしまったことはさておき、さっそく春巻きにかぶりつく。

 ……!!! う、美味い……!!

 これは美味い、何なら今まで私が食べた春巻きの中でもベストかもしれん。外の皮は厚すぎずコゲすぎず、ちょうど良いパリパリ感で歯ごたえ抜群。中の具はお肉がメインで食感はジューシーかつもちもち、味ももちろんピカイチだ。
 話は逸れるが、私はそこそこ中国が好きで、中国には10回以上足を運んだことがある。だからこれまでも春巻きはそこそこ食べてきたつもりだった。だが、そんな私の経験値は、この春巻きには遠く及ばなかった。あっぱれ、翠園の春巻きあっぱれ!!

 春巻きをすげえすげえ言いながら食べていると、おばちゃんが「豚ときのこの豆豉醤炒めセット」を運んできてくれた。何やら美味そうな色と匂いがしていらっしゃる。
 ひと口食べてあら驚愕、これもめちゃくちゃ美味しい。何これ、こんなハイレベルなの全然期待してなかったよ。
 口に広がるは豆豉醤のコクのある味噌の香りと山椒の風味、それが大量のきのこと豚肉、それから玉ねぎと絶妙に絡み合っている。ああ、白米がこんなにも進む……
 ん!? こ、これは粗みじん切りの生姜……なるほど、これは美味い、比較的甘めの味付けに対して、生姜がちょうど良いアクセントとして機能している。春巻きとこの炒め物のダブルパンチを受けて、白米はみるみるうちに減っていってしまった。

 さて、メインディッシュを食べ終わり、スープを飲み終わると(これは普通だった)、デザートの杏仁豆腐へ。けっこう量が多くてずっしり重く、なんだかお得感がある。
 ひと口食べてこちらもびっくり、ウッッッマ!! いや、固くてしかもほとんど味のない杏仁豆腐が大多数を占める中、このまろやかな口当たりと濃厚な甘さ、これだよこれを求めていたんだよ、と言いたくなるような美味しさ。めちゃくちゃな勢いでじゅるじゅると吸いこみました。ごちそうさまでした。

 ご飯を食べ終えた私は、プーアル茶で一服しながら、このお店は絶対にブログに書こうと決意。最初から最後まで大満足の内容、お会計は1,870円でございました。

 最後に、翠園のみなさま、それから翠園をおすすめしてくれた宿のおっちゃん、どうもありがとうございました。日光で夕食に迷ったそこの中華料理好きのあなた、とりあえず今夜は翠園にしとけばいいと思います(ランチもやってるみたいです)。

参考:翠園食べログ

tabelog.com

 

赤ちゃんの話

1.赤ちゃんと私

 私は赤ちゃんがどうしても欲しいと思えない。さすがに憎いとまでは思わないが、かといってプラスの感情を抱くこともあまりない。もちろん、赤ちゃんが笑ったり喜んだりすれば多少はかわいいとは思うが、でもそれは赤ちゃんに限らずとも人間はうれしくなればかわいくなるようにできているでしょう。だから、赤ちゃんが欲しいと公言する人や、近くに赤ちゃんが来ると即座に「かわいい~!」とか言う人に対しては、そんなに?って思ってしまう。もっとも、個人の好みを否定するつもりはないし、少子高齢化社会に生きるわれわれにとっては、こういう態度のほうがむしろ好ましいのもわかっている。

 詳しくは後で述べるが、私が赤ちゃんを欲しいと思わない理由は大きく分けて二つある。一つ目は、今述べたように赤ちゃんに特別の魅力を感じないから。これは私個人の好みの問題だから、さして重要ではない。むしろ、私は赤ちゃんに魅力を感じられるようになりたいので、赤ちゃんのどういうところが魅力なのかわかっている方はぜひ教えてください。
 二つ目は、新しく命をこの世に生み出すことがよいことなのかわからないから。私自身、後で述べるように、これについて「よい」と断言することは不可能だと思っている。

 赤ちゃんに魅力を感じられず、かといって新しく命を生み出すことに納得もできないという点で、私は少子高齢化社会促進の申し子である。

 

