申如録

日常生活で考えたことなど

生まれ変わりの話

 

 私は漫画家・水上悟志さんの大ファンです。彼は数多くの優れた作品を世に送り出し続けていますが、その中でも『惑星のさみだれ』は不朽の名作なので機会があればぜひ読んでみてください。絶対に損はしません。むしろ得まみれです。

 さて、今回の話で取り上げる「生まれ変わり」は、そんな彼の作品のひとつ、『スピリットサークル』から着想を得たものです。私たちは生まれ変わりという言葉を気軽に(?)使っていますが、そもそも生まれ変わるとは何がどうなることなのでしょうか。このことについて、少し考えてみたくなりました。

 

1.生まれ変わりは可能か?

 「生まれ変わり」と言われたら、一般的にはどのようなイメージが湧くのだろう。前世、来世、死後の世界……おそらくこうしたイメージが湧いてくるのではないだろうか。だが、そのような生まれ変わりのイメージは、それについて論証もできなければ、反証もできないという理由で、あくまでも空想の域を出ない、とも言いうる。だとすると、われわれは生まれ変わりなど空想であり真剣に考えるに値しない、とでも言うべきなのだろうか?

 いや、そう簡単には断言できない、というのがここで私が述べたいことである。

 

2.生まれ変わりが起きるとしたらどのようなものか

 そもそも、生まれ変わりが起きるとはいったい何が起きることなのか、われわれは確認しておかねばならない。

 

 ここに銀行マンのAさんがいるとする。ある日、Aさんは疲れからか、不幸にも黒塗りの高級車に追突してしまい、そのまま息絶えてしまう。だが、ふと目を覚ますと見知らぬ部屋にいることに気づく。よくわからない和室のような部屋。聞いたことのない(でもたまに聞き取れる)言語を話す召使いらしき人々。そういえば身につけている服装もまるで違う。私が着ていたのはスーツのはずなのに、今は和服を着ているようだ。そうだ、ついさっき私は車にひかれて……Aさんは庭に出て池のふちにしゃがみ、自分の顔を確認してみる。誰だこいつは。そしてここはいったいどこなんだ? それにしてもこの風景、なんだか国語の資料集で見たことのあるような……もしかして、私は過去に来てしまったのだろうか?

 Aさんは、目覚めると平安貴族のBさんの姿になっていた。

 

 さて、ここで考えてみたいのは、Aさんは生まれ変わったのか、ということだ。読者の中には、Aさんは車にひかれて一度死に、新たに平安貴族のBさんとして生まれ変わったのだ、と主張する人がいるかもしれない。Aさんの魂のようなものが、車にひかれたことでAさんの肉体から抜け出て、時代を超えてBさんの肉体に乗り移ったというわけだ。確かに客観的に見てみると、Aさんは立派に(?)生まれ変わりを果たしたようにも思われる。

 だが、ほんとうにそうなのだろうか? 少なくとも、Aさんとしての記憶を引き継いでいる時点で、Bさんは実はAさんなのではないか? その証拠に、目を覚ましたAさんは自分自身をBさんだとは認識していなかったではないか。Aさんは、Bさんの肉体から物を認識してはいたが、その世界全体に見覚えがなかった。だとしたら、自分が特定の人間であることを決定づけるのは、肉体ではないのかもしれない。――われわれが私を私だと判断する根拠は、「見覚え」すなわち記憶なのだろうか?

 

3.人が自身について誰であるかを判断する要素は何か

 目を覚ましたAさんが戸惑いを感じたのは、目の前に開けているべき世界が実際に開かれている世界と異なっていたからだった。そしてその異なりを生み出した原因に、肉体のほか、記憶というものがあることを先にわれわれは確認した。

 

 一般に、人は行動や感覚の主体としての「わたし」を見失うことはない(ここでの「わたし」はまだ特定の誰かと結びついた「わたし」ではないことに注意されたい)。物が見えたのなら「わたし」が見たのであり、音が聞こえたなら「わたし」が聞いたのだ。これは、見えたり聞いたりすることがすなわち「わたし」なのだ、と言い換えてもよいだろう。だから、物が見えたにもかかわらず「わたし」ではなかった、ということは原理的にありえない。見た結果がどうであったかに関係なく、その「見る」という行為が行われたなら、それは「わたし」が見たのである。

 また、この「わたし」は特定の個人に必ずしも縛られるわけではない。見えたり聞いたりすることが「わたし」なら、どの肉体でそれが起きてもそれが起きたなら常に「わたし」だからだ。たとえば、自分のことを松井秀喜だと思っており、かつ周囲の人間からもそう思われている人間がいるとして(単に松井秀喜のことである)、彼が一瞬見た景色がイチローでなければ見られないような特殊な景色であった場合、今まで松井秀喜だった「わたし」は少なくともその瞬間イチローにあった、つまりイチローだったわけである。

 

 人が自身(「わたし」)を判断する要素は、以上のとおり、むしろ間違えようのないものだ。だが、人が自身について誰であるかを判断する要素、言い換えれば自身が「特定の人間」であることを判断する要素となると、事情はいささか異なってくる。

 単に「わたし」だけを判断するのであれば、先に述べたように実際に物が見えており音が聞こえているこの存在だ、というのが答えになるが、「わたし」が特定の人間であるということは、そこからさらに一歩を進めなければならない。「わたし」はおそらく人間一般に共通する要素であるから、それだけを頼みにしてしまうと全人類が同一人物になってしまう(「わたし」は他の誰とも共通しない、というのが「わたし」の最も大切な条件なのだが、それもまた人間一般に共通してしまう)。

 

