申如録

日常生活で考えたことなど

近畿周遊記2

 9月中旬の「近畿周遊記」に引き続き、10月31日から11月3日までの4日間、私は再び奈良を訪れてきた。この「近畿周遊記2」はその旅行記であり、「近畿周遊記」の続編である。
 前回の訪問は大変内容の濃いものとなったが、今回も4日間で延べ16か所もの寺社仏閣を巡るなど、前回に引けを取らない内容となった。「近畿周遊記2」はその内容すべてを1つにまとめたかなり長い記事(約12,500字)なので、目次から興味のあるところをピックアップして読んでいただいてもかまわない。なお、文中の「*」がある箇所は先の「近畿周遊記」を踏まえている。

 

 

一日目

 東京から奈良まで

 9時48分東京発新大阪行きの新幹線のぞみに乗り込んだ私は、いつも通り左の窓側の席に座った。奈良には約1か月半ぶりの訪問となる。
 天気は雲一つない青空、東海道新幹線の車内には秋も深まりすっかり傾いてきた陽がよく差していた。せっかくの景色なので眺めていたかったが、陽に当たっていたら眠くなってしまったのでブラインドを半分閉めてしばらく寝ることにした。

 名古屋を過ぎ、飛騨の山中のあたりで目が覚めた。相変わらず高度の低い陽はじりじりと私を照りつけていた。
 眩しさをこらえて目を飛騨の山々に向けると、所々で紅葉が始まっているのがわかった。色づきはまだ始まって間もないと見え、車窓からスマートフォンのカメラを向けても紅葉ははっきりと映らなかった。それでも試しに1枚写真を撮ってみると新幹線の速度のせいで斜めに歪んだ電柱が映っており、それを眺めていたらなぜか一般相対性理論が頭をよぎった。

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飛騨の山と歪んだ電柱

 途中木曽川が豊富な水量で滔々と流れるのを見、また水量の割には堤防が低いのを見た。これでは少し危ないのではないかと思っていたら、どこからか「木曽川が溢れちゃったらもう仕方ないよ」という達観した言葉が聞こえてきた。なるほど、木曽川と命を共にしている人たちもいるのだろうなと思った。
 新幹線が西に進むにつれて読んでいた本がだんだん反り返るようになったので、空気が乾燥してきたことがわかった。乾燥した本をぐにぐに曲げるとぺこぺこ音を立てた。

 京都に着くと近鉄線に乗り換え、友人の待つ平端駅へと向かった。友人とは平端駅の天理行きの車内で合流した。
 前回に引き続き奈良の案内人を請け負ってくれた友人によると、最初の目的地は天理大学付属天理参考館(以下「参考館」)とのことであった。

 天理参考館

 天理駅で電車から降りると、駅の柱が紫に染められているのがまず目に飛び込んできた。私の中で天理カラーといえば紫だったので、ああ天理に来たんだなという実感が湧いた。
 電車を降りた瞬間から薄々感じてはいたが、改札を出ると独特の空気感があるのがより強く感じられた。確かに奈良らしい安定感はあるのだが、それに加えて普段使わない脳の一部(私の感覚だと統合失調の箇所)が陰で開いているような感じだ。安定感と緊張感が入り混じった、他にはない独特の雰囲気が天理にはある。

 駅前で友人とたこ焼き20個を平らげ、商店街(天理本通り)を歩いていると、入り口付近でとんでもない価格設定のカラオケを見つけた。この金額でいったいどうやったら採算がとれるというのか。友人と「資本主義の真似じゃん」などと言いながらけらけら笑っていた。

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驚愕の価格設定のカラオケ

 商店街には神具や奈良漬など東京ではあまり見ないものが数多くあり、ショッピングだけでもけっこう楽しめる。落ち着いた雰囲気の喫茶店もいくつかあるから、休憩にも困ることはなさそうだ。また、「天理教」と書いた黒い法被を着た人たち(若い人が多かった)がちらほら歩いているのだが、これがかなり様になっていてかっこよく、私も生活に法被を取り入れたいなと思った。

 商店街をまっすぐ進み、郵便局を右に曲がってまたしばらく歩くと参考館に到着した。場所はかなり辺鄙であり、商店街には参考館への案内表示もないため、初めての人が参考館にたどり着くには誰かに案内してもらうかスマートフォンを駆使するほかない。
 友人が紹介してくれたからこそ参考館に行くことになったが、私はそれまで参考館の存在すら知らなかった。それもそのはず、参考館は広告をまったくと言ってよいほど出していないのだ。友人も奈良の人に紹介してもらわなければ行くことはなかっただろうと言っていた。

 そんな参考館の展示は圧巻の一言だった。全部で3フロアにわたる展示はどれも質が高く、また清朝末期の北京のお店の看板などユニークな展示品も数多くあった。展示の中で特にすごかったのはニューギニアの部族の仮面で、それが展示されている一角は国立博物館を優に凌ぐクオリティだった。機会があればぜひまた訪れたい。
 ただ、参考館には広告をもっと出してほしいと思う。参考館がどういった理由で広告を出さないのかはわからないが、潜在的に参考館を必要としている人は少なからずいるはずである。そうした人たちに参考館を知ってもらい、訪れてもらうようにするのは、豊かな展示品を有するミュージアムにとってのつとめではないだろうか。

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仮面コーナー(参考館HPより)

 参考館のお土産にポストカード(1枚30円!)を3枚購入し、そのまま歩いて石上(いそのかみ)神社へと向かった。途中で2個100円の柿があったので夕食のデザート用に購入した。近くの公園ではおじさんが木彫りをしていた。

 石上神社

 神社の入り口付近に着いた途端、私は腰に鈍い痛みを感じた。実は天理商店街を歩いているときも背中が痛くなったのだが、その痛みはまるで古い皮膚が剥がれ落ちるようにして身体の深部から表層へと移動し、そして消えていったのだった。今回の腰痛もまったく同様で、痛みはいつしか神社の空気に溶けてなくなった。身体が軽くなった。

 石上神社は空気が抜群に良かった。息を吸うのがとても心地よく、気道を摩擦ゼロで通り抜けて肺にダイレクトに空気が届く感覚だった。境内にはニワトリが10羽ほど放し飼いにされており、時たま「ケェーッ!」と鳴くのでびっくりした。
 友人によると年会費3,000円で石上神社の会員になると毎朝健康などをお祈りしてくれるとのことなので、さっそく会員になり「お祈りサブスク」を享受することにした。東京に帰ってきてからも祈られていることを意識することはあまりないが、ふとした時に思い出すとなんだかありがたいような気がする。
 境内は人が多かった(奈良基準なので東京からするとガラガラである)ので国宝の本殿には上がれなかったが、それでも十分に満喫することができた。

 石上神社から天理駅まで歩いて戻ると時間はすでに17時ごろだったので、1日目はそのまま帰ることにした。途中、商店街で奈良漬を2つ買った。

 東大寺二月堂 1回目

 帰りの車内からは満月が見えた。私が月をぼーっと見ていると友人が「三笠の山じゃん」と言ったので「阿倍仲麻呂だね」と返すと、「じゃあ阿倍仲麻呂をしよう(Let’s do 阿倍仲麻呂)」ということになり、夜でも開いていると噂の東大寺二月堂に行くことになった(?)。
 近鉄奈良駅から二月堂を目指して歩いていると、ちょうど真正面に満月があり私と友人は大喜びした。しかもその満月はあの三笠の山の上にかかっている。そんな満月をたよりに二月堂に向かうなんて、こんな「あはれ」なことは滅多にあるものではない。

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三笠の山に出でし月

 時間はまだ18時半前だったが、奈良公園内にも東大寺境内にも人は誰もおらず、まるで東京の深夜3時みたいな雰囲気だった。鹿は寝そべったり草を食んだりしていて、目が少し光っていた。夜の鹿なのでヨルシカと名付けた。