2.赤ちゃんが最初からしゃべれたらいいのに

 私が赤ちゃんに魅力を感じない理由として一番大きいのは、とにかく手間がかかることだ。赤ちゃん、生まれたばかりだし多少の世話は必要だとしても、どうしてあんなにも手間がかかるのか。歩けないとか首がすわらないとかはまだいい、とりわけ私にとって厳しいのは、赤ちゃんが言葉を使えず、その代わりに泣きまくることだ。お母さんと離れたら泣く、腹が減ったら泣く、オムツで泣く、挙句の果てには眠くて泣く。はじめの三つはまだわかる、だがなぜ眠くて泣くのか。眠いなら黙って寝ればいいではないか。かく言う私自身も、赤ちゃんのころはとにかくよく泣く奴で、昼夜を問わず2時間に一回は泣きわめいて母を半ば不眠にさせ、子ども好きの母をして「こいつマジで捨てようか」と思わしめたらしい。

 私は、赤ちゃんが泣く代わりに言葉を使って他者と意思疎通できるようになれば、子育てはどれほど楽になるだろう、と心の底から思っている。もしそうなれば、出生率も多少は上がるのではないだろうか? お腹が空いたら「ごはんほしいっす」、お母さんと離れるのが嫌なら「抱っこしてほしいっす」。ギャーと泣かれるよりもはるかに便利だ! 少なくとも、赤ちゃんがこの調子なら、私は子育てに前向きになれる気がする。ちなみに、女性の知り合いに「最初からしゃべれる赤ちゃんならいいのに」と言ったら、今のところ3人中全員から「なにそれ嫌でしょ笑」と否定されている。

 こういうわけなので、私は赤ちゃんには言葉をしゃべれる状態で生まれてきてほしいし、それが無理ならAI研究者の方々に赤ちゃんの泣き声を言語に翻訳するソフトを作成してもらいたい、と切に願っている。

 

3.「赤ちゃんかわいい」への違和感

 赤ちゃんを見て反射的に「かわいい」と言う人は、一定の割合(むしろ多数派?)でいるものである。しかし、私は少数派かつひねくれ者なので、そのように反射的になされた「かわいい」という言明の大半は、単なるトートロジー(同語反復)なのではないかと思っている。なぜなら、赤ちゃんのことを「かわいい」と言う人の大半は、赤ちゃんのことを「かわいくない」と言う可能性をそもそも持っていないように見えるからだ。赤ちゃんのことを「かわいくない」と言う可能性があらかじめ排除された価値観を持つ人が「かわいい」って言ったって、そりゃあなたの価値観は最初からそういうふうにできていますからね、としか言いようがない。

 彼らが赤ちゃんをかわいいと言うとき、その「赤ちゃん」には価値判断がすでに大きく入り込んでいる。彼らの中では「赤ちゃん=かわいい」がすでに前提とされており、したがって彼らは「かわいいはかわいい」と言っているにすぎない。そこにあるのは、単なる言語上の戯れなのだ(もちろん、赤ちゃんのことを「かわいい」と言う人が赤ちゃんを前にしてふざけていると言っているわけではない。そういう人たちの大半は、心の底からまじめに「言語上の戯れ」をしている)。

 これは、人を殺すことができない人間が「人殺しは悪だ」と言ってみたって説得力に欠けるのと似ている。たとえ同じ「人殺しは悪だ」という言明でも、人を殺せない人よりは人を殺せる人のほうが説得力がある。前者は彼らの世界がそもそもそういうふうにしかできていないのだから「人殺しは悪だ」としか言えないのに対し、後者は「人殺しは悪だ」という意見に与しないこともできる状況でなされる発言だからだ。つまり、前者は道徳的な主張に自身の価値観を守るための主張が混ざっていて主張の道徳性がピュアでないが、後者は人殺しについて前者よりも広い視野に立って吟味することで、より純粋に道徳的な主張をすることができるのだ(ところで、後者が人殺しについてよくよく吟味した結果、「人殺しは善だ」という結論をしたとしたら、それは「道徳的な主張」でありうるのだろうか?)。