4.「わたし」を特定の人間と結びつける要素は何か

 2.においてAさんが自分をBさんではなくAさんだと思えたのは、彼にAさんとしての人生の積み重ねがあったからであり、私(たつのすけ)が自分をたつのすけだと思えるのは、現にこの文章を作っている「わたし」がたつのすけの肉体を通じてそれを行っており、かつこの「わたし」はたつのすけとしての人生を積み重ねてきたからだ。つまり、「わたし」が特定の人間と結びつくには、それが行為や感覚の主体であるという要素とともに、記憶の蓄積という要素が重要な役割を担っている。

 だとしたら、もしある日自分の記憶が他人のそれになってしまったら、どうなるのだろうか。――答えはいたって簡単で、他人になる、より正確に言えば、それまでは他人だった人が自分だと思うようになるのだ。松井秀喜の記憶がある日突然イチローの記憶になってしまったら、少なくとも松井秀喜は自分自身をイチローだとみなすようになるし、私(たつのすけ)の記憶がメルケル首相の記憶になったら、私は自分自身をメルケル首相だとみなすわけである。

 なお、上述の想定では、記憶が違ったものになったことを把握する「メタ記憶」の存在は意図的に除外している。なぜなら、その「メタ記憶」も特定の人間と結びついているはずであり、よってメタ記憶の存在を認めてしまえば、「記憶が他人のそれになってしまう」という想定そのものが成り立たなくなってしまうであろうから。

 

5.記憶と生まれ変わり

 話を生まれ変わりに戻そう。およそ人が「わたし」を特定の人間として把握するためには、肉体が特定の人間のものであるというだけでなく、記憶の蓄積が重要な役割を担っていることを先に見てきた。記憶の蓄積が元のままだったからこそ、2.でのAさんは自身をBさんではなくAさんだと認識したのであった。つまり、記憶が引き継がれているかぎり、少なくとも当人にとっては、たとえ肉体が変わったとしても生まれ変わったことにはならないのだ(AさんがBさんの環境で生きることを受け入れたとしても、以前の記憶があるかぎりそれは変わらない)。

 ここまで述べれば、他人になる、つまり生まれ変わるための条件はもはや明らかだろう。生まれ変わる前の記憶をリセットすればよいのだ。AさんがBさんとして生まれ変わるには、Aさんの記憶はBさんには引き継がれてはならず、Aさんは自身の記憶をリセットし、Bさんの記憶を持った状態で新たに存在する必要がある。このことを簡潔に表現するなら、次のようになる。

 

「Aさんは、元からBさんだったことになった。」

 

6.生まれ変わりは認識できるか

 これでめでたく生まれ変わりについて描写できたが、一つきわめて重要な問題が新たに浮上してしまう。それは、Aさんが「元からBさんだったことになった」ということを、つまり生まれ変わりが起こったことを、誰も認識できないということだ。

 記憶が引き継がれず、またメタ記憶の存在もない以上、本人に生まれ変わりを認識する余地はないし、本人が本人のままであるなら、むろん他人がその人に生まれ変わりが起こったかどうかを判断することもできない。生まれ変わりは可能かもしれないが、それは決して認識できないのだ。

 だが、決して認識できないものをわれわれは現に起こっていることとして肯定できるだろうか? 私は、実はいつかどこかで生涯を送ったXさんが生まれ変わって私となり、かつ元から私だったことになったのだ、などという言明に対し、疑問をさしはさむことなく賛成することができるだろうか? 生まれ変わりは、本当にあるのか?

 

7.結論

 わからない、それが今の私の答えだ。可能性として生まれ変わりがあり得る(次の段落参照)以上、むげに否定することもできないし、それが決して認識できない以上、絶対にあるとも言い切れない。私は1.で生まれ変わりについての身近なイメージを挙げ、「それについて論証もできなければ、反証もできないという理由で、あくまでも空想の域を出ない」と述べたが、それは生まれ変わりの認識不可能性から導かれる当然の帰結だとも言える。ただ、決して認識できないが可能性はあるということからは、生まれ変わりが常に起こっているという帰結も導かれるのではないか。

 

 生まれ変わりが常に起こっているのではないかという恐怖にも似た感覚は、実は私が常に持っているものだ。私は眠りが浅く夢をよく見るのだが、なにか自己の奥深くから湧き上がる他者の声に戦慄することがしばしばあるし(それは女性の声であることが多く、また何らかの視覚的イメージを伴うことが多い)、起きている最中でもこれに似た感覚にとらわれることがある。この感覚があると、何やら自分が自分でなくなるような感じがして恐ろしい。私は先の段落で「可能性として生まれ変わりがあり得る」と無条件に言ってしまったが、それはこの感覚が間違いだとはどうしても言い切れないからだった。

 今回の文章は、実はこの感覚を掘り下げてみたくて『スピリットサークル』をきっかけに書いてみたものである。明確な結論は出なかった(出しようがないことがわかった)が、書いていくうちに少しすっきりとした感覚が得られたのは収穫だったと思う。

 ただ、私という存在がなぜこれなのか、どこから来てどこへ行くのか、という疑問や、私の奥底にありすべてを包み込む大きな流れのようなものの感覚を持ち続けるかぎり、生まれ変わりに恐怖する感覚がなくなることはないのかもしれない。

 

8.付論

 Aさんが死んで魂がBさんの肉体と結びついても、Aさんの記憶を保持し続ける限り、それはAさんのままである、と先に私は述べた。少なくともそれが起きた(ことにAさんが気づいた)直後は間違いなくAさんは自身をAさんだと認識するだろう。――だが、時間が経ったら? Bさんが属していた環境に次第にAさんが適合し、Bさんとして生きることがむしろ自然だと思えるようになったら、そのとき彼あるいは彼女は誰なのか? 周りが自身をBさんだと認識し、かつ自身もBさんとしての生活になじんでいる状況において、Aさんは自分を誰だと思うのだろうか?

