申如録

日常生活で考えたことなど

魔法使いの話

 

 以前は何とも思わなかったが、自分で料理をするようになってから、料理が魔法みたいに思えてきた。生ではとても食べ進められないような食材が、ちょっと手を加えるだけで美味しいレシピに早変わりする。僕はその手軽さにいつも驚かされる。生の食材(おいしくない!)と完成したレシピ(おいしい!)との間には、ちょっとした手間ひまで埋められる以上の差があると感じるからだ。だから僕は、その差が現にこうして埋まってしまうのは、料理が実は魔法だからにちがいない、と思っている。

 

 思えば、これは料理に限った話ではなく、言葉や芸術、工作など、モノに形を与える能力自体がそもそも魔法なのだと思う。今書いているこの文章だって、単なるスクリーン上のシミに見えないこともないが、それでもわれわれはそこに形を読み取り、言葉として認識できている。スクリーン上のシミと文章との間には途方もない断絶があるにもかかわらず、である。もっとも、われわれはみんな魔法使いなので、そんな断絶などひょいと飛び越えてしまうのだけれど。

 

しかし、もしそうだとしたら、こういう疑問が浮かぶだろう。――そもそもわれわれはいつから魔法使いになったのか? これについては「わからない」と答えるしかあるまい。われわれは気づいたときにはすでに魔法使いだったのであり、今やその魔法なしには何物も生み出せず、また何物も認識できなくなっているからだ。

先に僕は魔法について「形を与える」ことだと述べたが、それはあくまで外側から見たときの話だ。形を与える主体にとっては、それが一から十まで自分の意志でできるものではなく、むしろ「形を与えさせられている」感覚さえある。外から見ればその人が何かを作っているように見えても、その人にとっては実は形が初めから与えられていて、それを探り当てるだけ、といったような具合に。われわれは、自発的に魔法を使っていると同時に、使うことを余儀なくされている。

 

だが、そうはいっても世界のすべてが魔法に吸収されるわけでもない。たとえば、僕が今ここに生きていて、世界が今ここで開けていること。それは、唯一であるがゆえに、魔法からはすでに解き放たれている(この文章中では、もちろんすでに魔法にかけられてしまっている)。その魔法から何かかけがえのないものをすくい取る営みこそが、今ほんとうに必要とされているのではないか、と考えている。

 

 ちなみに、https://vegetaro.net/resipe-curry/のカレーのレシピが本当に美味しいのでおすすめです。みなさんもお時間のあるときに試してみてはいかが。