 真っ暗な坂道を月の明かりとスマートフォンのライトをたよりに進んでいくと、二月堂にたどり着いた。ぼんぼんの柔らかい光にうっすらと照らされた二月堂は、ほんとうは生きている人が来てはいけない場所のようでちょっとどきどきした。

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東大寺二月堂

 人は私たちを含めて延べ8人くらいだった。二月堂までの道のりが無音の暗闇だったので、明かりのある建物で人の声を聞いたら少し安心した。手水所からは水の流れる音が響いていたが、夜のせいか無機質な音に聞こえた。
 二月堂の扉は閉まっていたものの、裏手の扉には大きめの隙間があり、そこから中を覗くと観音像が安置されているのが見えた。すると私が観音像を見ているだけでなく、観音像も私を見ている気がして、とてもどきどきした。
 舞台からは奈良の夜景が見えた。建物の群れが発する光は常に揺らめいていて、まるで街の細胞がどくどくと脈打っているようだった。私と友人は舞台のそばに腰かけ、二月堂の雰囲気と夜景を楽しんでいた。

 帰りはスーパーで食材を買い、友人の家で鶏肉の鍋を作った。デザートには石上神社の近くで買った柿を食べた。柿は種無しで食べやすく、味はすっきりしていて美味しかった。

二日目

 朝食

 朝食では人生で初めて奈良漬を食べた。奈良漬は瓜を酒かすに何度も漬け込んだもので、好き嫌いが分かれる味をしているが私にはとても美味しく感じられた。奈良漬→白米→みそ汁の流れが止まらず朝からごはんを2杯も食べてしまった。ごはんをたくさん食べて元気いっぱいの私たちは、さっそく墨坂神社に向けて出発した。 

墨坂神社

 榛原(はいばら)駅を降りて左へ進み、宇陀川をさかのぼるようにして進んでいくと、川に架かった丹塗りの橋が見えてくる。墨坂神社はその橋の向こうにある。
 橋を渡り、神社の入り口までやってくると、しんとした鋭い冷気を含んだ空気が肺へと入り込んできた。空気の感じはどことなく龍穴神社*に似ているが、これは両神社とも水の神を祭っていることが関係しているのかもしれない。

 境内はそれほど広くない。正面に本殿があり、左側に水の神を祭った祭壇がある。祭壇の横には蛇口があり、そこから湧き水を自由に飲んだり汲んだりすることができる。私たちはあらかじめ駅前のコンビニでコップを購入していたので、そのコップで湧き水を2杯飲んだ。水は粘り気があってとろとろしており、これを飲み続けたら苔になってしまいそうだった。蛇口には多くの地元住民が水を汲みに来ていた。
 伊勢神宮の湧き水*のようにすぐに酔うことはなかったが、私は次の長谷寺駅に着いたときに、友人は長谷寺の階段を上っているときに、それぞれ酔いが回った。

 本殿の賽銭箱の横にはたくさんの瓦が積んであり、1枚1,000円で寄付できるとのことだった。私と友人はともに1,000円ずつ払い、瓦に氏名と「神恩感謝」と書いて台の上に置いた。台の上では瓦が3枚で1列となっており、一番下の列には神恩感謝と書かれた瓦が1枚あったので、私と友人は一番下の列にそれぞれの瓦を置き、1列すべてが神恩感謝となるようにした。友人とは「神恩感謝パチンコ」があれば当たりだね、という話をしていた。

 長谷寺

 長谷寺駅を降りて坂道を上下左右に進んでいると、長谷寺の参道が多くのお店で賑わっているのが目に入ってきた。人は最終日に訪れた東大寺を除けば一番多く、また車やバイクも多かった。ゆったりとした運転は基本的に奈良ナンバーで、スピードを出していたのは基本的に「なんば」だった。なんだかほっこりした。

 長谷寺は全体的におしゃれだった。観光客の中には写真映えを狙った人がたくさんいたが、それも宜なるかなといった感じがした。

 長谷寺の長い階段を息を切らして上りきると、国宝の本堂が目に入った。その前には大きな香炉が置かれており、鬼のような形をした生きもの3体が炉を支えるような構造になっていた。調べてみたところその生きものはインドの力像らしいが、重そうで気の毒なので早く救われてほしいと思う。

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長谷寺本堂

 本堂の中をまっすぐ進むと十一面観音菩薩立像がある。これは日本で一番大きな木造の仏像で、10メートル以上もの高さがあるらしい。ありがたいことに、参拝客はその足元まで進み、巨大な観音さまを真下からあんぐり見上げることができる。私たちもこれに倣い、遠慮なくあんぐりさせていただいた。
 観音菩薩の足は触ることができるので足元にひざまずいてみると、なるほど足は参拝客に触られまくったせいで黒くツヤツヤになっている。私は観音菩薩の巨大な足を触っていると子どもが親にじゃれるような心地になったため、願い事は特にしないできゃっきゃっと遊んでいた。隣を見ると真剣な態度の友人がいた。

 本堂を出て舞台に上がると紅葉が綺麗に見えた。これからさらに紅く色づいていき、やがて山は紅に染まるのだろう。 

昼食

 正午を過ぎ、すっかりお腹がすいた私たちは、長谷寺の門前にあるお店で昼食をとることにした。私はそばと山菜の定食を頼んだ。
 前回の山菜定食*と同様、奈良の山菜は相変わらずとても美味しい。奈良の山では肉や魚を食べることはあまりないが、それでも十分に満足できるのだ。
 次の與喜天満(よきてんまん)神社に歩いて向かう途中、名産のよもぎ餅を6個購入した。750円であった。

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そばと山菜の定食

 
與喜天満神社

 長谷寺のすぐ近く、左に曲がれば長谷寺にたどり着くという道を今度は正面に進むと長い長い階段があり、それを上りきると與喜天満神社がある。神社は本当に人が来ないらしく、階段には苔がびっしり生えている。もちろん私たちのほかに人影はひとつも見えなかった。

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與喜天満神社の階段

 境内にそびえ立つ大木や階段の脇を流れる湧き水、澄んだ空気などは伊勢神宮のものに似ていた。個人的には與喜天満神社の質はとても高いと思っているのだが、如何せん周辺に優れた寺社仏閣がありすぎて話題にならないから知名度も上がらないし人も来ない。何とも贅沢な話である。

 本殿の背後には山があり、左側からは山の気が強く流れてくる。私たちは縁側に腰かけてよもぎ餅をむしゃむしゃ一気に食べ、しばらくぼーっとしていた。
 そのときふと、神社とはそこに神がいるから建つのではなく、大いなるものを前にして心が震え頭が下がるときそこが神社になるのだということがわかった。すると、今までは鳥の鳴き声が時おり聞こえるばかりだったのが、一陣の風が吹いて紙垂(しで)が背後でかさかさと音を立てた。このとき感じた畏れとも敬いとも言い難いようなあの気持ちを誰かに伝えることは絶対にできないし、これからもできないままなのだろうと思った。

 次の薬師寺に向かう電車ではなぜか泣きそうになり、友人にばれないようにずっと窓の外を見ていた。

 薬師寺

 友人は疲れて先に帰ってしまったので、薬師寺からは私ひとりで行くことになった。
 薬師寺には西ノ京駅から南へ1分歩くとすぐ到着した。境内はとても広く、参拝客がちらほらいた。
 仏像は白鳳時代のものが多かったが、それらは最近作られたのではないかと感じるほどすべてが新しく見えた。興福寺の仏像をはじめ、白鳳時代の仏像はかえって新しく感じられることが多い。
 薬師寺で一番すごいと思ったのは国宝の東塔だった。地面からがっしりと生えたその姿は、ちょっとやそっとでは揺らがないだろうなと思った。