 

 このことについては、松浦だるまの『累』という漫画が参考になるかもしれない。人格が肉体を行き来する状況が続くとどうなってゆくのかを描いた名作である。もちろん、この視点以外にも見どころはたくさんあり、読者を大いに楽しませてくれるだろう。

 

古典を読む

 

30年の長きにわたる平成も終わり、令和初の年明けを迎えました。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

 せっかくなので、なにか新しいことを始めてみたくなりました。私にできることは多くありませんが、本と中国語に少しだけ触れたことがあるので、中国の古典を自分なりに読み解いて、ブログにつらつら書き残してみようと思います。

 今まで数多くの方が翻訳してきた古典を、今さら専門家でもないわたしが翻訳することに何の意味があるのか、とも思いましたが、いざ古典を読んでみるとこれまでの解釈に疑問を持つこともしばしばあり、またこれまでの翻訳はほぼ紙媒体なので、わたしなりに読み解いた古典をインターネット上に掲出することは、まったくの無意味ではないだろうという結論になりました。

 古典を読み解くにあたっては、スマートフォンで隙間時間にも読めるようにできるだけわかりやすい表現で、なおかつ単なる一般論に終始するのではなく、わたし自身が納得できるよう読んでいきたいと思います。第一弾は、「最上至極宇宙第一の書」(伊藤仁斎)こと『論語』を扱います。掲出開始は、一月中を予定しています。

老成の話

 池田晶子の「病気と元気」というエッセイに、次の文章があった。

 

  ……ぼんやり待合室に座っていたら、小学生の男の子が、母親の押す車椅子で通りかかった。様子から、長期の入院であることが窺える。大きな膝掛けに足をくるみ、熱を計るかのように、けだるげに額に掌を当てていたその子の顔の、なんと老成していたことか。私はしばらく、目が離せなかったのだ。あんな顔の子供は、初めて見た。

 

 この文章を読んで、私はある少年のことを思い出した。6歳のときのことである。以下、そのときの思い出を書きつづってみたい。

 

 小学校入学直前の春のことだったと思う。夜中、突然の猛烈な腹痛に襲われた私は、朝一で病院に駆け込むと、盲腸炎だと診断された。翌日、手術室に担架で入っていくとき、なんだかドラマのワンシーンみたいだな、と思ったのを覚えている。見送りに来てくれた両親は、悲観というほどではないがやはり心配そうな顔をしていた。麻酔は全身麻酔で、白衣を着たいかにもなお医者さんが口にマスクをあててきた。「眠くなりましたか」と聞かれ、謎の対抗心が生まれた私は、即座に「眠くないです」と答えた。気づいたらベッドの上にいた。手術は無事終了した。

 私がその少年と出会ったのは、その翌日のことであった。少年といっても、当時6歳の私よりはだいぶ年上だったと思う。おそらく小学校高学年か中学生くらいの年ごろだったろう。

 ベッドの上で暇そうにしている私に、両親はさっそくゲーム機を買ってきてくれた。当時の最新機種、ゲームボーイである。ソフトは「ポケモン(クリスタル)」「ポケピンボール」「ドンキーコング」の3つだった。それまでゲームを買ってもらえなかった私は、入院してよかったと喜んだ。

 買ってもらったソフトの中で、真っ先に熱中したのは「ポケモンクリスタル」だった。しかし、「レポート」機能を知らなかった私は、ある程度まで進めると電源を切り、また最初からやり直す、ということを繰り返していた。ゲームというものがよくわかっていなかった私は、多少の違和感を覚えつつも、まあそんなものかと思いながら遊んでいた。

 そんな私を見るに見かねてレポートを教えてくれたのが、その少年であった。6人がいる病室の中で、入って右奥が私のベッドで、そのひとつ手前が少年のベッドだった。彼は、いつもどおり電源を切りそうになる私に声をかけ、「レポートすればここからまた始めれらるよ」と言い、またポケモンについていろいろなことを話してくれた。その少年と私はすぐに仲良くなった。両親も、当時引っ込み思案だった私に仲の良い友人ができたことを喜んでくれた。

 だが、私はその少年のことを直視できなかった。6歳の私から見ても驚くほど彼が病的に瘦せていたからである。文字どおり骨と皮だけの身体だった。彼は立つこともできず、常に車いすに乗っていた。

 彼の顔をはっきりとは覚えていないが、その吸い込まれそうな目だけは鮮明に覚えている。黒目のふちは他の人よりも茶色が強く、それでいて中心部はなにか人を引き付けるような黒、真っ黒だった。フチなし眼鏡をかけていて、私と話をするときは目をまっすぐに見て話す人だった。

 私が退院する前日か前々日、彼は別の病室に移動になった。「元気でね」とお互いに言い合ってお別れをした。それまでの入院生活では泣かなかった私だったが、そのときばかりは大泣きに泣いた。

 どうやら、私と彼だけが話をしていただけでなく、親同士でもやり取りをしていたらしい。私が退院し、小学校生活を送り始めてしばらくしたころ、母から、あのときの少年が亡くなったことを教えられた。

 

前置きが長くなってしまったが、上に挙げた池田晶子の文章を読んで思い出したのは、その少年の目だった。あの目、茶色なのに真っ黒な目、奥にぐいぐい引き込んでくるような目。あれだけの目は病気をせずに健康に過ごしてきた小中学生にはとうていできないようなものだった。生まれてから何不自由なく過ごしてきた人間があの目をするためには、どれだけ年を重ねなければならないか。おそらく死ぬまであの目を手に入れられない人間もたくさんいるに違いない。池田晶子の言うとおり、病気は人を老成させるのだろう。

