申如録

日常生活で考えたことなど

そうであったかもしれない自分の話

 最近、「サイコパス」という大変優れたアニメを見た。そこで今回は「サイコパス」のおすすめをするとともに、本作品を見て考えたことの一部を書いておきたい。

 

1.サイコパスのおすすめ

 「サイコパス」は、近未来の監視社会を描いたSFアニメである。そこでは、「シビュラシステム」というシステムの下、人間の性格や能力等、わたしたちの社会では「内面」とされる要素を含むあらゆる事項が客観的基準(数値化)によって測られる。人々はシビュラシステムが提供してくれる客観的基準に身をゆだね、シビュラシステムが下す判断――たとえば職業選択における――を当然のこととして受け取る。彼らは文字どおり「ゆりかごから墓場まで」をシビュラシステムの下で生きるのだ。

 この社会では、当然、犯罪もシビュラシステムによってコントロールされる。人々は「犯罪係数」を持ち、それが一定値を超えると「犯罪者」と見なされる(作品中では「潜在犯」と呼ばれる)。彼(女)が実際に犯罪を起こしたかどうかはここでは一切関係ない。潜在犯であることの基準はただ一つ、犯罪係数なのだ。そして、潜在犯になってしまったが最後、社会の安全を維持するため、彼(女)の身柄の自由は拘束される。「安全」という言葉は、潜在犯の社会からの隔離を意味する。

 このように、あらゆる事項が客観的基準で測られる社会、とりわけ一般人/潜在犯、善/悪の区別の基準が数値という客観的指標に完全に置き換えられた社会は、ある意味で理想郷ともいえる。その数値計測が正しく、また基準の線引きが正しい限り(だが、シビュラシステムの正しさは誰が保証するのだろう?)、そうした社会は大多数の人間にとって極めて安全で、かつ便利だからだ。自分が考える必要もなく、勝手にすべてが決まっていき、勝手に安全が保たれている。なんて便利で、なんて楽な社会だろうか。

 本作品の主人公である常守朱(つねもり・あかね)は一般人であり、この社会の恩恵を享受する側の人間である。犯罪係数が「優秀な」彼女にとって、潜在犯は遠い世界の話だった。だが、シビュラシステムの職業選択に従い「公安局」(警察組織)に配属された彼女は、潜在犯を捕らえる仕事に従事するようになる。しかも「執行官」と呼ばれる潜在犯と協力するという特異なやり方で(執行官とは潜在犯を捕らえるため最前線に駆り出される潜在犯である。危険な役割は潜在犯にさせておくほうが得なのだ)。

 

2.考えたこと

 ここから先はアニメを見ていただくとして、わたしが考えたのは「潜在犯がもしわたしだったら、シビュラシステムによる監視社会は地獄以外のなにものでもない」という一見ありふれたことだ。「わたしが●●だったら」という言葉は、誰もが使ったことのある表現だろう。「わたしがお姫様だったら、たくさんの宝石でネックレスを作るの!」しかし、こうしたことはわたしが考えたことではない。

 

 わたしのいう「もしわたしだったら」は、特定の個人からも切り離されうる「わたし」というものを念頭に置いての話なのだ。わたしが「潜在犯がもしわたしだったら」というとき、その「わたし」がたつのすけである必要は全くない。むしろ、今たつのすけである「わたし」が「わたし」であるままで、潜在犯Aの「わたし」になること。これがわたしの言いたかったことであり、この社会を考えるうえで一番危惧していることだ。

 思えば、なにもシビュラシステムのある社会だけに限った話ではない。わたしたちが生きるこの社会でも、わたしの危惧は十分に妥当する。常々不思議でならないのが、たとえば「炎上」に参加する人々の態度だ。彼らは、「炎上している人がもしわたしだったら」という視点には全然立てないのだろうか? ほかにも、過去のファシズムを振り返って「大変な時代があったものだ」という人々。彼らは、「ファシストがもしわたしだったら」という視点には全然立てないのだろうか?

 繰り返すが、これは特定の個人と結びついた「わたし」の話をしているのではない。どういうわけか知らないが、なぜか今ここにある「わたし」の話をしているのだ。「わたし」は、特定の個人には全くわからない間に、次々に人から人へと移ってゆくかもしれない。もちろん、そうである保証はどこにもないが(原理的にありえない!)、かといってこの「わたし」の発生を特定の個人と結びつけられない以上、「わたし」を媒介にして人々を結びつけてみるのもあながち無理ではあるまい。いや、むしろわたしにとって、「わたし」がわたしと他人を結びつける要素であることは、もはや自明とも言える(この直観を検討してみたくてこの文章を書きました)。この「わたし」がたまたま多数派に属しているということは、少数派をないがしろにしてよい理由にはならない。たまたま多数派に属しているこの「わたし」が少数派をないがしろにするとき、この「わたし」は確かに傷つかないが、ないがしろにされた「わたし」は傷つくのだ。

 

 問題は、このことをシビュラシステムに話してみたとして、話の趣旨が通じるのかということだ。おそらくシビュラシステムはこう言うだろう。「あなたのおっしゃる、「わたし」が特定の個人に結びつくどころかむしろ自己と他者を媒介しうるものであるとの意見は、われわれにとって傾聴に値するものと判断します。なぜなら、「わたし」が自己と他者を媒介するものであるとすれば、社会のシステムはその構成員――つまり「わたし」の集合体です――の「最大多数の最大幸福」を目指すものでなければならないはずですが、これはまさにわれわれの目指していることだからです。われわれは、あなたの望みどおり、人々の幸福の総体が常に最大となるよう、あらゆる事項を数値化し、監視し、社会の安全を効率よく保ち続けます。……」

 

 シビュラシステムの解釈はまちがっているだろうか?