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薬師寺五重塔


唐招提寺

 唐招提寺には薬師寺からそのまま歩いて行くことができる。世界遺産から世界遺産へと気軽に歩いて行けるというのは、世界遺産に認定されることが薬師寺唐招提寺自身には何の関わりもないことだとはわかっていても、なんとなくお得な気がする。

 寺の境内に入った瞬間、中国成都にある武伺祠博物館を思い出した。唐招提寺には中国的な雰囲気がどことなく漂っており、さすがは鑑真の建てたお寺だと思った。

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唐招提寺入口

 境内はとても広いが人は多くない。手前にはちらほら人影が見えるが、奥に行くほど人が少なくなる。
 金堂の仏像はすべて国宝で、私は中を覗いた途端に圧倒されてしまった(何なら金堂自身も国宝だった)。千手観音菩薩像が特に印象に残った。
 寺の奥の方には教科書で見たことのある有名な鑑真像があり、そのさらに奥には鑑真の墓があった。

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千手観音菩薩立像(唐招提寺HPより)


東大寺二月堂 2回目

 本来なら唐招提寺のあとに西大寺に行く予定だったのだが、時間が足りずに行くことができなかった。これがすこし悔しかったので、代わりに前日に引き続き東大寺二月堂に行くことにした。夜道は暗いとはいえまだ17時半なのに、相変わらず奈良公園にも東大寺境内にも人がいなかった。奈良は陽が沈むとすぐに深夜3時になるらしい。

 二月堂に無事たどり着き、舞台から街の景色をぼーっと眺めつつ歩きまわっていると、二月堂の裏手に山に通じる階段を見つけた。興味が湧いたので階段を上っていくと、ただでさえ薄暗い二月堂内よりさらに暗くなっていき、ついに明かりのまったく無い山道へと来てしまった。
 なぜか前に進むことをやめられなかった私は、スマートフォンのライトをつけて足元を照らしながら舗装されていない山道を歩き続けた。そこが二月堂の真裏であり、したがって安全な場所だと頭ではわかっていても、木の葉が1枚落ちる音が聞こえるだけで全身の筋肉が硬直して戦闘態勢(あるいは逃走態勢)に入ってしまう。夜が危ないというのはこういうことなのだろうと思った。
 恐怖に耐えているうちに私はいつの間にか走っており、するとそのうち川と民家に行き当たった。ここが一応ゴールだと思い、また恐怖に耐えて二月堂へと走って戻ると、あったはずの明かりが1か所なくなっていた。これにはさすがに肝が冷えた。

 無事二月堂にたどり着いて少し休んだ後、ようやく帰途に就くことにした。先日満月だった月は薄雲にかすんでおり、その下で鹿が1匹ぐっすり眠っていた。

 夕食

 夕食は先に帰った友人が作ってくれていた。焼き鮭と奈良漬とみそ汁でごはんを3杯食べた。奈良漬にチーズをのせて食べると驚くほど美味しく、思わずビールをごくごく飲んでしまった。
 

三日目

 朝食

 朝食ではごはん大盛、奈良漬、納豆、みそ汁を食べた。食事が友人と一緒で楽しいせいでもあるだろう、奈良のごはんはとても美味しく感じる。
 この日は終日雨模様だったが、幸いにも強くは降らなかったし風もなかった。 

枚岡神社

 友人の家がある東生駒は近くに生駒山が見え、そこを越えるともう大阪である。枚岡神社生駒山を越えてすぐの枚岡駅から徒歩1分くらいのところにあり、大阪方面の改札を出て右に曲がると目の前に鳥居が建っている。
 空気は奈良や伊勢ほど澄んではいないが、それでも質はかなり良い。人はまったくと言ってよいほどおらず、広い境内には私たちのほかに2人しかいなかった。

 境内の右側には滝行ができるところがあり、大小2つの滝が流れている。表には「禊場」との表示があるだけで使い方などの説明は一切なかったが、私はそうした観光地化されていない感じがとても好きだった。無人だったので中に入ってみると、着替え用の簡素な小屋と手水所と滝があるのみだった。夏に友人が禊場を訪れた際には仕事帰りのサラリーマンが滝に打たれていたとのことだった。

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枚岡神社の「禊場」

 本殿の右手には地面が少し盛り上がった場所があり、そこを上るといい角度から本殿を一望することができる。本殿は背後の山からの気に満ちており、神社が建つ土地というのはやはりこのように気が盛んでなければならないのだと思った。

 境内では「日本人なら日本国旗をかかげよう」「正しい日本語を使おう」のような文言が所々見られた。よくよく読んでみるとその「正しい日本語」とやらは単に「を」「ゐ」「ゑ」を使っているだけの幼稚なものだったし、そもそも国籍、国旗、国語という近代以降の概念が神社に必要なのかどうかは疑問だった。神社はそんな概念ができる前からあったし、そんな概念が滅びた後もあるだろうから。

 次の法隆寺に向かう途中、枚岡駅前で「お前ナメとんのか」と電話している人がいて大阪っぽいなと思った(偏見)。

 法隆寺

 法隆寺はJR法隆寺駅から1km以上も離れており、それならバスで法隆寺前まで行ってしまったほうが楽だということで、私たちは王寺駅からバスで法隆寺へと向かうことにした。途中、生駒駅から王寺駅までの間には古墳が多く存在しており、電車内の雰囲気や外の風景には刺さるような独特の怖さがあった。

 法隆寺周辺を歩いていると地盤が明らかに固いのがすぐにわかり、歩くたびに地盤からの反発を受けて背筋が伸びた。これだけしっかりとした地面なら五重塔も立つなと思った。
 法隆寺には中学校の修学旅行以来訪れたことがなく、また当時の記憶がまるでないので行くのは実質これが初めてだった。法隆寺は格の高い空気で充満しており、ここで品のないことはできないという緊張感があった。修学旅行で来ている小中学生たちもいることにはいたが、数はそこまで多くなかった。

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法隆寺入口

 法隆寺は書くことがあまりにも多すぎる。入り口の南大門はいきなり国宝だし、五重塔も金堂ももちろん国宝。ほかの建物だって国宝か重要文化財、置かれている仏像などの文物も国宝か重要文化財ばかり。それに加えて私たちは1年のうち3日間しか見られない上御堂の内部も見ることができた。法隆寺のことはどんなに筆を進めたって書き尽くせやしないので、ここでは大宝蔵院にある百済観音像に絞ろうと思う。

 大宝蔵院に入り、国宝級の文物を見つつ先に進むと建物の中心に百済観音堂がある。百済観音堂はその名の通り、百済観音像のためだけにしつらえられた建物である。百済観音像は奈良時代に作られはしたが江戸時代になってはじめて目録に名前が載ったという来歴の点からしても不思議な仏像である。
 堂に入って百済観音を見ると、私はその場から動けなくなった。意識が百済観音の顔一帯に吸い込まれ、また水のようにしなやかな肢体に圧倒され、口を開けて立ち尽くすしかなかった。しばらくしてようやく動けるようになると「なんだよこれおかしいだろマジで」と笑いが込み上げてきた。百済観音像は、今まで見てきた仏像の中で間違いなく1番すごいと断言できる。

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百済観音像(pinterest.jpより)

 百済観音は何も見ていない。目の前でどれほどの人が祈り、どれほど修学旅行生がうるさくしていても、百済観音はまったく意に介さない。それほど全身や表情の力が抜けている。表情は生き生きとしているどころか、まるで死人の顔のように見える。
 百済観音は見れば見るほどよくもまあこんなものを作ったものだと感心させられる。像だけでなく、こんなすごいものを作った作者のほうにも興味がわいた。

 法隆寺をひと通り見終えたあとは法隆寺の奥にある中宮寺に行った。中宮寺の本尊の菩薩半跏像は極めて完成度が高く、間違いなく最高傑作の1つだと思った。遠くからしか見られなかったのが少し残念だが、いつか博物館などでお目にかかる機会があったら近くでじっくり見てみたいと思う。