 

思うに、人を老成させるのは、なにかの欠如なのだ。健康、お金、円満な家庭……。心にぽっかり穴が開いて、どうして自分が生きているのかわからなくなって、つらくて、だから自分の存在や世界について考え、観察し、そしてしずかに耐えること。この繰り返しが、人を老成させてくれるのだろうと思う。むろん、生まれながらにして老成しているような人間もまれにいる。だが、老成している人間のうち大部分は、なんらかの欠如を抱えた人間のような気がしている。

顔を見て少し話せば、その人がこれまでにどれほどの欠如を経験してきたか、なんとなくわかる。そうでない人とは顔つきが違うのだ。欠如を知る人間は顔つきが大人びていて、そうでない人間にはどこか幼さが残る。

老成にはなんらの欠如が伴うものだとすれば、すべての人間に老成しろとはなかなか言えない。他人を苦しませる権利など少なくとも私にはないからだ。しかし、人間のうち大半は後者で、かつ社会を動かしているのも後者であるにかかわらず、私はなぜだかいつも前者に惹かれてしまう。

欠如がもたらす強さ、やさしさ、余裕……こうした性質が、周囲の人間を感化し、苦しみのない老成をもたらしてくれることを願うばかりである。

翻訳の話

 

1.翻訳は不可能?

A:翻訳ってさ、ほんとうに可能だと思う? 僕さ、翻訳はほんとうはできないんじゃないか、って思うんだ。

B:そうかな、僕は可能だと思うなあ。だって、現に翻訳はいたるところでなされているじゃないか。君の好きな『カラマーゾフの兄弟』も『ワーニャ伯父さん』も、みんな翻訳のおかげで読めるんだよ。

A:うーん……それはたしかにそうなんだけど、僕が言いたいのはそうじゃなくて、たとえば僕が「赤」と呼ぶ色と英語の「red」の指す色は違うはずでしょ? 言語が異なれば世界の切り取り方も異なる、ってのはよく聞く話だしね。だとしたら、僕が「赤」と伝えたくて「red」と言ってみても、僕の伝えたいことはほんとうは伝わっていないことになるじゃないか。

B:なるほど、君の言うことは一見もっともだけど、ちょっと吟味する必要があるな。たしかに、言語が異なれば世界の切り取り方は異なるだろう。それは色に限った話じゃなくて、感情や思考をはじめ、あらゆることに当てはまるといえる。このことについては僕も異論はないよ。ただ、気をつけておきたいのは、この議論がそもそも翻訳可能性を根底に置いたものである、ということだな。まあこの話についてはあとの方ですることになると思うけど。

A:えっ? 僕は翻訳がほんとうはできないんじゃないかって疑問を出したつもりだったんだけど……

B:翻訳可能性云々の話はあとにするとして、じゃ逆に質問するけど、君が「言語が異なれば、世界の切り取り方も異なる」と言うとき、世界の切り取り方が母語と別言語で異なることはどうしてわかるんだい? 君が「赤とredは同じ色を指すと考えられているけど、ほんとうは違っているんだ」と言うとき、その「ほんとうは」はどこからくるんだい? だって君は日本語話者で、日本語のことはわかるかもしれないけれど、英語のことはよくわからないはずじゃないか。だとしたら、君が言えるのは「翻訳は伝えたいことを伝えてくれているかわからない」ということだけで、それを「翻訳はほんとうは不可能だ」と言ってしまうのは一種の越権行為なんじゃかないかな。

A:むむっ。それじゃ、中国語の「吃」には日本語の「食べる」と「飲む」の意味があるんだけど(薬を飲むときには「吃」を使うんだ)、これは「吃」にそっくりそのまま当てはまる言葉が日本語にないってことの端的な例で、翻訳の不可能性を意味してるんじゃないのかな?

B:それは翻訳の限界を示すものかもしれないけど、不可能性は意味しないと思うね。中国語の原文で「吃」が使われていたとして、なにか物を口に含んでいたら「食べる」と訳し、薬を口に含んでいたら「飲む」と訳せばいいだけの話だからね。翻訳いっちょあがりさ。僕の出身地の青森県には「津軽弁」っていう方言があって、すっごく寒いことを「しばれる」って表現するんだけど、たしかに「しばれる」に相当する単語は標準語にはないんだ。でも、標準語で「すっごく寒い」って言えば「しばれる」で表現したいあの寒さをだいたいは表現できる。逐語訳ができなければ、臨機応変に言葉を組み合わせるまでさ。

A:そんなもんかなあ。

B:そんなもんだよ。それじゃ、異なる言語間の話だとちょっとわかりにくいから、僕と君との会話を例に、翻訳の話をさらに進めてみようか。

 

2.言葉の機能と伝わらなさ

A:翻訳? いやいや僕と君は同じ日本語を使ってしゃべってるじゃないか。しかもお互い標準語で。

B:ところが実はそうじゃなくて、僕らは今でもちゃんと翻訳し続けているのさ。むしろ、僕たちが言語を使ってコミュニケーションをとるときには、どうしたって翻訳せざるを得ないんだ。翻訳なしのコミュニケーションなんてまずありえないと言っていい。僕がさっき「この議論がそもそも翻訳可能性を根底に置いたものである」なんて仰々しいことを言ったのは、実は言語の有するこうした特徴を念頭に置いてのことなんだ。