 以上の点から、赤ちゃんを「かわいくない」と言うことができる人が、それでも赤ちゃんを「かわいい」と言ったなら、その発言には大きな価値があると思う。しかし、悲しいかな、そんな人は多くないような気がしている。大半の人は、「赤ちゃん=かわいい」の前提を無条件に信じ込んでいる人か、その前提に違和感を覚えつつも流されているだけの人だと思う。
 また、「言語的な戯れ」に囚われた人間は、自らの価値判断と異なる主張を理解できず、同時にそれを強く拒否する傾向があると思う。もしその人たちの前で「赤ちゃんはかわいくない」「人殺しは悪とは限らない」とでも言ってみようものなら、発言者はまるで道徳的に悪いことをしたかのように非難されるのだ!

 

4.命をこの世に生み出すことは「よい」ことか

 新しい命をこの世に生み出すことの善悪を問われたら、何と答えればよいのだろうか。「生きているだけですばらしい!」派の人たちにとっては「善」だし、「生きることは苦痛だ」派の人たちにとっては「悪」だろう。ただ、私自身は生きることそのものは単なる事実であり、そこに善悪はないと思っているので、両者の意見に与することができない。

確かに、自分がここに生きていることはまぎれもない不思議であり、一種の奇跡でさえある。私が生まれる前も世界は続いてきたし、死んだ後も無事に続くであろう世界、今私がただちにいなくなったとしても、それどころかもともと生まれなかったとしても、何一つ問題なく存続し続けるだろうこの世界で、私というものが現に存在する不思議。個人的には、この奇跡を味わえるなら、それだけで生まれてくるに値するとすら思う。

 しかし、この奇跡とてひとつの事実であり、価値がそれに先んじるわけではない。そして、問題はここにこそあるのだ。生きることが究極的には事実であり価値ではないとすれば、それは生きることの価値判断が定まっていないということ、つまり生きることの価値判断は善悪どちらにも流れうるということを意味する。先に述べた「生きているだけですばらしい」派と「生きることは苦痛だ」派の見解の相違は、その良い例だろう。

 私の考えでは、大部分の人間にとって、生きることに対する価値判断は、当人が生まれ育った環境が大きく影響する。才能や容姿、家庭環境、人間関係等に恵まれれば生きることを善と見なすだろうし、逆にそれらに恵まれなければ悪と見なすだろう。

 生まれてきたからには、生きていることを肯定してほしい。生まれてきてよかったと、これでよかったと、心の底から思ってほしい。親として、それはおそらく当然のことだ。しかし、子どもが生きることを肯定するような子育てが絶対にできるかと言われれば、否定せざるを得ない。それは親の力にあまることなのだ。俵万智の「親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト」(『サラダ記念日』)はまさにそのとおりで、子どもは親が育てるものであるとともに、親の意図とは別に勝手に育つものだからだ。子どもに生きることを肯定してほしいという親の意図に反して、子どもが自身の生を呪ってしまうことは普通にありうる。

 したがって、全体として見れば、生きることを呪う子どもの出現は避けられない。そして私は、そのような「ガチャ」に加担する気になれない。この「ガチャ」の対象は、単なるモノではなく、生きた一個の人格なのだ。命を新たに作り出すことは、ほかのどんな行為とも違う、越権行為としての要素があるのではないか?

 

5.おわりに

 私は、子どもを生み出すことが悪いことだと言っているのではない。むしろ、一般的に見れば良いことだと思っている。私は単に納得できていないだけなのだ。

 思うに、世界は構成員各々が自分のつとめを果たすことで成り立っている。私はおそらく自分の子どもと会うことはないだろうが、その分他の人たちが子どもを作り、そして大切に育ててあげてほしい――子どもが「生まれてきてよかった」と思えるように、あるいはそんなことなど改めて考える必要もないくらい、自身の人生を肯定できるように。

 未来に向けてまっしぐらに走ってゆく子どもたちの背中は、世界で一番頼もしいものだ。