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菩薩半跏像(中宮寺HPより)

 中宮寺を出た後は門前街で山菜うどんを食べた。シャキシャキしていて味が濃く、美味しかった。

 興福寺

 法隆寺で天下第一の仏像(百済観音)を見たので、次は天下第二の仏像(阿修羅像)を見に行こうということで私たちは興福寺へと向かった。

 興福寺はこれまで東金堂と国宝館しか見ることができなかったが、私たちが訪れた11月2日には北円堂の特別公開と中金堂の拝観再開があり、合計で4つもの建物を回ることができた。
 友人が興福寺「友の会」会員なので、私は再び「お連れ様」としてほぼ無料で4か所を回ることができた。前回興福寺に来た時に東金堂のお香を買って家で毎日焚いていたので、東金堂に入ったときは一瞬家に帰ったような気がした。

 これも法隆寺と同様に全部を書こうとすると長くなるので、国宝館の阿修羅像について話す。前回来た時には阿修羅像にボロボロに打ちのめされて途方に暮れていたが*、今回は2回目だし、何より先に百済観音を見てきたおかげで阿修羅像には打ちのめされずに済んだ。阿修羅像が国宝の中でもぴか一であることに変わりはないとはいえ、百済観音像はそれ以上に異質すぎた。

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阿修羅像(興福寺HPより)

 阿修羅像をしばらく見ていたら心に余裕が出てきたので、阿修羅像の隣に百済観音を思い浮かべてみた。とんでもない光景になってしまい思わず笑ってしまった。

 帰りはさすがにへとへとだった。法隆寺興福寺を一日で巡るのはさすがにエネルギーを消耗する。私たちは家に帰り、ポトフを作って食べた。
 

四日目

 朝食

 前日のポトフが大量に余ってしまっていたので、朝食はポトフを3杯食べた。その後、今回もお世話になった友人宅に別れを告げると、最初の目的地へと向かった。
 予定ではまず西大寺に行くつもりだったが、雨上がりの空気がたいそう綺麗だったので、予定を変更して生駒山中にある宝山寺に行くことにした。 

宝山寺

 宝山寺生駒駅からケーブルカーに乗って宝山寺駅で降り、そこから300メートルほど階段を登ったところにある。ケーブルカーの車内は混んでいたがみんな山頂の遊園地に行くらしく、宝山寺を目指していたのは私と友人の2人だけだった。
 長い階段の途中には宿がたくさん並んでいる。とはいえ現在も営業しているのは半分にも満たないほどで、諸行無常の感があった。

 階段の両側に置かれた数多くの灯篭を通り過ぎていくと、大きなしめ縄のかかった鳥居がある。もはや寺ではなく神社だろうという見た目で、実際のところ境内も神社的要素のほうが強いように見受けられる。
 境内の灯篭にはそれぞれ寄付者の名前と金額が書かれており、金額はどれも100万円以上だった。ちなみに最高額の1億円を寄付した人の名前は「某」であった。

 友人曰く宝山寺では線香をたくさん使うとのことなので、境内の売店でひと掴みの線香を132円で購入した。とても安いと思った。
 線香は売店で買わなくても、主だった建物の前に1本数円で置いてある。また、香炉と線香に火をつけるための炭火がいたるところにあるため、境内は煙がもくもくと立ち込めている。香炉のそばで1分も立っていればその日は全身から線香の香りがすることになるだろう。

 本堂を抜けると長い階段があり、その両脇にはずらりとお地蔵さまが並んでいる。深い森の中に静かに並ぶ地蔵の列は圧巻というほかなく、私たちは線香を香炉の中に道しるべのように灯しながら先へと進んだ。私がたまたまターボライターを持っていたのでスムーズに線香をお供えすることができた。

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宝山寺境内

 線香に加え、境内では200円で1円玉200枚を買うことができる。お地蔵さまの前に1つ1つ供えていくもよし、本堂などで一気に使い切るもよし。私たちは本堂で一気に200枚を流し込み、じゃらじゃらと大きな音を立てて楽しんでいた。まわりの人たちが何事かと振り返っていた。

 西大寺

 ケーブルカーで生駒駅へと戻り、そのまま急行で大和西大寺駅へと向かう。この駅は特急も止まる大きな駅であり、構内は人の往来が激しい。西大寺は南口から徒歩2分ほどのところにある。

 西大寺はメジャーな観光地ではないため、境内には人がおらずとても静かである。平日は境内の幼稚園が開いており園児たちの元気な声がするらしいが、訪れたのは祝日だったのでひっそりとしていた。西大寺では聚宝館、本堂、愛染堂、四王堂(うち聚宝館と愛染堂所蔵の愛染明王像は期間限定公開)を訪れた。

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西大寺本堂

 西大寺の境内や各建物に共通するのは、文物との近さと落ち着いた雰囲気である。まず文物との距離が明らかに近い。聚宝館は手を伸ばせば届きそうなところに重要文化財がガラスも何もない状態で置いてあるし、本堂などでも仏像のすぐそばまで近づくことができる。
 また、雰囲気がとてものんびりしており、各建物の中では足を伸ばしてくつろぐことができる。友人は畳の上で寝転がっていたし、私は座ってぼーっとしていた。
 西大寺と私はなぜか馬が合うらしく、居心地の良さもさることながら西大寺の線香の煙が絶えず私に向かって流れてきた。私の周りだけ異様に煙がもくもくしており、友人と2人で「なにこれ」と笑っていた。

 のんびりした良さを味わいたいなら、西大寺は特におすすめである。

 元興寺

 近鉄奈良駅から南に10分ほど歩くと元興寺がある。途中の商店街にはいろいろな店があり、人も多く活気があるので見ていて楽しい。

 商店街を抜けて左に曲がると定食屋のような「元興寺」の看板がある。お前本当に世界遺産かと言いたくなるような看板だが、そもそも元興寺世界遺産に認定されなくても元興寺だし、UNESCOよりはるかに長い歴史を持つ元興寺が今さら世界遺産という称号など気にしないだろうな、とも思った。

 元興寺の本堂は世界トップクラスの安定した雰囲気がある。まさに絶対安心の建物といった感じで、ここまで安定感を与えてくれる建築はそうはない。使われている木や瓦は相当古く、時代を感じさせるとともに引き締まった空気も醸し出している。縁側に人はなく、私と友人で腰かけて日向ぼっこをしていた。

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元興寺本堂

 法輪堂にはミニチュア五重塔(国宝)などの文物が展示されている。また文物を当時の状態に再現したレプリカや当時の民衆の信仰に関する資料も展示されており、勉強になった。

 東大寺

 元興寺での日向ぼっこを楽しんでいたら陽が傾いてきたので、そのまま歩いて東大寺へと向かった。途中興福寺があったので寄ろうかと思ったが、時間が微妙だったのでまず未訪問の東大寺大仏殿に行くことにした。修学旅行以来の訪問であった。
 奈良公園や南大門のあたりには多くの観光客がいてにぎわっており、鹿がしきりに餌をねだっていた。陽が沈むと一気に深夜3時になる奈良公園東大寺だが、陽が出ているうちは活気があった。

 南大門を抜け大仏殿へと歩みを進めると、改めてその大きさに驚かされた。木造建築にしてはあまりにも巨大すぎる。奇跡のようなスケールの大きさだ。観光客は確かに多かったが、建物が大きいのであまり気にならなかった。

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東大寺大仏殿

 大仏も信じられないくらい大きく、その巨大さのあまり写真を撮る気にもなれなかった。光背も当然大仏並みのサイズであり、後ろから見たらびっくりするほど分厚かった。こんな大きな仏像の前で、みんなでひざまずいて祈ったらさぞ気持ちいいだろうなと思った。