A :なんだか難しくてよくわからないなあ。

B:君はさっき「赤」と「red」の違いについて話していたよね。でもそれなら、僕の言う「赤」と君の言う「赤」も違うんだって言えるはずなんじゃないかな。

A:あ、たしかに。みんなこの色を「赤」って呼んでるけど、実は他人の目には僕が「緑」って呼んでる色に見えてるんじゃないか、逆に僕が「緑」って呼んでる色は、みんなの目には僕が「赤」って呼んでる色に見えてるんじゃないか、みたいなことはたまに考えるな。

B:僕が言いたいのもまあだいたいそんなところだね。ただ、僕の論点はさらにそれを突き詰めたようなところにあって、そもそも世界で物が見えているのは僕だけなんだ、という立場にいったん立っているんだ。だって僕は僕の目からしか物を見たことがないし、この赤だって実際には僕にしかわからないんだからね。

A:うんうん、それは比較的わかりやすいね。僕が見聞きしたり経験したりすることは、究極的には僕ひとりのものだ。それは正しいよ。

B:「究極的には」なんて仰々しく言わなくたって、はじめから君だけのものだよ。世界のうちにはただ一人、特殊なあり方をしている僕という人間がいる、これはどうにも疑いようがない。でも、大切なのはここなんだけど、そのことを一体どうやって言葉で表現できるというんだろう? だって、僕が「世界のうちで僕だけが特殊なあり方をしている」と言えば、少なくとも君は賛成してくれるわけだけど(さっき君は「正しい」と言って賛成してくれたね)、でも僕っていうのはそういう賛成すらできないような別格の存在なんだということが、「世界のうちで僕だけが特殊なあり方をしている」という言葉で表現したかったことなんだよ。僕が言いたかったことはどうあがいたって原理的に伝わりようがないし、相手に伝わったときそれはいつの間にか変換されてしまっているのさ。わかるかい、このびっくりするような違いが?

A:あ、そっか。「世界のうちで僕だけが特殊なあり方をしている」という言葉を聞いたとき、ほんとうはBくんがBくんについて言ったはずなのに、僕はいつの間にかそれを僕の話として受け取っちゃってたな。これが君の言う「変換されてしまっている」ってこと?

B:そう、まさにそのとおり。言葉は必然的にこのことを変換して覆い隠してしまうのさ。そういう機能がすでにインプットされているんだね。で、このことっていうのはつまり「世界のうちで僕だけが特殊なあり方をしている」ということで、僕らはこうした機能を持つ言語を使ってコミュニケーションをとるわけでしょ? だから、コミュニケーションとは、「世界のうちで僕だけが特殊なあり方をしている」ことを変換して覆い隠してしまうことによって成り立つ、ともいえるわけだ。

A:言葉によっては伝えられないこと、それが自分にとって一番身近なことなんだね。でも、それってちょっと寂しいような気もするなあ……結局僕は他人に対して何にも伝えらないんじゃないか、絶対にひとりぼっちなんじゃないか、って不安になってくるよ。

B:いや、それがそうでもないんだよ。だって、すべては伝わっているんだからさ。

 

3.すべては伝わっている

A:え? いやいや、それが全然伝えられないというのが今まで話してきたことじゃないか。

B:それじゃ聞くけど、その「伝えられないこと」っていうのは何を指すんだい? 「世界のうちで僕だけが特殊なあり方をしている」こと、なんて言うのはナシだよ、だって全世界の70億人が同じことを言えるわけだから。70億人が同じことを言えて、それを理解できる以上、それは70億人に共通していると言わざるを得ないでしょ? 同様に、この色を「赤」と呼んで、それが他人にも通じるなら、その他人も同様にこの色が「赤」に見えているのさ。それ以上のことはない、少なくともないと前提することによってコミュニケーションは円滑に進むんだ。

A:なるほど、たしかに「夕焼けが見事に赤いねえ」と言われて「あなたはそうおっしゃいますが、あなたにはこの夕焼けがほんとうに赤に見えているんですか? あなたが見ているその色は、実は僕が緑と呼んでいるその色なんじゃないですか?」なんて返事したら会話が進まないもんね。

B:そう、だから「夕焼けが見事に赤いねえ」と言われたら、その人にも自分と同じように赤が見えていると理解するしかないし、「世界のうちで僕だけが特殊なあり方をしている」と言われたら、その人も僕と同じようなあり方をしていると理解するしかないんだ。……ここまできたら、僕がさっき言った「翻訳可能性」っていうのも何のことなのかわかってくるんじゃないかな? 「翻訳可能性」っていうのはね、なんてことはない、日常的な言語を使いこなす能力のことなんだ。この能力がある以上、翻訳はすでに可能になってしまっているのさ。言語表現に乗っかるものはすべて伝わりうる、ただし自分自身にとって一番身近で大切なことを覆い隠し続けることによってね。

A:なるほどなあ。

B:で、話を戻すと、「赤」と「red」の指す色はたしかに違うかもしれない。だけど、それらが単純に比較できないものである以上、「赤」と「red」の指す色は一応は同じだと考えてコミュニケーションするしかないんだ。もちろん、赤に見えたから「red」と言ったら、「いやそいつはpinkだな」と言われちゃうことはあるかもしれない。たしかにそれは翻訳の失敗といえる。でも、そしたら自分の中で「赤」「red」「pink」の基準を修正すれば、次に似たような場面があったとき「pink」とちゃんと言えるようになるじゃないか。そしたら翻訳は成功だってことになるよね。そして、この修正がそもそも可能だということが、まさに「翻訳可能性」の上に成り立っているんだ。だから、僕らはすべてが伝わりうることを前提に、今までどおり言葉を使っていくしかないのさ。