 大仏殿を出た後、その足で期間限定公開の三月堂へと向かったのだが、16時で閉館らしくすでに閉まっていた。着いたのは16時8分だった。
 三月堂には入れなかったので、最後に東大寺ミュージアムを訪れた。中には多くの国宝級の文物が展示されており、これも非常に楽しめた。

 エピローグ

 東大寺ミュージアムを見終えた私と友人はお腹が空きすぎてふらふらになってしまっていたので、奈良駅前の餃子の王将に行きご飯をたくさん食べた。そこでひとしきりおしゃべりを楽しんだ後、私は東京に、友人は生駒に、それぞれ帰途に就いた。
 今回の奈良旅行を経て、友人にはとても成長したと言ってもらえたし、私自身もそれをよく実感している。実に有意義な4日間となった。

 前回に引き続き、今回の旅もプロデュースしてくれた友人には頭が上がらない。また、道中お世話になった現地の方々、そして奈良にも大きな感謝をささげたいと思う。

 (近畿周遊記2 完)

杜牧「江南春」訳・解説

 【本文】

千 里 鶯 啼 緑 映 紅
水 村 山 郭 酒 旗 風
南 朝 四 百 八 十 寺
多 少 楼 台 煙 雨 中

千里 鶯(うぐいす)啼き 緑 紅(くれない)に映ず
水村(すいそん) 山郭(さんかく) 酒旗(しゅき)の風
南朝 四百八十寺(しひゃくはっしんじ)
多少の楼台 煙雨(えんう)の中

千里のかなたまで鶯は鳴き木々の緑は花々の紅に照り映えて
水辺の村にも山の町にも酒を売る店の旗が風にはためいている
南朝のころにあった数多くの寺は
どれほどがこの煙のような雨の中に残っているのだろう

【解題】

 この詩は「清明」や「贈別」などと並ぶ杜牧の代表作の一つである。
 また、これは私が大学に入学したてのころ、中国語の授業で最初に覚え(させられ)た思い出の詩でもあり、漢詩を中国語で読むという経験はこの詩を暗唱することから始まった。だから漢詩の読解についてもこの詩から始めることにした。

 読み進める前に一つ言っておきたいのは、漢詩にはインスタグラムのような側面があるということである。漢詩は心に残った風景を投影する場であり、読み手には詠まれている風景を眼前に映し出そうとする努力が必要になる。

 第一句は比較的わかりやすいだろう。江南は水が豊かな地方であり、春になると木々は緑に生い茂り花々は紅に咲き誇る。そうした森の中からは木々に遊ぶ鶯たちの鳴き声が聞こえてくる。春の生き生きとした美しい情景を音と色の二つの側面から描いている。

 第二句、第三句は名詞ばかり並んでいて少し読みにくいかもしれないが、このような名詞ばかりの句は漢詩にはよく出てくるので慣れておくと便利である。コツは先ほども言ったように眼前にその風景を思い浮かべてみることだ。
 もしこうした句を文字のレベルだけでとらえてしまうと、例えば第二句は「水辺の村、山の町、酒を売る店の旗、風」となり何を言っているのかよくわからないが、一幅の絵画のようにとらえてみると日本語訳のような風景が浮かんでこないだろうか。
 ちなみに第三句の「十」は韻の関係で「しん」と読むらしく(松浦・植木ほか)、これに関しては私も「へーそうなんだ」という感じ。

 第四句を読み解くにあたっての鍵は「多少」だ。この単語をどの意味にとるかで解釈ががらりと変わってくる。これについて少し考えてみよう。
 「多少」の今日的な意味としてまず思い浮かぶのは「多くの」「多少の」だろう。これをこの詩に当てはめてみると、第三句と第四句の解釈は「南朝のころに建てられた数多くの寺は、その多くが煙のような雨の中にある」となり、風景描写としてシンプルで読みやすい。この解釈を採用している翻訳もいくつかある(石川、市野澤)。

 しかし私は「多少」を疑問詞としての「どれほどの」の意味としたい。これは現代中国語でメジャーな用法であって日本語話者にはあまり馴染みがないかもしれないが、実は「どれほどの」の方が本義で「多くの」は派生義にすぎない(松浦・植木)。そこで、「多少」をその本義である「どれほどの」の意味でとらえ直してみると、第三句と第四句は日本語訳のとおりとなり、風景描写に時間的な奥行きが出てくる。

 「多少」を疑問詞としてとらえたのは私の他に川合康三、松浦友久、植木久行がいるが、彼らは単にどれほどの寺があるのか気になっているとするだけで時間的な奥行きは与えていない(少なくとも強調してはいない)。
 だが私には「どれほどの寺があるのだろう」というよりは「かつて仏教が栄えた南朝時代に作られた数多くの寺のうち、いったいどれほどが残っているのだろう」というふうに読めてしまったし、実際この解釈にした方が味わい深いと思うので、あえて時間的な奥行きを与えてみた。

 時間的な奥行きというと「栄枯盛衰」「無常」の感が出ていかにもしみじみとした詩だと思われるかもしれないが、この詩についてはそうではないと思う。「江南春」は全体を通じて淡々とした調子の作品であり、前半部の色鮮やかさや後半部の時間的な奥行きは前面に押し出されてはいない。

 この詩はまさに春の風景をぼーっと眺めているときの意識のあり方、目にはちゃんと景色が映っているし頭では何かを考えてはいるのだがどちらもあまりはっきりしない感じ、そうした状態を映し出しているように私には読める。

 【参考文献】

石川忠久編『漢詩鑑賞事典』講談社、二〇〇九年。
市野澤寅雄『漢詩大系十四 杜牧』集英社、一九六五年。
川合康三『中国名詩選 下』岩波書店、二〇一五年。
松浦友久・植木久行編訳『杜牧詩選』岩波書店、二〇〇四年。

【余談】

本当は漢文なので縦書きにしたいが、どうやらこのブログにその機能はないらしいので涙を呑んで横書きを受け入れている。

憾満ヶ淵

 JR/東武日光駅を降りて日光東照宮へとまっすぐ進み、神橋を渡って左に曲がり大谷川をさかのぼるようにして道なりに進んでいくと、慈雲寺と書かれた門がある。直線距離にして駅から約2.5キロ、東照宮から少し外れた人気のないところにあるからだろう、辺りはひっそりとして川のごうごう流れる音がただ響いている。他には鳥の鳴き声が時々聞こえてくるだけで、人里から隔絶した感じが開放的でもあり少し心細くもある。

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慈雲寺入口

 慈雲寺のこぢんまりとした本堂を抜けて奥へ進むと道は次第に細くなり、大谷川の激しい流れがすぐ右に見えるようになる。透明度の高い水はあちこちでエメラルドグリーンの川面を作り出し、巌に生じる大量の泡沫はその川面を青竹色に染め直している。
 淀みなく流れる清流は目に心地よく、水と巌がぶつかる地鳴りのような音は耳に心地よい。森と清流が運んでくる澄んだ空気は、身体も心も洗い流してくれるような気がする。周囲に人がいないのもこうした心地よさに輪をかけているのだろう。

 少しの間歩いていると、化け地蔵と呼ばれている70体ほどのお地蔵さまがずらりと並んでいるのに出くわす。お地蔵さまの中には、首のないもの、石のかけらになったもの、様々なものがあるが、それぞれに赤い帽子がちゃんとかぶせてある。お地蔵さまはたとえ異形になってもやはりお地蔵さま、日光に住む人々の、旅人の、心の拠り所である。

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化け地蔵、大谷川をじっと見据えている

 化け地蔵を左に歩みを進めてゆくと、にわかに「憾満ヶ淵(かんまんがふち)」の標識がぽつんと立っている。その標識に従って右に目を向けると、なるほど大谷川に突き出した岩に何やら梵字が彫ってあるのがうっすら見える。梵字不動明王真言「かんまん」と書いてあり、人々はこれを指して「憾満ヶ淵」と呼ぶらしい。
 憾満ヶ淵は、男体山、大谷川、梵字が織りなす名勝である。霊的なパワーはさほど感じないが、雄渾な自然が醸し出す緊張感がある。

 化け地蔵と大谷川に挟まれたわずかな面積の渓谷には、そこかしこに石が積み上げられている。石のひとつひとつは片手で持てそうなくらい小さく、風でも吹けば崩れてしまうのではないかと思うほど心許ないが、激しく流れる川のすぐ横で静かにバランスを保っている。石の塔は5,6段のもあれば2段しかないものもある。

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石の塔

 川、石の塔、地蔵……足場はかなりがたがたしているが、それでも賽の河原を彷彿とさせるには十分だろう。

 石の塔は、父母よりも早く死んでしまった子供達が、意地悪な鬼に蹴飛ばされながらもこつこつと積み上げてきたものである。石のひとつひとつが片手で持てそうなほど小さいのは、石の塔を作ったのが子供達だからに他ならない。
 渓谷で手ごろな石を見つけては、ひとつ、またひとつ、上へ積み重ねてゆく。そしてそのたびに、蹴散らされる。彼らがいったいどれほどの時を過ごし、どれほど怯え、どれほどの涙を流してきたか、私には何とも想像がつかない。ただ、少なくとも子供達にとっては永遠のように長い時間であったことは間違いない。

 石の塔がこのようにして残っており、かつ周囲に誰の姿もないということは、地蔵菩薩がいつしか紫雲に乗ってここに降り立ち、子供達を極楽浄土へと連れて行ったのである。意地悪な鬼に散々泣かされてきた子供達は、ついに阿弥陀の懐に抱かれに行った。化け地蔵が大谷川の石の塔に向かってずらりと並んでいるのはその痕跡でもある。

 菩薩の慈悲にあずかった子供達は、虚空に花降る景色を見よう。黄金の雲の満天にたなびくのを見よう。伽羅の柔らかな香りに包まれ、それまで鬼に怯え強張っていた身体は次第にほぐれていったろう。
 子供達からすれば、まるでこの世の悪いものすべてが、それを包むようにして広がっている眩い慈悲の中に飲み込まれてゆくように思われた。
 そして子供達は菩薩に向かって、生きている間も死んでからも自分達がどんなに苦しんだか、どんなに涙を流したか、拙い言葉で一生懸命に話しかける。菩薩は子供達を優しく抱きとめつつ、いまだ河原で石を積む子供達のために救いの誓願を新たに立てる。

 憾満ヶ淵に生じては消える、玉のような水しぶきは、蓋し虚空に降りしきった花びらの水面に浮かんだのが、巌に当たって輝くのである。

月の炎

 天高く上って白くなった満月を長い間見ていると、月の輪郭から青い炎が出てくる。

  私の好きな女(ひと)は月から来たのだという。突拍子もない話ではあるが、本人が言うならまあそうなのだろう。
 腰まである艶やかな黒髪、情熱的でいてその奥にある種の諦観を秘めた瞳、深紅の口紅がよく似合う唇、張りのあるたわわな胸、程よく力みが取れしかもしっかりと伸びた背筋、文字通り「く」の字にくびれた腰、健康的ですらりとした脚、よく手入れされ光沢を放つ足の爪。着ている服はいつも濃い色をしたシンプルな形状のもので、香水をときどきつけている。
 花にたとえるなら、彼岸花に似ている。

  彼女と私は美術館で出会った。彼女をひと目見てその非凡なオーラに気づいた私は、美術館から出てくるところを見計らって声をかけた。私たちは互いに美術や本が好きで、しかも好きなジャンルも似ていたため、すぐに打ち解けることができた。
 出会いから一週間後、私たちは恋仲となった。

 私たちは強く求め合った。激しく愛し合った。穏やかに語り合った。出会ってからの日々は瞬く間に過ぎていった。
 彼女の瞳は常に私をまっすぐとらえていた。それでいて、私を見てはいなかった。その瞳は、私と一緒に過ごす時間が幸せだけでなく別れをも育むことを知っていた。
 私はそのことに気づいていた。彼女の瞳には深い愛情と悲しみがあった。それでも彼女と一緒にいる時間がとても貴重で愛おしくて、悲しみの方には気づかないふりをしていた。

 ある日彼女は、自分は月からやって来たのだと告白した。前世で罪を犯した彼女は、肉体とともにこの地上に産み落とされたのだという。肉体は枷となり、彼女が月へと帰ることを阻むのだという。そして、地上の何に心惹かれても、月のことが魂を捕らえて離さないのだという。
 不思議なことに、私はこの突拍子もない話を至極もっともだと思った。確かに突拍子もない話ではあるが、本人が言うならまあそうなのだろう。同時に、もうお別れなのだと思った。
 その日は中秋の名月だった。切ないほど澄み切った空の下、切ないほど美しい月明りの下で、私たちは最後の抱擁を交わした。家に帰ってLINEを開くと、連絡先はすでになかった。 

 彼岸花の球根には毒があるのだという。その毒はひどい場合には中枢神経を麻痺させ、人を死に至らしめることもあるのだという。
 死に至るまでには、いったいどれほどの毒を摂取すればよかったのだろう。私の頭は今でもぼんやりと痺れたままでいる。 

 天高く上って白くなった満月を長い間見ていると、月の輪郭から青い炎が出てくる。月の炎は、月明りとともに闇夜を照らす、満月の端でゆらゆら揺れる、止めどなく燃え上がる。炎の色は、空の鏡、夜の氷、波の青。

誕生日の話

 2020年9月22日、私は26回目の誕生日を迎えた。まだまだ若いとはいえいわゆるアラサーに突入し、身体の疲れは10代のころと比べて明らかに取れにくくなっている。とはいえ着実に成長できているのも確かで、今年は自分から何かを作っていく年にしたいと思っている。

 誕生日はおめでたい。このことについて異論をはさむつもりはない。
 しかし、誕生日を生まれた日、すなわち私でいえば1994年9月22日だとするなら、「私の誕生日とはあくまで1994年9月22日なのであって、それ以降の9月22日は誕生日ではない」と主張することも一応は可能なわけだ。というか、「誕生日」という漢字だけをみれば、それは文字通り「誕生した日」なのだから、むしろこの主張のほうが正当なのではないかとすら思えてくる。
 われわれが普段何気なく使っている誕生日という言葉とその用法は、すでに過ぎ去った本当の唯一の「誕生日」を固定化するためにわれわれが後からこしらえたものなのかもしれない。

 思えばこれは誕生日に限った話ではなく、記念日すべてに当てはまる。
 われわれは8月15日と聞けば終戦記念日、3月11日と聞けば東日本大震災の日を思い出すが、第二次世界大戦が終わったのは1945年8月15日(実は歴史学では異論の多い日付である)だし、東日本大震災が起こったのは2011年3月11日だ。それ以降の8月15日や3月11日は単に月日が同じだというだけであって、終戦東日本大震災が起こった日ではない。

 このように、過ぎ去った日のもう二度とやってこなさに抗って、それを固定化しカレンダー上に過去の痕跡を残しておくための試みが「記念日」である。

 繰り返しになるが、9月22日になったからといって私がまた誕生するわけではないし、8月15日になったからといって終戦するわけではない(そもそも今は戦争をしていない)。その日を記念するのはひとえに記念しておきたいからであって、過ぎ去った日が原理的にもう二度とやってこない以上、それは恣意的なものであることを免れない。
 こういうわけで、私は記念日を必然的な根拠のない一種の「こじつけ」だと見なしている。記念日がそうした「こじつけ」だからこそ、記念日は増減したり移動したりできる。記念日に必然性があったらそうはいかないだろう。