A:今まで何気なく使っていた言葉って、単純に見えるけど案外複雑で、それでいて整合性が高いのかもしれないね。

 

4.疑問ふたたび

A:……あれ、でもさ、僕らが言語を使う以上は「翻訳可能性」に立脚せざるを得なくて、それ以上のことが言えないことによってコミュニケーションが成り立っているんだよね? だったらさ、僕が考えた疑問とか、「世界のうちで僕だけが特殊なあり方をしている」って事実は、いったいどこから出てくるの? というかそういうことはそもそも無意味なことなの? もし仮に世界のすべてが「翻訳可能性」に徹頭徹尾立脚したものだったら、そうしたことは出てこないはずじゃない? これはいったい何なのさ。

B:それもめちゃくちゃおもしろいトピックなんだけど、今日は議論がひと区切りついたところでやめにして、これから先は後日ゆっくり話すとしよう。

そうであったかもしれない自分の話

 最近、「サイコパス」という大変優れたアニメを見た。そこで今回は「サイコパス」のおすすめをするとともに、本作品を見て考えたことの一部を書いておきたい。

 

1.サイコパスのおすすめ

 「サイコパス」は、近未来の監視社会を描いたSFアニメである。そこでは、「シビュラシステム」というシステムの下、人間の性格や能力等、わたしたちの社会では「内面」とされる要素を含むあらゆる事項が客観的基準(数値化)によって測られる。人々はシビュラシステムが提供してくれる客観的基準に身をゆだね、シビュラシステムが下す判断――たとえば職業選択における――を当然のこととして受け取る。彼らは文字どおり「ゆりかごから墓場まで」をシビュラシステムの下で生きるのだ。

 この社会では、当然、犯罪もシビュラシステムによってコントロールされる。人々は「犯罪係数」を持ち、それが一定値を超えると「犯罪者」と見なされる(作品中では「潜在犯」と呼ばれる)。彼(女)が実際に犯罪を起こしたかどうかはここでは一切関係ない。潜在犯であることの基準はただ一つ、犯罪係数なのだ。そして、潜在犯になってしまったが最後、社会の安全を維持するため、彼(女)の身柄の自由は拘束される。「安全」という言葉は、潜在犯の社会からの隔離を意味する。

 このように、あらゆる事項が客観的基準で測られる社会、とりわけ一般人/潜在犯、善/悪の区別の基準が数値という客観的指標に完全に置き換えられた社会は、ある意味で理想郷ともいえる。その数値計測が正しく、また基準の線引きが正しい限り(だが、シビュラシステムの正しさは誰が保証するのだろう?)、そうした社会は大多数の人間にとって極めて安全で、かつ便利だからだ。自分が考える必要もなく、勝手にすべてが決まっていき、勝手に安全が保たれている。なんて便利で、なんて楽な社会だろうか。

 本作品の主人公である常守朱(つねもり・あかね)は一般人であり、この社会の恩恵を享受する側の人間である。犯罪係数が「優秀な」彼女にとって、潜在犯は遠い世界の話だった。だが、シビュラシステムの職業選択に従い「公安局」(警察組織)に配属された彼女は、潜在犯を捕らえる仕事に従事するようになる。しかも「執行官」と呼ばれる潜在犯と協力するという特異なやり方で(執行官とは潜在犯を捕らえるため最前線に駆り出される潜在犯である。危険な役割は潜在犯にさせておくほうが得なのだ)。

 

2.考えたこと

 ここから先はアニメを見ていただくとして、わたしが考えたのは「潜在犯がもしわたしだったら、シビュラシステムによる監視社会は地獄以外のなにものでもない」という一見ありふれたことだ。「わたしが●●だったら」という言葉は、誰もが使ったことのある表現だろう。「わたしがお姫様だったら、たくさんの宝石でネックレスを作るの!」しかし、こうしたことはわたしが考えたことではない。

 

 わたしのいう「もしわたしだったら」は、特定の個人からも切り離されうる「わたし」というものを念頭に置いての話なのだ。わたしが「潜在犯がもしわたしだったら」というとき、その「わたし」がたつのすけである必要は全くない。むしろ、今たつのすけである「わたし」が「わたし」であるままで、潜在犯Aの「わたし」になること。これがわたしの言いたかったことであり、この社会を考えるうえで一番危惧していることだ。

 思えば、なにもシビュラシステムのある社会だけに限った話ではない。わたしたちが生きるこの社会でも、わたしの危惧は十分に妥当する。常々不思議でならないのが、たとえば「炎上」に参加する人々の態度だ。彼らは、「炎上している人がもしわたしだったら」という視点には全然立てないのだろうか? ほかにも、過去のファシズムを振り返って「大変な時代があったものだ」という人々。彼らは、「ファシストがもしわたしだったら」という視点には全然立てないのだろうか?

 繰り返すが、これは特定の個人と結びついた「わたし」の話をしているのではない。どういうわけか知らないが、なぜか今ここにある「わたし」の話をしているのだ。「わたし」は、特定の個人には全くわからない間に、次々に人から人へと移ってゆくかもしれない。もちろん、そうである保証はどこにもないが(原理的にありえない!)、かといってこの「わたし」の発生を特定の個人と結びつけられない以上、「わたし」を媒介にして人々を結びつけてみるのもあながち無理ではあるまい。いや、むしろわたしにとって、「わたし」がわたしと他人を結びつける要素であることは、もはや自明とも言える(この直観を検討してみたくてこの文章を書きました)。この「わたし」がたまたま多数派に属しているということは、少数派をないがしろにしてよい理由にはならない。たまたま多数派に属しているこの「わたし」が少数派をないがしろにするとき、この「わたし」は確かに傷つかないが、ないがしろにされた「わたし」は傷つくのだ。