 この点、記念日と季節は明らかに異なる。
 季節は五感で直接感じることができる。じめじめして蒸し暑ければ夏だし、乾いた冷たい空気が凛と張りつめていれば冬だとわかる。
 他方、記念日は五感で感じることができない。カレンダーも何も参考にせずに「今日は誕生日だな」とは絶対にわからない。記念日は、記念されるべき内容とは基本的に無縁の、何の変哲もない一日である。

 私はこれまで記念日の無根拠性を強調してきたが、だからといって記念日が無価値だとは考えていない。むしろ記念日には根拠がないからこそ価値があり、誕生日には根拠がないからこそおめでたいと言いたい。
 五感をフルに使っても何も感じられない、そんな何の変哲もない1日が、記念日だというだけで特別な1日に変わる。昨日となんら代わり映えしない1日が、誕生日だというだけで、クリスマスだというだけで、うれしい1日へと変貌する。
 私はこれが誤りだとはまったく思わない。
 ただの1日が特別なものになるのなら、たとえ根拠がなくとも記念日には大いに価値がある。だから、記念日には思いっきり喜ぶとよい。思いっきり泣くとよい。思いっきり思い出にひたるとよい。
 根拠がないからこそ、そこには自分から思いっきり何かをできる余地がある。

 ただし、記念日には根拠がないのだから、その日に喜んだり泣いたりするよう強制することは原理的にできない。記念日にどうするかはあくまで自発的なものなのである。
 だから、記念日になにかアクションを起こすにあたっては、記念日が当事者にとって「束縛」にならないように、みんなで記念することが当然だと思わないようにしたり、記念される側がそれを期待しないようにすることが大切になるだろう。

 誕生日はおめでたい! 根拠がないのにこの1日は喜んでいいのだ!

【追記】
 先日の誕生日では多くの方(Twitterのふぁぼ含めて10人ほど)からお祝いのお言葉や贈り物をいただき、本当にありがとうございました。私も無理なく健康に生きていきますから、みなさんも無理なく健康に生きてください。

【追記その2】
 どうでもいいことですが、1回目の誕生日(=誕生した日)に「0歳」とカウントされるのはなんだか変な感じがします。1回目の誕生日を迎えたのにゼロなの?みたいな。いやまあ、ちょっと考えれば別に変じゃないってわかるんですけどね。

ちゅう太の話

 これは、とある時代の、とおい国のおはなしです。

 その国のはずれ、都からは山をいくつも越えたところに、〈あかい村〉という村がありました。あかい村は農業でくらしをたてている小さな村で、人々はその日その日をのんびりと、ほがらかに過ごしていました。

 あかい村にはちゅう太という若者がいました。ちゅう太はかぞえ年で二十二、けっして力もちではありませんでしたが、もの知りでやさしかったので、みんなから頼りにされていました。ちゅう太は毎日たくさんはたらき、たくさん食べてたくさん寝ました。ちゅう太はこんな日がいつまでも続けばいいと、ぼんやり思っていました。
 

 そんなちゅう太には、ある悩みがありました。それは、悲しんだり怒ったりするとき、ちゅう太にはそれがほんとうの気持ちではないような、まるで演技でもしているかのように思われてしまうことです。

 たとえば、村のおばあさんが死んだとき、おばあさんに小さいころからかわいがってもらったちゅう太は、胸の奥がひっくひっくいって息をするのが苦しくなるほど泣きました。それでもちゅう太は、涙と鼻水で顔中びちゃびちゃにしながらも、「おれは今ほんとうにかなしいのだろうか? おれはかなしいふりをしているだけなのではないか?」と思ってしまったのです。おばあさんが死んだと知ったときは悲しくて涙があふれ出たのに、いざ泣きはじめてみると悲しいのかどうかわからなくなってしまったのです。

 ちゅう太は悲しんだり怒ったりするときいつもこうでしたが、だれにもこのことを話しませんでした。なのでまわりの人たちは誰も気づかず、村のおばあさんが死んだときも、泣きじゃくるちゅう太のことをやさしいやつだと思っていました。ちゅう太は自分がひょっとしたら「はくじょう」なのではないかと思い、ひとり思い悩んでいました。
 

 それでもちゅう太には、ほんとうのことだと思えることがひとつだけありました。ちゅう太はときどき、この世界に生きているものすべてが、いや、空や大地や石などの生きものでないものも含めたすべてが、どうしてもしあわせになってほしいと焼けつくように願うのです。そしてそれが実現するためには、ちゅう太はただひとり、しあわせになる世界の身代わりとなって死ななければならない。ちゅう太はときどき、そんなことを思うのでした。

 この考えはいつも突然やってきます。畑しごとを終えて歩いているとき、すきな歌を口ずさんでいるとき、景色をぼんやりながめているとき。もはや単なる考えではなく衝動とでも呼ぶべきそれは、生じるたびにちゅう太のこころを焼きつくします。

 おれは世界のしあわせのために死ななければいけないのだ。おれが世界の苦しみをすべてひっかぶって、ついには火のなかに身を投じるのだ。

 ちゅう太はこの考えにひたっているあいだ、夢中になってなにも疑わずにすむので、とてもしあわせでいることができました。
 

 ある日ちゅう太が村を出て、用事をすませるためにひとけのない森のなかを歩いていると、いきなり意識がぼんやりして、どこからか声が聞こえてきました。

「おまえ、覚悟はあるか」

ちゅう太はなにがなにやらわかりません。意識はさらにぼんやりして、もはや周囲のことはなにも気にならなくなっています。すると、

「おまえ、それをほんとうにやってのける覚悟はあるか」

ちゅう太はやはりなんのことかわかりませんでしたが、意識をはっきりさせて我に返ったとき、ちゅう太は塔のてっぺんに立っていました。

 塔はえんとつのような形をしていて、ぽっかりあいた中心部の底にはあかあかと光るマグマがたまっていました。マグマからはもうもうと湯気がたちのぼり、その熱さは塔のてっぺんにいるちゅう太にも伝わってきます。ちゅう太がぼうぜんと下をのぞきこんでいると、先ほどの声がまた話しかけてきました。

「そこからマグマに向かって飛び降りる覚悟はあるか。もしそれができたら、この世界のすべてをしあわせで満たしてやろう」

 ちゅう太はハッとしました。これはおれが普段から考えていることじゃないか。これが現実となる日がついに来たのだ。

 マグマをひと目見たときから、覚悟について訊かれる前にすでに、不思議とその覚悟はできていました。おれがここに飛び込むんだ。飛び込んで、この世の苦しみを全部ひっかぶるんだ。それがやるべきことなんだ。

 それに、道ばたのたき火ならいざ知らず、こんな大がかりなものをこしらえられてしまったので、ちゅう太はますますその気になっています。おれがやるんだ、おれが死んでみんながしあわせになるんだ。

 ふとあたりを見まわすと、塔の壁にはおおぜいの人たちの顔が浮かんでいます。ちゅう太は、この人たちがしあわせになるのだなと思う一方で、人々のヒーローを見るようなまなざしを受けて、ちょっぴり得意げになりました。でもすぐに「この人たちの顔はほんとうはまぼろしで、おれはただまぼろしに見つめられているだけなのかもしれない」という考えが浮かび、こちらをうれしそうに見つめてくる顔をながめてもなんとも思わなくなりました。ちゅう太は、だれのためでもなく、ただそれだけのために死んでゆくのでした。

 ちゅう太は、声に向かって語りかけました。

「おれはここでマグマに飛び込みます。だから、みんなを、ぜんぶを、ちゃんとしあわせにしてください」

 声はなにも答えませんでしたが、ちゅう太は相手にしっかり届いたと確信しました。

 ちゅう太はやや深く息を吸いこむと、視線を空に向けました。これまで自分を育ててくれた両親、いつも一緒だった友人、ずっと好きだった女の子の顔が思い出されます。おれがいきなりいなくなって、みんな驚くだろうな。お父さんとお母さんはきっとたくさん泣くだろうな。ちゅう太はしみじみと自分がいなくなったあとのことを想像しました。

 ちゅう太は目線を下におろし、もうもうと湯気をはきだすマグマを見つめました。あかあかとしたその光はまぶしいほどに明るく、どろどろと流れていきます。

 ちゅう太はそのうち、自然と体を前にたおしました。体は重さにしたがって地面に水平になり、やがて頭から真っ逆さまにマグマへと突っ込んでいきます。ちゅう太はまっすぐ頭から落ちるのはすこし怖かったので、手を上にあげました。顔をあげると、マグマがどんどんせまってくるのがわかります。熱さもどんどん強くなってきます。すごいな、まだ熱くなるのか、こりゃすぐ死ねるな。マグマにぶつかる寸前、ちゅう太は静かに意識を失いました。
 

 ちゅう太が気づくと、そこはもとの森のなかでした。なんの変哲もない光景が広がっています。先ほどの塔も、マグマも、もうどこにもありません。ちゅう太は驚きながらも微笑み、再び道を歩きはじめました。

玉を食うばけものの話

 むかしむかしあるところに、玉(ぎょく)をたべるばけものがいました。玉とは日本や中国などでたいせつにされてきた、きれいにみがかれた石のことです。玉はきれいですべすべしているので、みんなほしがり、たからものにしてきました。

 玉をたべるばけものは、ばけものといっても姿かたちはふつうの人間となにもかわりません。ことばだってしゃべれますし、うれしいときには笑ったりかなしいときには泣いたりもします。ただ、おなかがすいたときだけ、どうしても玉がたべたくなってしまうのです。これさえなければ、ぼくもふつうの人間になれるのに。ばけものはそれがとてもかなしく、まいにち泣いてすごしました。

 ある日ばけものが山のなかをあるいていると、村のこどもたちがあそんでいるのに出くわしました。ばけものはかくれようとしましたが、こどもたちがあんまりたのしそうにあそんでいるので、勇気をだしてこえをかけました。
 

「ねえ、ぼくもなかまにいれてよ」

「なんだ、みたことないな」「だれだだれだ」「となりの村のこどもかな」
 

 こどもたちは顔をみあわせてひそひそとはなしています。そのとき、ひとりのこどもが

「こいつ、しってる! 玉をたべちゃうばけものだ!」

とさけびました。ばけものは、しんぞうがどきどきして、むねがくるしくなって、思わずこどもたちにむかってよろよろと近づきました。
 

「くるな、ばけもの!」

「ぼくはばけものなんかじゃないよ、見た目だって、ほら!」

「でもおまえは玉をたべちゃうじゃないか、やっぱりばけものなんだ!」

「ぼくはばけものなんかじゃないよ、ことばだって、ほら!」

「でもおまえは玉をたべちゃうじゃないか、やっぱりばけものなんだ!」

「ぼくはばけものなんかじゃない、ばけものなんかじゃないんだ、きみたちとなかよくしたいだけなんだ、おねがいだから」

「ばけもの! ばけもの! ばけもの! あっちいけ!」
 

 ばけものは、いつもこうしてなかまはずれになってしまうのでした。また、じぶんでも、そうなることをこころのどこかでわかっているのでした。ばけものは、とぼとぼと山のなかをあるきはじめました。
 

 ばけもののすむ山のちかくには、べんかというひとがすんでいました。べんかというのは、王さまに玉をつくってプレゼントしたこともある、とてもえらい職人さんです。べんかには両足がありませんでしたが、かれのつくる玉はせかいでいちばんきれいでした。

 ある日のよる、べんかがねていると、ばりばりと音がするのがきこえました。ばりばりばり、ばりばりばり。音はべんかがふだん玉をつくるへやからきこえてきます。ばりばりばり、ばりばりばり。べんかはそっとへやに近づき、ふすまをすこしあけてなかをのぞきました。

 なかでは、ばけものがべんかのつくった玉をたべています。ばりばりばり、ばりばりばり。こんなにおいしい玉はたべたことがありません。ばけものはこっそりたべていたつもりでしたが、べんかのつくった玉があんまりおいしいので、いつのまにか夢中になってたべていました。

 けはいに気づいてばけものがふりかえると、そこにはべんかがおどろいた顔をして立っていました。
 

「ご、ごめんなさい!」
 

ばけものはあわててあやまりました。
 

 べんかはしばらくぼうぜんとしていましたが、やがてにっこり笑って
 

「いいんだよ、このへやに置いてあるのはじつは失敗作ばかりなんだ、だからえんりょなくおたべ」
 

 ばけものはえんりょしようとしましたが、しばらくずっと玉をたべていなかったので、けっきょくおなかいっぱいになるまで玉をたべてしまいました。すると、急にねむけがやってきて、ばけものはその場にへたりこんでしまいました。べんかはばけもののために毛布とまくらをもってきてやり、ばけものはあっという間にすやすやとねむりました。
 

 つぎの日のあさ、ばけもののとなりではべんかが気持ちよさそうにねいきを立てていました。ばけものは今のうちににげようとしましたが、べんかがとてもやさしくしてくれたことを思いだして、せめてお礼を言おうとべんかがおきるのをまっていました。

 やがてべんかがおきると、ばけものはあわてて地面にすわりなおし、あたまをさげて言いました。
 

「きのうは、ありがとうございました。たいせつな玉をたべてしまって、ごめんなさい」
 

するとべんかは、
 

「ああ、いいんだいいんだ。あれはほんとうにつかわないもので、もうすぐすててしまうところだったんだよ」
 

 ばけものは人にやさしくされたことがないので、べんかのうそには気づきません。あれはべんかがこれから売ろうとしていた玉だったのです。それでも、ばけものはべんかにふかく感謝し、なにか恩返しがしてやりたくなりました。
 

「お礼になにかしたいのですが、なにかできることはありませんか」
 

 べんかは両足がないので、思うようにうごくことができません。りょうりをするのもひと苦労。せんたくをするのもひと苦労。そこでべんかは、ばけものにたのみごとをしました。
 

「それなら、井戸から水をくんできておくれ。それと、火をたくのにつかう木のえだを集めてきておくれ」
 

 ばけものはふだんから山のなかにいるので、井戸のばしょも、木のえだがたくさんおちているばしょも、みんな知っています。ばけものはよろこんで山へとでかけました。いつもはしかたなく山のなかにいるのですが、今回のようにだれかのために山にいくのははじめてでした。ばけものはすぐに水と木のえだをもってきました。とちゅうできれいな花がさいていたので、べんかに見せてやろうと思っていくつかつんできました。
 

 べんかは玉をつくっているところでしたが、かえってきたばけものを見るとにっこり笑って
 

「ありがとう!」
 

と言いました。ばけものはそれがたまらなくうれしくて、うれしいのになぜかなみだがとまらなくなって、頭がぼうっとしてしまいました。おかしいな、うれしいのにどうして泣いちゃうのかな。ひっくひっくと泣きじゃくるばけもののせなかを、べんかはやさしくなでてやりました。
 

 ばけものがやっと泣きやんでおちついたころ、べんかの頭にはひとつのアイデアがうかびました。
 

「わたしがつくった玉をこの子にたべさせて、そのかわり水くみとかせんたくとか、足をつかわなければ不便なことをしてもらうのはどうだろう」
 

べんかはさっそくこのアイデアをばけものにつたえました。すると、ばけものはよろこんでうなずきました。目はひどくはれていますが、こんどはちゃんと笑ってうなずきました。
 

 ふたりはそれから、とてもなかよく暮らしました。ふたりの家からはたえず笑い声がきこえ、べんかはたくさんのきれいな玉をつくりました。

 そうして何十年もたって、べんかがさきに死んだあとは、ばけもののすがたを見たものはもうだれもいなかったそうです。