 

 問題は、このことをシビュラシステムに話してみたとして、話の趣旨が通じるのかということだ。おそらくシビュラシステムはこう言うだろう。「あなたのおっしゃる、「わたし」が特定の個人に結びつくどころかむしろ自己と他者を媒介しうるものであるとの意見は、われわれにとって傾聴に値するものと判断します。なぜなら、「わたし」が自己と他者を媒介するものであるとすれば、社会のシステムはその構成員――つまり「わたし」の集合体です――の「最大多数の最大幸福」を目指すものでなければならないはずですが、これはまさにわれわれの目指していることだからです。われわれは、あなたの望みどおり、人々の幸福の総体が常に最大となるよう、あらゆる事項を数値化し、監視し、社会の安全を効率よく保ち続けます。……」

 

 シビュラシステムの解釈はまちがっているだろうか?

魔法使いの話

 

 以前は何とも思わなかったが、自分で料理をするようになってから、料理が魔法みたいに思えてきた。生ではとても食べ進められないような食材が、ちょっと手を加えるだけで美味しいレシピに早変わりする。僕はその手軽さにいつも驚かされる。生の食材(おいしくない!)と完成したレシピ(おいしい!)との間には、ちょっとした手間ひまで埋められる以上の差があると感じるからだ。だから僕は、その差が現にこうして埋まってしまうのは、料理が実は魔法だからにちがいない、と思っている。

 

 思えば、これは料理に限った話ではなく、言葉や芸術、工作など、モノに形を与える能力自体がそもそも魔法なのだと思う。今書いているこの文章だって、単なるスクリーン上のシミに見えないこともないが、それでもわれわれはそこに形を読み取り、言葉として認識できている。スクリーン上のシミと文章との間には途方もない断絶があるにもかかわらず、である。もっとも、われわれはみんな魔法使いなので、そんな断絶などひょいと飛び越えてしまうのだけれど。

 

しかし、もしそうだとしたら、こういう疑問が浮かぶだろう。――そもそもわれわれはいつから魔法使いになったのか? これについては「わからない」と答えるしかあるまい。われわれは気づいたときにはすでに魔法使いだったのであり、今やその魔法なしには何物も生み出せず、また何物も認識できなくなっているからだ。

先に僕は魔法について「形を与える」ことだと述べたが、それはあくまで外側から見たときの話だ。形を与える主体にとっては、それが一から十まで自分の意志でできるものではなく、むしろ「形を与えさせられている」感覚さえある。外から見ればその人が何かを作っているように見えても、その人にとっては実は形が初めから与えられていて、それを探り当てるだけ、といったような具合に。われわれは、自発的に魔法を使っていると同時に、使うことを余儀なくされている。

 

だが、そうはいっても世界のすべてが魔法に吸収されるわけでもない。たとえば、僕が今ここに生きていて、世界が今ここで開けていること。それは、唯一であるがゆえに、魔法からはすでに解き放たれている(この文章中では、もちろんすでに魔法にかけられてしまっている)。その魔法から何かかけがえのないものをすくい取る営みこそが、今ほんとうに必要とされているのではないか、と考えている。

 

 ちなみに、https://vegetaro.net/resipe-curry/のカレーのレシピが本当に美味しいのでおすすめです。みなさんもお時間のあるときに試してみてはいかが。

 

「書く」の話

 文章を書く方法について、僕は手書きよりも断然タイピング派だ。キーボードをリズミカルに叩くのはとても気持ちがいいし、文章の修正やレイアウトの変更が楽にできる。もちろん、メモなどは手書きのほうが便利だと思うが、いざ文章を手書きするとなんだか疲れてしまう。要は力を抜いて文章を作れるタイピングが好きなのだ。

 

「書く」の用法の変化

 ところで、パソコンやスマホなど電子機器の普及によって、「書く」という言葉は、少なくともその用法において大きく変わったのではないかと思う。電子機器の普及以前は、手を文字の形に動かすことこそが「書く」ことだった。このことは、手元のやや古い辞書に「書く」の意味として①筆などで線を引く②文字をしるす③文を作る、の3つが挙げられていることからもうかがい知ることができる。

 しかし、電子機器が大いに普及した今となっては、手を文字の形に動かさなくても十分に書けるようになった。というより、電子機器を用いて文章を作ることを、われわれは「書く」と呼ぶようになった。「書く」という言葉の③の意味に、以前にはない用法が付け加わったわけである。

 

 私は、このことだけでも十分に驚くべきことだと思う。なぜなら、「書く」という動作が、おそらく歴史上はじめて変化しつつあるだろうから(電子機器のない時代に、手を文字の形に動かす以外に「書く」方法があっただろうか?)。だが、もう一つ驚くべきなのは、手を文字の形に動かさない方法で「書く」ことがスタンダードになりつつあることだ。以下、手を文字の形に動かす書き方を「A書法」、反対に手を文字の形に動かさない書き方を「B書法」として話を進めていきたい。

 

A書法

A書法は、上述のとおり、おそらく「書く」の最も古い形式であろう。ここでいう「最も古い」とは、人類史上における古さだけを指すのではなく、われわれが「書く」という動作を習得するにあたってA書法が起点となったことをも指す。われわれは原稿用紙での作文や漢字ドリルなどを通じて、すなわちA書法を通じて「書く」という動作習得の第一歩を踏み出したはずだ。この意味において、A書法は「書く」の根本だといえる。

 

B書法

 他方、B書法は、電子機器の登場により誕生した「書く」の新たな形式であり、文字の形とそれに形を与える動作が一致しないという、「書く」という言葉の用法における画期的な事件だ。これについては、タイピングを例にして具体的に考えてみたい。

 たとえば、パソコンで「あ」という文字を書きたいとき、われわれはキーボードの上に手を乗せ、左手の小指を真下におろすだろう。きわめて単純な動作、文字の形など微塵も感じさせないほどシンプルな動きだ。だがしかし、この動作によって、スクリーン上には「あ」という文字が現に表れる。「あ」はちゃんと書かれたわけだ。

 当然、このシンプルで不思議な動作は、繰り返されることで文章となる。レポート、論文、原稿、会議資料…。途方もない量の文章が、この動作によって日々「書か」れている。われわれが普段目にする文章の大半は、実はB書法によるものなのだ(A書法は今もなお用いられているが、そのほとんどは教育か書類記入かメモ書きにおける使用であり、割合としては多くはあるまい)。今では手書きの文章を読むことに、かえって新鮮味を感じるだろう。

 

 私は先ほど、A書法が「書く」の最も古い形式であることを理由に、A書法を「書く」という言葉の根本に置いた。だが、今では文章の大半がB書法によって書かれ、A書法による文章はかえって物珍しいものになりつつある。私は、このA書法とB書法のねじれ ―「書く」という言葉の根本にあるはずの要素がその使用においてはかえって周縁に追いやられている矛盾― が、単なる「基礎―応用」の枠組みを超えたものに思えてならない。このねじれは、何に起因するのだろうか?また、これから何をもたらすのだろうか?

 

 A書法とB書法のねじれに関する問いのうち、前者に対しては「文章が作られる場が紙面上から画面上に切り替わったから」というシンプルな回答に尽きる。問題なのは、後者への回答である。

 このねじれが「文章が作られる場が紙面上から画面上に切り替わった」ことによって生じ、「今では文章の大半がB書法によって書かれ、A書法による文章はかえって物珍しいものになりつつある」のだとすれば、「書く」という言葉においてB書法の占める重要性はこれからも増加し続けると考えてよいだろう。電子機器は今後も紙に取って代わり続け、B書法の場はさらに広がっていくだろうが、その逆を考えるのは難しいからだ。

 思い出していただきたい。A書法が「書く」という言葉の根本にあるのは、われわれが「A書法を通じて「書く」という動作習得の第一歩を踏み出した」からであった。だが、B書法が日増しに勢いを強める今、まさにその第一歩までもがB書法に取って代わられる可能性すらあるのだ。人が文字を「書く」ことを学ぶとき、そこに用意されているものは紙とえんぴつではなく電子機器、そんな日がくるかもしれないのだ。

 いや、その日はむしろ確実にやってくるとさえいえる。「今の若者は文字が書けない」としばしば言われるが、それは「書く」という言葉がその根本から(A書法からB書法に)現に変わってきていることの何よりの証拠だ。「今の若者」だって文章は書く。それがA書法である必要がなくなってきただけだ。そして、「今の若者」が大人になるにつれて、「書く」の根本にB書法を置く人の割合は、A書法を根本に置く人を上回る日が来るだろう。そうなってしまえば、「書く」の習得にあたって、A書法を重視する必要性はいったいどこにあるだろう?

 

C書法

 今、A書法からB書法への猛烈な変化が起きている。これについては上述のとおりである。だが、「書く」をめぐる展開はこれで終わりではない。テクノロジーの進歩に伴い、これからはB書法から「C書法」への展開もありうる。何が「C書法」なのかは断言できないが、A書法からB書法への展開を「書く」動作の簡略化のプロセスだととらえるなら、おそらくC書法は手をそもそも動かさないようなものだろう。つまり、C書法においては文字が肉体を経由せずに直接形を与えられる。たとえば、音声や脳波などによって。今でこそ音声等による文章作成は「(音声)入力」という言葉によって表現されるが、今後それらがより一般的になれば、次第に「書く」という言葉によって表現されるようになるだろう。そして、「書く」という言葉は、その用法をまたもや変化させるのである。

 

おわりに

本記事では、先に「書く」の辞書上の意味として①筆などで線を引く②文字をしるす③文を作る、が挙げられていると述べ、続いてその動作の変化について述べてきた。だが、辞書上の意味は、動作における変化の著しさにもかかわらず、これからもそれほど変わらないだろう。あくまで変わったのは「書く」に伴う動作であって、その意味ではないからである。辞書上の記述に変化があるとすれば、せいぜい「パソコン・スマートフォンなどで」や「音声入力ソフトで」等を加筆する程度だと思われる。これまで私が論じてきた「書く」の変化は、辞書上の意味に大きな変化を与えるようなものではないのだ。

また、本記事では「書く」に焦点を当ててきたが、以上のことは「作る」に類する言葉(たとえば、描く、建てる…)にも程度の差はあれ当てはまるだろう。だが、これ以上は疲れるのでやめておく。

 

 

【余談】

B書法では、文字がすべてフォントに回収されるため、読み手からすれば文章はいつ誰が書いても決まった形をしている。本論中では述べなかったが、これもとてもおもしろいことだと思う。文章は、以前であれば文字の良し悪しも評価されたであろうが、今やその内容だけが評価される時代になった。

たとえば、Twitterにいう「クソリプ」は、同じ内容でもそれが達筆で書かれていたらとらえ方は異なっていただろう。「このリプ、まるで的外れなことを言っているが、字はめちゃくちゃ上手いな」というように。だが、悲しいかな、画面上ではクソリプは単なるクソリプでしかありえない。もっとも、達筆なクソリプが来たとしても、実際は感嘆するより「こいつ自分の字に酔ってそうだな」とイラっとすることにはなりそうだが。